Mary Poppins Returns

「忘れないよ、メリーポピンズ」

 

「メリーポピンズ リターンズ」を見た。1965年に公開された傑作ミュージカル映画「メリーポピンズ」が、50年の時を超えて新作映画になる。それを知った時、勘の良い僕はピンと来ていた。

今(と限定するまでもなく)、世界中でリメイクが流行だ。リブートを繰り返す各種ヒーロー映画に擬えるまでもない。「パディントン」「ピーターラビット」「美女と野獣」「くるみ割り人形」など、ディズニーでも他の会社でも、日本のアニメ業界でだって。ちょっと思い返せばいくつも出てくる。何も「リメイクは商業的に堅い」なんて擦れただけの考えでもないだろう。名だたる過去の傑作を見て育ってきた世代が造り手となり、それらを自分たちの手でもう一度やってやろうじゃないかと思うのは実に自然なことだ。それは、この「メリーポピンズ」という怪物を前にしてすらも同じことだろう。むしろメリーポピンズには最強の音楽がついている事だし、組み立てを多少いじってそれを流すだけでも戦えるものは出来てしまいかねない。言われてみれば良いチョイスだ。

などと。

今にして思えば赤面するより他にない、愚鈍にして蒙昧な考えを抱いて。それ以上の何を知ることもなく、僕は劇場にやってきた。スクリーンに入り、周りが暗くなっても。公開前に外の屋台で買ったまっずいお握りの事を思い出していたほどだった。

そして、映画が始まり、ほどなく。僕は己の勘違いに気付いた。ガス灯。車いすに乗った提督。優し気な父親。快活な伯母。3人兄妹。

これは、リメイクではなく続編だった。「メリーポピンズ リターンズ」。読んで字のごとく。この映画は、かつてメリーポピンズに子守をされたバンクス姉弟が成長した時代にメリーポピンズが帰ってくるという物語だったのだ。つまり、「プーと大人になった僕」が近いわけだ。(こうやって並べると、一層「ウォルトディズニーの約束」で原作者がプーさんに話し掛けるシーンの重みが増す気がしないでもない)

という事に遅まきながら気付き、大きく納得をして、しかし僕は正直なところ、(こんなもんか)と思いながら見ていた。懐かしいメロディーは聞こえてくるものの、目玉となるミュージカル部分は新曲、新曲、新曲。どれも愉快な出来だがいくらなんでも相手が悪い。俳優陣を見渡せば、脇役や子役の芝居などは流石に時代とともに上がってきた全体としてのレベルの高さを感じさせるものの、あの主演二人に匹敵するほどの華を備えた俳優など、おいそれと見つけ出せるものではなく、前作が大好きな人間の贔屓目という点を考慮してもなお、追いつけてはいない。音楽や舞台は徹底的に「メリーポピンズ」を踏襲し、常に一目で「ああ、これあのシーンだ」と気付けてしまう。となれば最後の頼みは映像部分だが、ふんだんに使われるCGは余りにも幻想的、夢想的すぎ、実写であるキャラクター達が「浮いて」しまっていて。今映し出されている光景はメリーポピンズの操る魔法などではなく、夢とカリスマを備えたナニーの生み出す虚構に過ぎないのだと思わされてしまう。まあ、このように作中に現れる「非現実的事象」とキャラクターがそれを想像しているに過ぎない「虚構」の境界を「虚構」側に思い切りズラして描くのは最近とてもよく見るので(「プーと大人になった僕」や「エクソダス:神と王」などがパッと思い浮かぶ)、その流れを汲んでいるのだろう。

要するに。よくあるリバイバルの一環。それに過ぎない映画なんだ。それが、序盤を見ていての僕の感想だった。やがて2Dアニメーションのパートが現れ、久々に、本当に久々にディズニーの2Dアニメを見ることが出来て、それだけでも結構胸に来るものがあったが、映される群衆の中に微動だにしない個体を見つけるたび、規則的に同じ動きを繰り返している様に気付くたび。「衰えたな、ディズニー!」と。言いたくなる自分が居た。

潮目が変わったのは、終盤。本当に終盤だった。意地悪な銀行頭取の手で、バンクス一家は家を失いつつあった。そこに、かつての頭取が姿を現した。その姿。見紛うはずもない。ディック・ヴァン・ダイク。あの名優が、50年の月日を経て、あの時の姿でそこにいた。そして彼は、あまりにも鮮やかにすべての問題を解決してみせた。

2ペンス。

たったの2ペンス。マイケルが老婆から鳩の餌を買うために取り出した2ペンスを、父親が「未来のために」銀行に預けさせた明るくコミカルでしかし間違いなく暴力的なあのシーンを、この映画は見事に昇華させた。この上なく美しく、そして何よりも相応しい。まさに絶妙な脚本だった。あの1シーンで、この映画はどこに出しても恥ずかしくない、堂々たる「メリーポピンズ」の続編となった。

この映画は、とても完璧な映画ではない。シーンはどこも「メリーポピンズ」の焼き直しだし、音楽も俳優陣も映像効果すら、とてもとても勝ってるとは言えない。所詮一山いくらのリバイバル、と舐め腐った僕をぶちのめしたその1シーンの後だって、わざわざ必要か? と思ってしまう描写が挟まり、感極まっていた僕としてはどうも興が削がれたような感じを受けた箇所もあった。何より、この映画は「メリーポピンズ」を見てない人には多分付いていけないだろう。

それでも、この映画は「メリーポピンズ」でしか出来ないことをやったし、「メリーポピンズ」がやらなかったこと、やり残したことをやり遂げた。何より、「メリーポピンズ」を見ていて出てくる動物たちや奇人変人がだれもかれも「やあメリー・ポピンズ! お会いできてうれしいよ!」みたいな知人同士の挨拶をしていて若干の疎外感を感じていた僕としては、今度は逆に彼らと一緒に「久しぶり! 待ってたよ!」という心境で見ることが出来るというのは本当に嬉しかった。余りにも僕が感動した部分を有体に書いてしまったので、その手でこのような事を記すのはどうかと自分でも思うのだが、もし幼いころに「メリーポピンズ」を楽しんだ過去を持っているなら、この映画は間違いなくお勧めできる。

この作品は、メリーポピンズの宿題をやってのけた。

フリクリ オルタナ

「たとえ明日が 昨日の寄せ集めでも わたしは」

 

「フリクリ オルタナ」を見た。2000年、ガイナックスとProduction I.Gによって制作されたOVA「FLCL」、その続編の片割れである。

愚にもつかない話を軽く書く予定なので、先に映画の感想を言っておく。

「予想していたFLCLの新エピソード」でも、「期待していたFLCLの続編」でもなく、しかしフリクリ オルタナは飛び切り面白いアニメだった。

初報は2015年だったと言う。ガイナックスが、FLCLの権利をProduction I.Gに譲渡したというニュースが流れた。僕は確かにこれを耳にしたはずだが、あまりその時のことを覚えていない。多分、本当に作られるのかどうか、実感がなかったのだろう。

そのまま権利関係のニュースの事も頭から過ぎ去った2016年、鶴巻和哉をスーパーバイザーに据えて続編を制作する事が決定という報に、僕は動揺した。

僕は「宝くじを当てたら実現したい事リスト」を持っている。ちょっとしたあぶく銭でできる事から、一等一本じゃ足りないような事まで、大小いろいろと欲望をそのままぶちこけたリストだが、2016年は「ウォークラフト」の公開が発表され、そのリストから「Blizzardに映画を作ってもらう」という項目が消えた年だった。そんな最中、「鶴巻和哉にFLCLみたいなアニメを作ってもらう」まで消えたのだから、動揺しない方がおかしい。

ダサくカッコつけてないように装う斜に構えたカッコよさ。アニメーターの悪ふざけの如く目まぐるしく変化し続ける映像。よくわかんないんだけどなんとなくわかる気がする演出。おちゃらけと猥雑の中に太い芯を感じさせる物語。

あのFLCLの新作がやってくる。

2017年、FLCL2と3が制作されるというティザームービーを見た頃には、僕の期待はとんでもない事になっていた。

2018年になり、オルタナとプログレというタイトルまで公開され、それぞれのPVを見てちょっと引っかかるものを感じたり(ハル子の声優がプログレだけ違うとかその辺)、海外では6月にプログレ公開(日本では両方9月に公開)という情報にモヤモヤしたりしながらも、僕は大層ワクワクして公開を待った。

そうして、とうとうオルタナを見た。

あんまり面白くない。

それが、第一章が終わり、「NEXT EPISODE」の表記を見ながら抱いた最初の印象だ。

「FLCL」的演出……というか、「FLCL」オマージュは確かにある。見たら誰にだって分かるだろう。しかし、あまりにもセリフや展開が、仕上がってないのではないか。

そんな印象は、第二章になってもより強くなるばかり。FLCLのハル子なら、もっとウィットに富んだ軽口を挟むんじゃないか。FLCLなら、もうちょっと巧妙に描くのではないか。

そういう、なかなか退屈な映像とお話が、ただピロウズの曲を背に流れている。

第二章が終わったあたりで、僕は既に自分を慰めるフェイズに入っていた。ここ数年、FLCLの、あのFLCLの続編をやるという話に、舞い上がり過ぎていたんだよ。

考えてみれば、あれほどのイカれたクオリティを保った作品に比肩するクオリティを、このご時世のアニメがそう易々と出せるはずもなかったのだ。

FLCLの表面だけをなぞった、ダラダラとつまらないアニメが流れる。そんな可能性だって、十分にあったじゃないか。

 

そんな思いが反転したのは、第四章。このエピソードを見ながら、僕はようやく自分の思い違いに気づいた。

このアニメは、日常アニメだったのだ。

ここで言う「日常アニメ」とは、だらだらとしょうもないイベントを垂れ流して女の子を愛でる作品の事ではない。「日常を描く」とは、僕の中ではそういう事ではない。

かつて「この世界の片隅に」において明確に意識したように、僕にとって「日常」とは「単体では語り得ぬもの」である。日常は常にそこに存在していて、「非日常」なしには認識できない。故に、日常を描くためにはその日常を破る「非日常」が必要であり、そしてまたその非日常が「日常」に飲み込まれる帰結こそが日常を描き切るために求められる。

その文脈における、「日常アニメ」こそが、「フリクリ オルタナ」だったのだと、僕は第四章にしてようやく気付いた。

一章から三章は「つまらない」。その認識を変えるつもりはない。

しかし、「日常」とは面白くないものだ。呼吸する面白さ、足を前に出す面白さ。そんなものを意識する事は、「日常」においてはない。面白さを感じるほどの事態はそれそのものがもはや非日常なのだから。

そんな中で、主人公の逃避と、懐の深い友達によって、「ハルハラハル子」と「N.O.」という意味も正体も不明な非日常はいともたやすくつまらない日常に溶け込んでいく。それこそが、この作品において重要だったのだ。面白可笑しくては、印象的であっては、刺激的であっては困るのだ。何故ならば、この作品は主人公の「日常」を描く作品だから。

一章では、キャラクターの紹介を。二章と三章では友達の「思わぬ一面」という非日常を追いつつ、ここでシッカリと、ガッツリと、それらを「日常」として飲み込んだからこそ、主人公にフォーカスの当たり否応なく非日常に直面する四章が生き、非日常を受け止めてきた日常そのものが瓦解する五章が映え、そして物語を終わらせる六章が輝く。非日常がいともたやすく日常を切り裂き、しかし裂かれた日常は平然とその非日常をすら日常化する。日常は変化し、しかし変わらず訪れる。

そして、それは紛れもなく、「FLCL」が描いた事ではなかっただろうか。少年の日常に突如現れた「青春の幻影」。だがその女神は少年を一足飛びに大人へなんかしやしない。少年は少年のまま、しかし明確に変化する。「酸っぱいのは嫌いなんだけど」。ナオタに訪れた、小さく、しかし決定的な変化。それを捉えなおそうという、明確な意志。それは、成功しているように僕の目からは見えた。

 

この作品の前半部分のつまらなさは、意図されたものだ。そしてそれは非常に効果的で、「面白い」。

もはや何の憂いもない。何の恐れもない。「フリクリ プログレ」の公開が、今から待ちきれない。

さよならの朝に約束の花をかざろう

「私なら――翔べる」

 

 

PAワークス制作、岡田麿里初監督作品、「さよならの朝に約束の花をかざろう」を観てきた。少年少女の姿を留めたまま長い時を生きる神話的存在「別れの民」と、生まれ育ち老いて死ぬ「人」。その二つの道が交わっていく中で「母とは何か」を描く作品だった。

話としては、嫌いではない。ただ、使う道具が悪かったのではないか。

キャラクター原案とキャラクターデザイン、どちらの仕事でこうなったのか知らないが、時間を経ても老いる事のない麗しき金髪美形が雁首を揃えた「別れの民」と対比して存在すべき、老いて死んでいく側の人間を余りにも描けていなさ過ぎる。女手一つで二人の子を育てている母がそもそも若い女にしか見えないのには目を瞑るとしても、その子供達が成長する様を身長でしか表現できないようなデザインを何故採用したのか。幼児と少年、少年と青年、青年と大人、大人の中にも若々しいもの老けたもの衰えたもの、そして老人という区分の違いが一目で見て取れ、かつ別人か同一人物かを即座に理解させるような、そういうキャラクターデザインが出来なければせっかくの話が台無しだ。

またその話にしても、「女の戦い」としての出産との対で「男の戦い」戦争を、「育ての母」「産みの母」との対で「我が子を見捨てる王族」を配置しているものの、作品の中で男側のテーマを回収できず投げっぱなしになっていては意味がない。映画を地味にしたくなかったのかもしれないが、ただ大砲で城を破壊したり騎馬突撃を銃で迎撃したり、馬鹿っぽい王様が我侭言い散らした所で、映画は面白くなんてならない。そういう所にリソースを割くぐらいなら、もっと狭い世界を切り取って描いたほうが効果的だっただろう。

リソースの話はキャラクターの数にも言える。キャラクターの顔と声と性格と名前が一致できてないのに性急に場面を動かされても、こっちには誰が誰だか判断つかないんだよ。最初に拉致された別れの民の長老は結局その後画面に映ったのか? それとも全部他の子だったのか?  「別れの民」が捕らえられた後、鎖に繋がれた多眼の竜に語りかけていたのはどうやらレイシアらしいと今にして思うが、観ている時はあれが長老かなと思っていたので婚姻の相手がどうこうという話になった時も戸惑ったし、隣国を戦争へ踏み切らせた「別れの民」は誰だ? 髪が長かったので女性と思ったがただの見間違いであれはクリムだったのか? 髪型目の色ぐらいしか判断基準がないキャラクターデザインに同色の髪で描かせ、記憶させる必然性の薄いキャラクターを無駄に名有りにする。混乱の元でしかなかった。

 

色々と書いたが、最初に書いたように、話は嫌いではない。長命と定命の間の悲喜交々を、ただ男女としての愛と別れだけでなく、親と子としてのそれにまで手を広げ、その中で「母」とは、「親」とはなにかを描く。それだけの物語に徹していれば、もっと良い作品になっただろうと思う。短針と長針が刻む時の差は、それだけで数々のドラマを生む。そしてそれは、その物語が古臭いとか陳腐とか言う事を決して意味しない。今でも、その種の物語は望まれ続けている。つい最近twitter上で発生した「魔女集会で会いましょう」なる一大ムーブメントも、それを象徴している。しかし、この作品には無駄が多い。設定を決めたから、キャラクターを用意したから、全部ぶち込まずには居れなかったのだろうか。それが作品のバランスを崩し、纏まりを喪わせるとしても?

僕としては、使う道具が悪かったのではないか、としか言えない。

最後の方はもう明らかに作ってる人達が「絶対ここで観てる人泣かせちゃる~!」と思いっきり張り切っている感じがガンガン伝わってきて、まあこれは好き好きだろう。僕はもうちょっと控えめにやってくれた方が心打たれるけど、アレが刺さる人もいるだろうしね。

 

花とアリス殺人事件

今回紹介するのは、「スワロウテイル」の監督岩井俊二による実写映画「花とアリス」、の前日譚である所の「花とアリス殺人事件」である。実写映画の方はビデオ屋で全部貸し出されていたので未見のまま、こちらを見ることになった。両親の離婚がきっかけで引っ越してきた少女有栖川徹子――アリスは、転校先の学校でかつて「ユダ」が使っていた席に座ることになり、周囲から腫れ物扱いを受ける。「殺されたのはユダ。殺したのもユダ。ユダには四人の妻がいた。その事がほかの妻に露見し、一人の妻が毒を盛った……」“悪魔憑き”の少女陸奥睦美の計らいと自慢の脚力によってクラスに溶け込んだアリスは、一年前に起きたその「殺人事件」について知るべく、不登校になり留年した「事件の生き証人」荒井花に会うために彼女の住む“花屋敷”へやって来た。花はアリスの話を聞き、こんな提案をする。「あたしが手伝ってあげるから、君調べろ」こうして、アリスは真相究明のため、ユダの父親が勤めるコバルト商事に向かうのだった……。

このアニメでまず意識的になるのは、きっとキャラクターの絵だろう。生々しいような、のっぺりしたような、そんな奇妙な造型。見ていてしばらくは3D作画かとも思ったが、どうやら違う。これはロトスコープと呼ばれる、撮影した映像をトレースして動画を作成するアニメーション手法のひとつだ。このロトスコープ、単にデジタルな映像をフレーム単位でトレースすると通常アニメと異なるペースでコマ、というか画が変化してしまうので、なんとも間延びしたようなゆったりした動きになったり、そうかと思えばやたらと機敏で溜めのない動きになったり、間違いなくアニメであるにもかかわらず役者そのものをトレースした結果キャラクターの顔や体格が「(従来の――もっというなら日本のテレビの――)アニメらしからぬ」ものになってしまう。また、役者の芝居を撮ってからそれをトレースするという二度手間な作画方法の結果金も時間もかかるとか。それだけの労力を掛けて、挙句アニメとしては受けないのだ。金と時間の問題はともかく、少なくともロトスコープによって生み出される作画は日本のテレビアニメとその系譜としての劇場アニメを好む、恐らく日本アニメ界のボリューム層たるアニメファン相手の商売にはどうにも向かない(まあこの作品に関しては顔部分をかなりアニメらしい絵に寄せているので、アニメに慣れた身としてもとても見やすいが)。では何故、この作品でわざわざロトスコープが用いられているのか。そこに、僕は三つの理由を考えた。

一つは、「前作」の存在だ。僕のまだ見ていない実写映画「花とアリス」は、2004年に制作されている。一方でこのアニメ映画「花とアリス殺人事件」は2015年公開。十年の時を経て、キャラクター達の「過去」を描く。それを実写でやるのは中々難しい。童顔な日本人女優とはいえ、流石に十年前に高校生役を演じたキャラクターの中学生時代を演じるというのは厳しいだろう(これが舞台なら大人が子供を演じるような事は割とあるだろうが、映画などの映像媒体では中々そういうわけもいかない)。かといって別人に演じさせるには、時代が近すぎる。声も姿も芝居も違えば、それはもう同じ名前同じ設定であっても別のキャラクターでしかない。飽くまでも2004年に公開した「花とアリス」、そのスピンオフであるとするならば、同一性を如何にして保つのか。その一つの答えが、このアニメーション化という選択だったのではないだろうか。アニメなら、かつての役者に声を当ててもらう事ができる。そしてロトスコープなら、かつての役者に芝居をしてもらう事ができる(声はともかく、実際にかつての主演女優二人を使って撮影したのかどうか僕は知らないけど)。それに、元々実写映画のシリーズならその続編にやってくる客層も実写映画のファンが多かろう、ということであまりテレビアニメ的な客層へのアピールも過度にする必要もないだろうというわけだ。ただ一方でロトスコープによるアニメーションがアニメを見慣れていない人間の目にどう映るかというと、やはり不自然に見えてしまうのではないかという懸念は残る。何せ実際の俳優の顔と比べて明らかに造型が簡略化されている。アニメを見慣れない人間に、アニメ的表現がどこまで許容されるのか。これは僕一人では知りようの無い感覚なのでなんとも言えないが。

もう一つは、その演出効果。実写映像を元に線を描くロトスコープは、三脚やなんかで固定したカメラの定点的な安定したフレームも、手に持って撮った不安定な手ぶれも、レールに乗せてカメラを動かすような撮影方法もほぼ全て、実写映画と同様に描き出すことができる。その一方で、目が点になったり、顔の輪郭まで歪ませるような、漫画やアニメ的なつよい感情表現も用いることができる。実写とアニメのあいの子であるが故に、ロトスコープの取ることができる選択肢は広い。この映画の背景美術は完全にアニメやノベルゲームのそれで、幻想的という領域にも踏み込むその美しい光と色の世界の中を、重さを持った、ある種アニメらしからぬキャラクター達が動き回る事ができるというのは、強い長所だろう。

そして最後の理由。それは、実写をなぞって生み出されるその絵そのものの歪さではないだろうか。14歳(あるいは15歳)、中学三年生というその年齢は、考えてみれば実に奇妙だ。どう見たって大人ではない。しかし子供からははみ出しつつある。どう見たって女らしくはない。しかし少年(というか、未分化的な中性)からは脱却しつつある。二つの属性の間で、まるでどちらからも遠ざけられるような、宙ぶらりんな歪さ。それを表現するために、ロトスコープが選ばれたのではないか。そういう風に、僕は思った。

この最後の理由は、無論ただこの作品の作画方法がロトスコープであるというその一点から導き出されたものではない。劇中、「ユダ」が実際のところ死んだのかどうかを調べるためにアリスが「ユダ父」を尾行しようとして、間違えてユダ父と同じ会社の年配の男性を追ってしまうシーンで、「生き別れの父」というあまりにもあまりなアリスの嘘を聞かされ、アリスを乗せて前のタクシーを追い、あまつさえ相手に声を掛ける白髪のタクシードライバー。喫茶店での年配の男性の腕まくりや、人違いと分かった後で駅まで帰る途中にあったブランコでの会話。二年を「チョー懐かしい」遠い昔として語る少女と、四十年を「短いもんだな」と思い起こす老人。終電間近のラーメン屋で、ヤンキーな感じの一団が見せた荒っぽい優しさ。彼らが見せるその「童心」あるいは「無垢」とでも言うべきもの。大人が時として見せる子供らしさ。それは普段意識されずとも、年配の男性の二の腕のように、確かに大人たちの中にある。そして一方で、大人は喪ってしまった一方で――それは若さかもしれない。あるいは時に「向こう見ず」や「考え無し」とも称されるような、その無軌道性かもしれない――、目の前の溌剌とした少女はなんてこともない様に湛えているものもある。それを無自覚なままに見せ付けられる眩しさ。それこそが、大人たちの子供らしさを照らし、表出させているのかもしれない。

そう。そんな眩しい何かが、この映画には溢れている。ユダの霊。同級生の死。終電に乗り遅れ、踊りながら見た満点の星。トラックの下で過ごす夜。消えた友人と走り去るトラック。無軌道で無責任な若者たちが生み出す、些細なる大事。
この映画で描かれる出来事のはどれも、実に些細なことだ。「ユダの霊をクラス全員が見た」。そう語ったいじめっ子だが、しかしそれは運悪く「ユダ」の席に座ってしまった少女の狂言でしかなかった。その少女の狂言も、「ユダが座っていた席」に割り当てられたせいでいじめられるという境遇から脱したかっただけの事だった。そもそもその「ユダの死」なる事件自体、湯田という少年が転校直前に蜂に刺されて倒れたという話が人の口を伝わるうちに膨らんでいっただけの事でしかなかった。ミクロにおける悲劇が、マクロにおいては時に喜劇になってしまうような、あるいは酸鼻極める惨劇の中で、個人の間では時に笑顔が生まれるような。当人にとってはどれほど大事であったとしても、他人にとっては些細な事でしかない事もある。そしてそれは、「若者」がすなわち「当人」であるとも限らない。アリスを駅まで送った後、年配の男性が言った「ありがとう」という言葉。その重さすら、アリスには届かない。おじさんと喫茶店に入って、公園で一休みしつつ、駅までぶらぶら歩く。そんな事は、アリスにとっては実に些細なことだ。そして一方でおじさんにとっては、きっと得がたい時間だったのだ。
翻って、アリスから事件のことについて問われた花の態度。頑なに「知らない」「知らない」と語るその態度に、最初に見たときは何の違和感も無く「事情も知らない人間が好き勝手に過去を穿り返そうとしていることに腹を立てているのだろう」と一人合点をしていたが、実際にはその態度は明確に、「知ってる」「気にしてる」「知りたい」という内心を隠し繕うための言葉だったのだ。ほんの軽い、些細な悪戯のはずだったのに、という自責の念。車の下で吐露された気に病み、悩み、家から出られなくなった花の抱える思いの方は、アリスにも十分伝わった。伝わりすぎて、また一笑い起きるのだけど。

こんな些細な大事は、時に無関係な人間を巻き込み、時に誰かを傷付けてしまう、とても迷惑なことかもしれないけれど。そこに、かつて自分が持っていたであろう何かの、狂おしく眩しい光を見てしまうのは、間違ったことではない。その光を懐かしみ、時に焦がれてしまうのも、きっと間違ったことではない。

Star Wars: The Last Jedi

「また会おう」

 

スターウォーズ・サーガ第八作目、エピソード8「スターウォーズ 最後のジェダイ」を見てきた。

この無精者はどうやら、エピソード7を見た時の興奮を同卓者に散々語って満足してしまったようで、ブログには残していなかった。仕方ないので、今軽く触れておく。

エピソード7の中では、沢山の……本当に沢山の、目配せがあった。既知のスターウォーズファンを喜ばせるようなちょっとした小物、ふとした台詞、懐かしいキャラクター。そして展開。

僕はエピソード7を見て、「ああ、この映画はスターウォーズの4から6を、一度にやってしまった。次から本当の、『新しいスターウォーズ』が始まる」と思った。

この予想は半分当たり、半分外れた。

エピソード8でも、かつてのスターウォーズを想起させるポイントが随所に見られる。しかしその上で、今回の映画はそこから続くお馴染みの展開を期待した僕の肩をすかす。一度や二度ではない。何度もだ。

こう思ったのは、僕だけではないだろう。何せ、プロモーションビデオからして嘘まみれなのだ。

宝物の如く手渡されたライトセイバーをルークはゴミのように投げ捨て、追い縋るレイへ当てつけるように奇怪な生物の乳を啜る。レイの修行シーンと思えたものは彼女が独りよがりにブンブンしていただけで、歴史を感じさせた岩はあえなく破壊される。

だが、映画を見たなら分かる。これは、ミスではない。彼らは意図的に本編内容を隠蔽した。

 

そして、それは大正解だった。

こんなスターウォーズは全く想像していなかった。僕の予想は大きく裏切られ、僕の期待を大きく上回っていった。

そして、エピソード7を思い返し、エピソード8の姿をようやく捉えた。これは、『破』だ。

守破離。

道を究め、何かを修めるにあたって言われる、三つの段階。

エピソード7は『守』の映画だった。スターウォーズを三度映画化し、熱狂を蘇らせるため、過去のスターウォーズを途轍もなく研究し、「スターウォーズらしさ」を見事に描いた。

そして、エピソード8は『破』だ。スターウォーズとは何か。今語るべき物は何か。スターウォーズらしからぬ展開、スターウォーズらしからぬ描写。スターウォーズがしなかった事の中に、確かにスターウォーズの真髄を落とし込んだ。

 

となれば、二年後。順当に行けば2019年の冬に公開されるであろうエピソード9へ掛かる期待は『離』でしかありえない。「スターウォーズ」という大いなる映画、偉大な物語から、どれだけ自由になれるのか。

彼らがスターウォーズという道の果てに、どんな答えを叩き出すのか。本当に、心から楽しみだ。