思い出のマーニー

「お願い、許してくれるって言って!」

 

スタジオジブリ米林宏昌監督作品「思い出のマーニー」を見た。「借りぐらしのアリエッティ」は見ていないので、米林の作品はこれが初めてという事になる。

ジブリの鈴木プロデューサーが「男と女の話だとミヤさんがうるさいので女と女の話にしました」などと言っていたのでまたぞろ金儲けの権化がディズニーと手を組んで同性間の愛情でひと儲けしようとしているのかと――なにせ「アナ雪」、「マレフィセント」とそういった類の話が二本続いているので、まあ間違いなくそういう考えは持っているだろうから――なんとも嫌な予感を携えて行ったが、何の事はない。これはまったく「女と女の話」などではなかった。

なるほど確かに、形として見れば「女と女の話」だ。そうとしか言えないだろう。男なんてほとんど登場しないから。キャラクター達を並べれば女と女と女と女・・・と女ばっかりになってしまう。だが、この作品の肝である「マーニー」は完全にアンナの妄想であり、イマジナリー・フレンドであり、自己救済の手段である。この映画で描かれているのは要するに、アンナの独り相撲だ。この作品は「一人の女の話」と呼んだ方が良い。

アンナは明らかに嫌な人物である。人の親切を断る事も出来ず、身の内に鬱憤を溜め、しかもそれを留めておく事が出来ずに爆発させてしまう。このキャラクターの外見が信子と逆だったなら、絶対に好かれる事はないような、可愛いからまだ許されるような存在である。「可愛くないアンナ」はきっとそこら中にたくさんいるだろう。

そこに登場するのが「マーニー」だ。金髪碧眼、宮崎駿に「古い!」と言わしめた美少女の典型。そんな「マーニー」がアンナにとってとことん都合の良い存在であり、またその態度が明らかに男性性への働きかけを意識されていたのを見て、糞のようなアニメを見た時と同様の不快感を覚えた。何があっても主人公(=視聴者)を否定しない優しく美しい女性が存分に男性性を満たしてくれるようなアレだ。ついにジブリまで、このように視聴者の臆病な男性性を満たすだけの作品を作るようになってしまったのか、とも思った。どうか違ってくれと思いながら視聴し、その祈りは無事通じた。「マーニー」が男性性への働きかけを行っていたのはその妄想が元々「男と女の話」に基づいていたからであり、アンナは過去聞かされた物語を自らの妄想の中で追体験することで、自分が捨てられた子供、厄介ものであるという認識を取り除いたのだ。

 

この映画は自己救済の物語である。働きかけが相互するのでなく、自身の中で完結している。これはこれまでのジブリ作品にはなかった事だ。「男と女の話」と鈴木が述べたように、今までの作品は必ず「他人に変えられる」あるいは「他人を変える」物語だった。この変化を僕はあまり好ましく思えない。「人生で大切なのは、ただ生きたという事ではない。自分の人生を通じて、他の人々の人生をいかに変える事が出来たか、それが重要なのだ」とはネルソン・マンデラの言。他人と交わり、お互いに変化してこそではないのか。この作品はそうなっていない。主人公はマーニーに何の変化も与える事は出来ない。当然だ、「マーニー」は幻灯機に映し出された妄想であり、意識も人格も持ち合わせてはいないのだから。

あるいは、ここからもう一歩踏み出し、「妄想の中の人間」と「周囲の人間」の何が違うのかというところまで切り込んでいけば、面白いものになったかもしれない。もしくは時空が歪んで実際にマーニーとアンナが出会っていても良かっただろう。この映画は浅い。映画を見ていて常に次の展開が読めてしまうし、その想定からはみ出さない。それは監督の若さゆえだろうか。それとも。

 

だがまあ、不快感は理解によって取り除かれ、作品として「救済の物語」の体はなんとか整えられている。作画は流石のジブリだ。というわけで、思ったほど、悪くはなかった。米林の今後の仕事に期待する。

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