宇宙よりも遠い場所

「・青春、する。」

 

NHKみんなのうた「月のワルツ」のいしづかあつこ監督、京都アニメーション「響け!ユーフォニアム」の花田十輝脚本。MADHOUSE制作のオリジナルアニメーション「宇宙よりも遠い場所」を7話まで見ての感想。

 

1話から見ていてまず明確に意識したのは、「このアニメの根幹は南極云々ではない」という事だった。勿論大きなテーマではあろう。海上自衛隊、極地研究所などなど、錚々たる顔ぶれが協力者として挙げられ、ホームページには毎週南極関係者へのインタビューが掲載され、監督に至っては南極に直接取材に行こうとしたとまで言っている。南極という巨大なワンダーが作品を作り、整え、知らしめる燃料になっているのは間違いない。

しかし、ただ南極を描くだけならこのようなアニメにはならないだろう。主人公が女子高生? 物語の動き出しは落とした100万円を届けてあげた事? メンバーは二人で、とりあえず船を見に行って1話が終わり?

あり得ない事だ。南極を描くなら、南極から始めれば良い。もう少し面白いところを拾ってから行きたいというなら、南極へ向かう旅路からやったって良いだろう。だが、こんなところから物語を始めたりはしない。誰だってわかる。彼女たちが今立っている場所から南極に行くまでの道のりは、余りにも遠すぎる。

では何なのか。この1話と、新メンバーが加入していよいよ話が加速していく2話から僕が読み取ったのは、「少女たちが南極に辿り着くまでの軌跡」こそが、このアニメの真髄ですよ、という事だった。この文脈でも、大切なのは、「少女たちが南極に辿り着く」ことではなく、その「軌跡」だ。青春がしたいと泣いた少女が、青春が動いていると笑う。

青春って何だろう。その厳密な定義を、僕は知らない。しかし言葉は世界に溢れている。僕がそれらを読み解くために編み出した定義は、「後先を脇において、やるだけやる」。人は何かをする時色んな事を考える。スポーツをすれば筋肉痛になるかも。深酒が過ぎると二日酔いになるかも。余り遅くまで起きてると寝不足になるかも。そういった「未来のために今セーブする」という思考をうっちゃってしまって、ナウオアネバーの精神でもって何かをなそうとする事を、僕は青春と捉えている。だからきっと、このアニメもそういうことなのだろう。少女たちが南極に行こうとする。そこには沢山の障害が立ちふさがり、無理解が邪魔をし、そして少女たち自身の歪みもまた表出するだろう。そういったものにぶつかりながら、がむしゃらに南極を目指す、その軌跡こそが、この作品で描かれるものなのだろう。2話を見終えた時の僕の心持ちを、今にして言語化するなら、おおよそこのような感じになるだろう。

そんな予想は、3話で南極行きの特急券たる白石結月が加わり、4話で南極行きのための夏季訓練を始めてもなお磐石だった。だって物語世界での時計はまだ6月かそこらで(前期末テスト前)、夏休みすら迎えていないのだ。肝心の出発は11月。いくらでもイベントは起こせるのだからと、楽しくルンルン見ていた。お気楽に、3話を見ながら「友達」を持たない結月とバカグループの間の温度差に涙ぐみ、4話Cパートの不穏なめぐみを見ながら「ああ、動き始めてしまったキマリとの間で軋轢が生まれつつ、でも仲直りしてこの子がキマリの赤点を防ぐために勉強教えるのかなぁ」なんてのほほんとしていた。

予想が揺らいだのは、5話。アバンの段階で、もう行くという。南極に向かって発つという。この時点で僕は全校集会のめぐっちゃんみたいな顔になっていたと思う。それよりもっと困惑が表に出ていたか。ともかく、かなり動揺していた。だって余りに勿体無いじゃないか? いくらでもここにドラマを生み出せただろうに、なんでもう旅に出てしまうんだ?

そんな動揺の中でも、5話で描かれためぐみとキマリとの関係性の変貌には心を打たれ、また目を潤ませた。保護者面する事の気持ちよさ、そのために誰かをソフトロックしたいという薄汚い欲求に僕自身、身に覚えがあった。それを自覚し改めようとしてなお、相手に全てをぶちまける事で贖罪を為そうとする哀しいばかりのエゴイズムにも、身につまされる共感があった。このめぐみの行為もまた、「青春」だ。「青春」は選ばれた誰かだけの特権じゃない。世界中の誰のところにだって、存在する。ただ一歩踏み出せば、その足跡こそが青春になるのだ。そんな感じで僕は大いに感じ入りながら、(ああでもこの話8話ぐらいでやったらもっと鋭かったろうになぁ)というような事を考えていた。そして、2話を見た時点で描いていた「ずっと南極に行こうと頑張って周りの人間関係を浮き彫りにしていって最終話で10年ぐらい時間飛ばしてようやく南極に辿り着いてフィニッシュ」という予想ロードマップを頭から消し、シンガポールで何やるんだろう新キャラ出てくるのかなという割とフラットな状態で6話を待った。

6話では、5話とはまた違った形で、僕の薄暗い部分を刺激された。大切なものを失くした時の血の気がひいて行く焦りと、うっかりどっかに入り込んでるだけだと(本当は違うと半ばわかっていても)思い込もうとする現実逃避。気を遣われないように予め気を遣い、自分にとって都合の良い状態でだけ交信を行いたいという、薄皮を纏ったコミュニケーション障害。ある。僕にも覚えがある。若く、幼く、未熟。そんな中でも、自分なりにはなんとか体裁を保とうとしているという青臭さ。「相手のため」という自分のための言動。泣き出したいほどに、僕にとっては理解できた。そしてそんな雁字搦めを救ってくれる、境界線を踏み越えてくれるバカが存在しているという有難さを痛感した。こういう訳で、5話と6話は僕にはまるで双子のように映った。哀しい自意識が救われるのを見て、僕の中の変えられない過去、凝り固まった感情は慰撫され、挙句ド級の落差で物語のオチが付いたものだから、ゲラゲラ笑って作品を満喫した。

 

そして、昨日。7話が放送された。

この話を見て、ようやく。ようやく僕は、この作品の姿を目に捉えることが出来たような気がする。

この7話が描き出すのは、民間南極観測隊の大人たち。「青春」に身を投げ出しても、誰かがケツを持ってくれるかもしれない子供たちとは違う。未来を忘れてオールインするには、余りにも多くのものを背負っているであろう大人たちだ。そんな大人たちは、勿論「後先を脇において、やるだけやる」ような考えで、動いてはいない。それでもなお、「南極に宇宙を見に行く」という。これは、「夢」だ。

そう。この作品は、僕の定義するところの「青春」ものではなかった事に、やっとのことで僕は気付いたのだった。これは夢を追う人間の物語だ。(2018年3月1日追記。ここは、正確ではなかった。夢を追う人間の話だったから、という理由で感動したのではない。青春という、僕にとっては「一時的なイベント」だった概念と、夢を追うという「生涯をかけたイベント」。この、僕の中で独立していた二つの概念を、橋渡ししてくれた。接続してくれた。青春はいずれくる敗北に目を背ける事で成立しているものじゃない、夢という形でずっと戦い続けられるものなんだと、蒙を啓かれた事によって感動したのだ。)

僕だって知っている。ポンと飛び出た夢がそのまま現実を動かすなんて事は起こらない。夢を見て。夢を語って。そんな甘っちょろい事で、世界はウンとは言ってくれない。現実は厳しく、固く、冷たい。聞く耳を持たない。泣こうが喚こうが、計画は破綻し人は死ぬ。求めるものは得られず、望むものは見つからず、掴もうとしたものは零れていく。

それでも。人は夢を抱く。人は夢を追い求める。夢を、叶えようとする。時に泥水を啜り、肝を嘗める羽目になっても。思い描いた夢を、現実にしようとする。泣きながら、喚きながら。あがいて、もがいて、世界を変えようとする。

この作品はきっと、そんな人間たちの物語だ。「宇宙よりも遠い場所」は、南極だけど、南極じゃない。いつか、僕が、あなたが、彼ら彼女らが、誰かが見た夢。理想。こうありたいと思い、こうあるべきと信じた姿。それこそが、「此処じゃない、何処か」。「宇宙よりも遠い場所」なのだ。

南極を目指す女子高生だけの物語じゃない。民間観測隊も。高橋めぐみも。そして、僕も、あなたも。宇宙よりも遠い場所に向かって踏み出す全ての人のための物語。それが「宇宙よりも遠い場所」という、稀代のアニメーション作品である。

 

 

私たちは踏み出す。今まで頼りにしていたものが何もない世界に。右に行けば何があるのか、家はどっちの方かも分からない世界に。明日どこにいるのか、明後日どこを進んでいるか想像できない世界に。それでも踏み出す。

 

花とアリス殺人事件

今回紹介するのは、「スワロウテイル」の監督岩井俊二による実写映画「花とアリス」、の前日譚である所の「花とアリス殺人事件」である。実写映画の方はビデオ屋で全部貸し出されていたので未見のまま、こちらを見ることになった。両親の離婚がきっかけで引っ越してきた少女有栖川徹子――アリスは、転校先の学校でかつて「ユダ」が使っていた席に座ることになり、周囲から腫れ物扱いを受ける。「殺されたのはユダ。殺したのもユダ。ユダには四人の妻がいた。その事がほかの妻に露見し、一人の妻が毒を盛った……」“悪魔憑き”の少女陸奥睦美の計らいと自慢の脚力によってクラスに溶け込んだアリスは、一年前に起きたその「殺人事件」について知るべく、不登校になり留年した「事件の生き証人」荒井花に会うために彼女の住む“花屋敷”へやって来た。花はアリスの話を聞き、こんな提案をする。「あたしが手伝ってあげるから、君調べろ」こうして、アリスは真相究明のため、ユダの父親が勤めるコバルト商事に向かうのだった……。

このアニメでまず意識的になるのは、きっとキャラクターの絵だろう。生々しいような、のっぺりしたような、そんな奇妙な造型。見ていてしばらくは3D作画かとも思ったが、どうやら違う。これはロトスコープと呼ばれる、撮影した映像をトレースして動画を作成するアニメーション手法のひとつだ。このロトスコープ、単にデジタルな映像をフレーム単位でトレースすると通常アニメと異なるペースでコマ、というか画が変化してしまうので、なんとも間延びしたようなゆったりした動きになったり、そうかと思えばやたらと機敏で溜めのない動きになったり、間違いなくアニメであるにもかかわらず役者そのものをトレースした結果キャラクターの顔や体格が「(従来の――もっというなら日本のテレビの――)アニメらしからぬ」ものになってしまう。また、役者の芝居を撮ってからそれをトレースするという二度手間な作画方法の結果金も時間もかかるとか。それだけの労力を掛けて、挙句アニメとしては受けないのだ。金と時間の問題はともかく、少なくともロトスコープによって生み出される作画は日本のテレビアニメとその系譜としての劇場アニメを好む、恐らく日本アニメ界のボリューム層たるアニメファン相手の商売にはどうにも向かない(まあこの作品に関しては顔部分をかなりアニメらしい絵に寄せているので、アニメに慣れた身としてもとても見やすいが)。では何故、この作品でわざわざロトスコープが用いられているのか。そこに、僕は三つの理由を考えた。

一つは、「前作」の存在だ。僕のまだ見ていない実写映画「花とアリス」は、2004年に制作されている。一方でこのアニメ映画「花とアリス殺人事件」は2015年公開。十年の時を経て、キャラクター達の「過去」を描く。それを実写でやるのは中々難しい。童顔な日本人女優とはいえ、流石に十年前に高校生役を演じたキャラクターの中学生時代を演じるというのは厳しいだろう(これが舞台なら大人が子供を演じるような事は割とあるだろうが、映画などの映像媒体では中々そういうわけもいかない)。かといって別人に演じさせるには、時代が近すぎる。声も姿も芝居も違えば、それはもう同じ名前同じ設定であっても別のキャラクターでしかない。飽くまでも2004年に公開した「花とアリス」、そのスピンオフであるとするならば、同一性を如何にして保つのか。その一つの答えが、このアニメーション化という選択だったのではないだろうか。アニメなら、かつての役者に声を当ててもらう事ができる。そしてロトスコープなら、かつての役者に芝居をしてもらう事ができる(声はともかく、実際にかつての主演女優二人を使って撮影したのかどうか僕は知らないけど)。それに、元々実写映画のシリーズならその続編にやってくる客層も実写映画のファンが多かろう、ということであまりテレビアニメ的な客層へのアピールも過度にする必要もないだろうというわけだ。ただ一方でロトスコープによるアニメーションがアニメを見慣れていない人間の目にどう映るかというと、やはり不自然に見えてしまうのではないかという懸念は残る。何せ実際の俳優の顔と比べて明らかに造型が簡略化されている。アニメを見慣れない人間に、アニメ的表現がどこまで許容されるのか。これは僕一人では知りようの無い感覚なのでなんとも言えないが。

もう一つは、その演出効果。実写映像を元に線を描くロトスコープは、三脚やなんかで固定したカメラの定点的な安定したフレームも、手に持って撮った不安定な手ぶれも、レールに乗せてカメラを動かすような撮影方法もほぼ全て、実写映画と同様に描き出すことができる。その一方で、目が点になったり、顔の輪郭まで歪ませるような、漫画やアニメ的なつよい感情表現も用いることができる。実写とアニメのあいの子であるが故に、ロトスコープの取ることができる選択肢は広い。この映画の背景美術は完全にアニメやノベルゲームのそれで、幻想的という領域にも踏み込むその美しい光と色の世界の中を、重さを持った、ある種アニメらしからぬキャラクター達が動き回る事ができるというのは、強い長所だろう。

そして最後の理由。それは、実写をなぞって生み出されるその絵そのものの歪さではないだろうか。14歳(あるいは15歳)、中学三年生というその年齢は、考えてみれば実に奇妙だ。どう見たって大人ではない。しかし子供からははみ出しつつある。どう見たって女らしくはない。しかし少年(というか、未分化的な中性)からは脱却しつつある。二つの属性の間で、まるでどちらからも遠ざけられるような、宙ぶらりんな歪さ。それを表現するために、ロトスコープが選ばれたのではないか。そういう風に、僕は思った。

この最後の理由は、無論ただこの作品の作画方法がロトスコープであるというその一点から導き出されたものではない。劇中、「ユダ」が実際のところ死んだのかどうかを調べるためにアリスが「ユダ父」を尾行しようとして、間違えてユダ父と同じ会社の年配の男性を追ってしまうシーンで、「生き別れの父」というあまりにもあまりなアリスの嘘を聞かされ、アリスを乗せて前のタクシーを追い、あまつさえ相手に声を掛ける白髪のタクシードライバー。喫茶店での年配の男性の腕まくりや、人違いと分かった後で駅まで帰る途中にあったブランコでの会話。二年を「チョー懐かしい」遠い昔として語る少女と、四十年を「短いもんだな」と思い起こす老人。終電間近のラーメン屋で、ヤンキーな感じの一団が見せた荒っぽい優しさ。彼らが見せるその「童心」あるいは「無垢」とでも言うべきもの。大人が時として見せる子供らしさ。それは普段意識されずとも、年配の男性の二の腕のように、確かに大人たちの中にある。そして一方で、大人は喪ってしまった一方で――それは若さかもしれない。あるいは時に「向こう見ず」や「考え無し」とも称されるような、その無軌道性かもしれない――、目の前の溌剌とした少女はなんてこともない様に湛えているものもある。それを無自覚なままに見せ付けられる眩しさ。それこそが、大人たちの子供らしさを照らし、表出させているのかもしれない。

そう。そんな眩しい何かが、この映画には溢れている。ユダの霊。同級生の死。終電に乗り遅れ、踊りながら見た満点の星。トラックの下で過ごす夜。消えた友人と走り去るトラック。無軌道で無責任な若者たちが生み出す、些細なる大事。
この映画で描かれる出来事のはどれも、実に些細なことだ。「ユダの霊をクラス全員が見た」。そう語ったいじめっ子だが、しかしそれは運悪く「ユダ」の席に座ってしまった少女の狂言でしかなかった。その少女の狂言も、「ユダが座っていた席」に割り当てられたせいでいじめられるという境遇から脱したかっただけの事だった。そもそもその「ユダの死」なる事件自体、湯田という少年が転校直前に蜂に刺されて倒れたという話が人の口を伝わるうちに膨らんでいっただけの事でしかなかった。ミクロにおける悲劇が、マクロにおいては時に喜劇になってしまうような、あるいは酸鼻極める惨劇の中で、個人の間では時に笑顔が生まれるような。当人にとってはどれほど大事であったとしても、他人にとっては些細な事でしかない事もある。そしてそれは、「若者」がすなわち「当人」であるとも限らない。アリスを駅まで送った後、年配の男性が言った「ありがとう」という言葉。その重さすら、アリスには届かない。おじさんと喫茶店に入って、公園で一休みしつつ、駅までぶらぶら歩く。そんな事は、アリスにとっては実に些細なことだ。そして一方でおじさんにとっては、きっと得がたい時間だったのだ。
翻って、アリスから事件のことについて問われた花の態度。頑なに「知らない」「知らない」と語るその態度に、最初に見たときは何の違和感も無く「事情も知らない人間が好き勝手に過去を穿り返そうとしていることに腹を立てているのだろう」と一人合点をしていたが、実際にはその態度は明確に、「知ってる」「気にしてる」「知りたい」という内心を隠し繕うための言葉だったのだ。ほんの軽い、些細な悪戯のはずだったのに、という自責の念。車の下で吐露された気に病み、悩み、家から出られなくなった花の抱える思いの方は、アリスにも十分伝わった。伝わりすぎて、また一笑い起きるのだけど。

こんな些細な大事は、時に無関係な人間を巻き込み、時に誰かを傷付けてしまう、とても迷惑なことかもしれないけれど。そこに、かつて自分が持っていたであろう何かの、狂おしく眩しい光を見てしまうのは、間違ったことではない。その光を懐かしみ、時に焦がれてしまうのも、きっと間違ったことではない。

Star Wars: The Last Jedi

「また会おう」

 

スターウォーズ・サーガ第八作目、エピソード8「スターウォーズ 最後のジェダイ」を見てきた。

この無精者はどうやら、エピソード7を見た時の興奮を同卓者に散々語って満足してしまったようで、ブログには残していなかった。仕方ないので、今軽く触れておく。

エピソード7の中では、沢山の……本当に沢山の、目配せがあった。既知のスターウォーズファンを喜ばせるようなちょっとした小物、ふとした台詞、懐かしいキャラクター。そして展開。

僕はエピソード7を見て、「ああ、この映画はスターウォーズの4から6を、一度にやってしまった。次から本当の、『新しいスターウォーズ』が始まる」と思った。

この予想は半分当たり、半分外れた。

エピソード8でも、かつてのスターウォーズを想起させるポイントが随所に見られる。しかしその上で、今回の映画はそこから続くお馴染みの展開を期待した僕の肩をすかす。一度や二度ではない。何度もだ。

こう思ったのは、僕だけではないだろう。何せ、プロモーションビデオからして嘘まみれなのだ。

宝物の如く手渡されたライトセイバーをルークはゴミのように投げ捨て、追い縋るレイへ当てつけるように奇怪な生物の乳を啜る。レイの修行シーンと思えたものは彼女が独りよがりにブンブンしていただけで、歴史を感じさせた岩はあえなく破壊される。

だが、映画を見たなら分かる。これは、ミスではない。彼らは意図的に本編内容を隠蔽した。

 

そして、それは大正解だった。

こんなスターウォーズは全く想像していなかった。僕の予想は大きく裏切られ、僕の期待を大きく上回っていった。

そして、エピソード7を思い返し、エピソード8の姿をようやく捉えた。これは、『破』だ。

守破離。

道を究め、何かを修めるにあたって言われる、三つの段階。

エピソード7は『守』の映画だった。スターウォーズを三度映画化し、熱狂を蘇らせるため、過去のスターウォーズを途轍もなく研究し、「スターウォーズらしさ」を見事に描いた。

そして、エピソード8は『破』だ。スターウォーズとは何か。今語るべき物は何か。スターウォーズらしからぬ展開、スターウォーズらしからぬ描写。スターウォーズがしなかった事の中に、確かにスターウォーズの真髄を落とし込んだ。

 

となれば、二年後。順当に行けば2019年の冬に公開されるであろうエピソード9へ掛かる期待は『離』でしかありえない。「スターウォーズ」という大いなる映画、偉大な物語から、どれだけ自由になれるのか。

彼らがスターウォーズという道の果てに、どんな答えを叩き出すのか。本当に、心から楽しみだ。

Blade Runner 2049

「何度も言ったわ。あなたは特別だって」

 

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」の続編、「ブレードランナー2049」を観てきた。勿論、原作としてフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が存在することは言うまでもないが、文脈としては明確に「ブレードランナー」の続編として語るべきであろう。今調べて知ったのだが、なんと監督は「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴであった。

そうは言っても一方で僕の印象としては、この映画は「ブレードランナー」に限らず、多くのSF映画への愛をもって生み出された作品であるように感じた。「2001年宇宙の旅」を思わせるような演出もあれば、「スターウォーズ」もかくやというガジェットの挙動があり、なんともクリストファー・ノーランがやりそうな映像もある。そして当然、前作であるブレードランナーの要素も盛りだくさんだ。これが僕の見立てどおり、様々なSF映画へのオマージュとして肯定的に受け取るべきか、それとも見立てどおりではあれどオリジナリティの欠如として非難されるべきものなのか、それとも単に僕が知識不足見識不足故に目に入ったものを自分の知っている僅かな知識と引っ付き合わせて喜んでいるに過ぎないのかは、今は置こう。

この作品の中で僕が最も心惹かれたのは、この作品が描く「愛」の形である。作中に「JOI」と呼ばれる、恐らくはAIを搭載した拡張現実式仮想彼女――卑近な物言いをすれば、考えて喋るARラブプラス――が登場する。レプリカントである主人公は、JOIと共に暮らしている。そんなJOIとレプリカントの関係性。これはそっくりそのまま、レプリカントと人間に置き換えることが可能な、同じ構造を持っている。作中で大きな意味をもって語られるように、レプリカントは子を生すことが出来ない。性交渉は行えても、命を育むことは出来ない。大抵の人間が、望まないままにでも出来てしまうことを、レプリカントはどれほど渇望しても得ることが出来ない。その関係が、このJOIとレプリカントに当てはまる。互いの肌を寄せ合い、舌を絡ませ、セックスを行う事を、JOIはどう足掻いても行えない。JOIとレプリカントのカップルは、壊れ物よりもなお儚い、映像と物質という差をせめて束の間意識せぬように、互いに水面に波を起こさぬよう、注意深く相手の輪郭をなぞり合う事しか出来ないのである。その注意深い行為そのものが、互いの差異を何よりも明確に意識させると知りながら。

その悲哀を、この映画は見事に描いた。JOIが主人公のために、娼婦を雇うのである。そしてその娼婦に自分を投影した状態で、性行為を行うのだ。JOIは恐らく持ち前の高い性能を駆使し、瞬く間に娼婦の行動と同期して見せる。だが、主人公がJOIの貼りついた娼婦を引き寄せた瞬間、即ち、肉体的接触を持った瞬間に、その同期は乱れる。躊躇いもなく顔を両の手で包み、滑らかに口付けを交わす娼婦の動きに対して、JOIは哀しいほどに遅れて動く。彼女にとって、接触とは空気椅子に座るがごとき、薄皮の向こうにある行いなのだ。どれほど望み、どれほど求めても、彼女の存在そのものが、彼女を縛り付ける。それでいて、彼女は特等席に座り続ける。自分の男が、自分でない女を抱くその景色を。砂被りどころではない、文字通りのゼロ距離で見続ける。これほどの悲しみがあろうか。

そして同時に、このあまりにも悲しい行いそのものが、JOIが途方もない愛を主人公に寄せている事をも指し示すのだ。JOIでは肉体的に男を満たすことが出来ない。それでも、JOIは男に、何か特別な贈り物を与えたかったから。愛するが故に、愛する男に女をあてがう。主人公もそれが分かっているからこそ、娼婦を抱く。一夜を終えた後の二人の間でなされる実に些細なやり取りは、全てを変えかねないその出来事の後でも、二人の関係性は全く変化していない事を強く印象付けてくれる。

 

この映画は、見事に愛を描いた。そしてその事で、「ブレードランナー」の続編としての役目を完璧に果たした。JOIとレプリカントの関係は、レプリカントと人との関係を映す鏡である。ならば、JOIとレプリカントの間に愛があるならば、レプリカントと人の間に愛のなかろうはずもない。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」。ディックは見ないと書いた。スコットは見ると描いた。ヴィルヌーヴもまた、見ると描いた。だから、この映画は「ブレードランナー」の続編なのである。

SUPER MARIO ODDESSY

「Take a turn, off the path Find a new addition to the cast, You know that any captain needs a crew」

 

世界で最も著名なゲームの一つ、「マリオ」シリーズ最新作。「スーパーマリオオデッセイ」を遊んだ。

僕は、あまりマリオを遊ばない。まあ一応遊んだ、と言っても許されそうなマリオシリーズは、「スーパーマリオRPG」と「スーパーマリオ64」の二本だけで、しかもカジオ―もクッパの三戦目も倒していない。今でもゲームはへたくそだが、当時はそれに輪をかけて、ドへたくそだったのだ。僕は人生において、マリオシリーズをクリアした事がなかった。

そんな惨状であるにも関わらず。或いは、そんな狭い世界で生きていたからこそかもしれないが。僕の中で上記の二作品は、新しいゲームに押されておもちゃ箱の奥に仕舞い込まれるのと同時に、思い出の中でも深く深く埋もれながら、しかし一方で、大地の圧力が時に宝石を生み出すがごとく。その輝きを刻一刻と強めていったのだった。

僕はある時期からかなり長い間、コンシューマ機でゲームを遊ぶことがなかった。そんな僕がコンシューマー機のゲームを見ても、その全ては色褪せていた。おもしろそうだな、と思ったソフトも、たのしそうだな、と思ったハードも。どうせ僕が手に取り、遊ぶ事はなかった。そんな環境では全てが、取るに足らない些細なものだった。思い出の中の宝石と比べれば、可哀想になるぐらいちっぽけなものだった。

一方で僕はその長い期間、パソコンを使って遊ぶオンラインゲームに浸っていた。様々な種類があり、いくつものタイトルを遊んだが、そのどれもが、上記の二タイトルとは、似ても似つかないものだった。僕にとってオンラインゲームの本質は画面の向こうの誰かとのコミュニケーションだった。極端な話、ゲームが詰まらなくても良い。そこに人がいて、くだらない話をしていられるなら、その場を提供しているゲームが素晴らしいものである必要はなかった。ゲーム体験の質が良い必要はなかった。そんなゲームを遊んでいて、思い出の宝石達に傷の一つだって入るはずがなかった。彼らはゲームとして素晴らしく、楽しく、僕が遊べて、そして何より、僕にとってはもはや思い出の中にしか存在しなかった。ゲーム、という観点において。オンラインゲームは端っから勝負にならなかった。

 

そんなゲーム体験を積み重ねていくうちに。僕の中で宝石は呪いと化した。最早、コンシューマゲームであろうとパソコンゲームであろうと、オンラインであろうとオフラインであろうと、僕にとっては関係なかった。全てが宝石と比べればくだらないゲームだった。美しく激しいアクションゲームを見るたび、僕は思った。「まあまあ面白そうだけど、マリオ64にはかなわない」壮大で痛快なRPGを見るたび、僕は思った。「なかなか楽しそうけど、マリオRPGにはかなわない」

これは、時が経ち、友人から中古の携帯ゲーム機を譲り受けてチョコチョコそれで遊び始めたり、Steamの存在を知って様々なゲームを開発するようになってからも変わることはなかった。

どんなゲームだって、完璧足り得はしない。粗いポリゴン。拙いプログラミング。ハードの限界。ズレた演出に穴のある筋、不自然なデザイン。そういったものは確かに存在していたはずだった。だが、そんな点は振り返らない。見返さない。美点だけが映し出され、長所だけが箇条書きされる。思い出は無敵の鉄壁となった。

それは、僕のデジタルゲーム人生を覆い、包み込んでしまう、偉大なる万里の長城だった。

 

そんな中。2016年10月下旬。

Nintendo Switchの第一報プロモーションビデオが公開された。カチン、という軽妙な音と共に組み合わされるJoyコンと、ノリの良い音楽は、実に僕の趣味と合っていた。興味が増して、見てみることにした。ゼルダ。カチン、スカイリム。カチン、なんか知らんバスケットボールのゲーム。カチン、僕のクソ苦手なマリオカート。「ふーん」と思いながら見ていた。面白そうだね。でも大丈夫。僕にはグレートウォールがあるから。そう思っていたら、カチン。そこにマリオがいた。三段ジャンプをしていた。僕の胸に沸いたのは、渇望だった。実に奇妙な感覚だった。僕には無敵の万里があるはずだった。サンシャインにもギャラクシーにも、あろうことかDSリメイクの64にさえ、その壁は一切揺るがなかった。なのに。どうしてか。ジャンプしてるマリオが、欲しくてたまらなかった。ビデオを見終わるころには、僕はSwitchの購入を決めていた(PV時点では、スプラトゥーンに対する印象は「ああ任天堂はやっと二画面とかいう遊びにくそうな方向性を一旦脇に置いたんだね」というのと「相当Esportsやりたいんだね」という程度しかなかった)。

 

僕は続報を待った。しばらくして、どうやらローンチでマリオは出ないらしいと聞いた。ガッカリしながら、それでもSwitchの大層な人気振り、売り切れの連続に慄き、マリオが出ても手に入らなかったら嫌だったので5月に入る前にSwitchを入手した。

また僕は待った。その間に12スイッチ、ゼルダの伝説BotW、ARMS、スプラトゥーン2と僕の人生の中でも一、二を争う頻度でコンシューマゲームを遊び、その面白さに童話酸っぱいぶどうを思い出しながらも、やっぱり3Dアクションゲームはマリオ64だよねという感は拭えないまま、数々の先行プレイ動画を見ながら首を長くして待ち、ようやく。2017年10月27日の午前0時過ぎ。僕はPUBGからログアウトして、マリオオデッセイを始めた。

マリオオデッセイは面白かった。でも64じゃなかった。楽しみながら、まだ僕は壁の中にいた。なんか違うんだよな。結局、64じゃないんだもん。マリオの声優は老けてるしさ。

そうこうしていると、64みたいな部分が見えてきた。64みたいなマップが出てきた。64みたいな演出が出てきた。

楽しいなあ。面白いなあ。しかも凄く64をリスペクトしてるなあ。僕はうれしくて、泣きそうになりながらも、でも64じゃないから壁の中にいた。ムーンを集めて、人生で初めて、3Dのクッパを倒した。ムーンを集めて、全マップを解放した(多分)。ああ、楽しい。まだまだムーンはある。取れるものも取れないものもあるだろうけど、まだしばらくこのゲームを楽しめるだろう。そう思いながら、しみじみこのゲームの主題歌を聞いた。僕は歌をただ聞くだけじゃなく、歌うのも大好きだから、歌詞を探してきて聞きながら一緒に歌った。

そしたら、僕の壁が砕け散った。

何故砕けたか、というのを語ることはまだ出来ない。この歌詞が、それだけ深く僕の心に刺さったからだろうとしか、今は思いつかない。ただ一つ確かなこと。この歌は、マリオオデッセイを曲がりなりにも遊んだ僕が歌って初めて、僕の中で完成した。

 

 

思い出は美しく、到底太刀打ちできない。マリオが生み出したそんなゲーム体験を打ち砕いたのは。結局のところマリオだったという、それだけの、とてもくだらない話。それでも、「Jump Up, Super Star!」を、歌詞ガン見しながらたどたどしく歌ってみて、僕の胸に突如溢れた感情は。どんな宝石の煌きよりも、輝いて見えたのでした。