Cyberpunk: Edgerunners

「俺には言ってくれないんだね。”できる”って」

 

 

CDプロジェクトの最新作「Cyberpunk 2077」を原作としたオリジナルアニメーション、「サイバーパンク:エッジランナーズ」を見た。監督は今石洋之、制作はトリガー。

 

正直な話、トリガーのアニメを見る気はなかった。サイバーパンクジャンルとなれば、なおさらだった。僕はいまだにニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨンのアニメの出来に対する怒りを抱えている。

だけれども、見た。そして、この作品は間違いなく面白かった。なので、そういう話をしていく。

また、僕は原作のサイバーパンク2077を知らない。このアニメを見て、購入したばかりだ。だから、原作の話はしない。

 

とは言うものの、僕はこの作品の面白さに言及しようとして、思わず臆してしまった。それは余りにもシンプルで、余りにも短文だった。一行で書いてしまえるようなことだった。

言ってみようか。

「ただ一人彼が特別だと知っていた女と、ただ一人彼が特別だと信じていた男」。

こうだ。これが、僕にとってのエッジランナーズの核。面白さの真髄。魅力の最たるものだと断言できる。

「こんな短い感想ならツイッターで呟いてろ」と、思う人もいるかもしれない。だが、この感想は余りにも作品内で描かれた文脈に丸乗りしていて、ただ一言ぽつりと呟いても、理解してもらえるかは非常に疑わしい。彼って誰? 女と男の具体名は? 特別ってどういうこと? まあこの辺は作品を見ていれば分かってもらえると思うが、重要なのは固有名詞じゃない。

“そうだとして、なんでそれが面白いの?”

この問いに答えられなければ、それは感想ではない。僕が何かを感じたとき、感じたものをただ己の情念のまま表現すると、時にそれは「ウオオォオー!!」や「グワアアァー!!」と言った絶叫になる。「なんでー!??」という驚愕になる。それは、反応ではある。だが、誰も理解できない。その作品に既にふれた人が仮に共感してくれたとしても、意味は分からない。どの部分に、どんな理由で叫んだのか? 何を、どうして驚いたのか? 作品の中からその具体的なポイントとして指摘し、その理由を伝えなければ、それは感想ではない。

なので、僕はこの場を使って、僕自身の思考を整理する。その上で、うまく僕の抱いた感想に着地させられそうな展望が見えたらそこにソフトランディングすれば良いわけだ。逆に、なにも思いつかなかったらただひたすら駄文を並べ立てた上で「それはそうとこの作品は○○が面白かったですね」と唐突に締めの言葉が入って終わる、どうしようもないものになるだろう。当然、前者は感想だが後者は感想ではない。

果たして、僕はエッジを超えられるだろうか?

 

さて、僕の思考の整理のために。「この作品は、どういうジャンルなのか?」を考えてみよう。ジャンルが分かるということは、その作品の目指した方向性が分かるということだ。過去に存在した数多の作品群は、必ずこの作品の作り手にも影響を与えている。そして、作り手は望むと望まないとに関わらず。必ずそれらの先行タイトルへの目配せを作品の中に仕込む。そう言った目配せが、僕にとってどう解釈されたのか。そこを、見ていこう。

エッジランナーズは、いくつものジャンルを兼ね備えた複雑な構造をしている。まずはタイトルにもあるようにサイバーパンクだ。機械化された人類、強大な力を持つ企業、そしてサイバー空間に有機的に接続され交わされるコミュニケーション。そういったSFガジェットが、しかしまだ“全てを覆ってはいない”時代。そうでなければ、サイバーとは言い難い。宇宙への植民が本格的に動いているとどうしても舞台が宇宙空間になってしまってスペースになるし、企業が個人を完全に屈服させてしまうとディストピア物や軍記、戦記物の色が強くなる。サイバー空間の取り扱いだって、その世界の中でも新参の技術として扱わなければ、受け手たる僕にとって魔法と変わらない存在として認識されファンタジーのように受容されてしまうのだ。

サイバーのサイバーたる所以。そこには僕たちと同じように人間が暮らし、僕たちが新しいPCやゲーム機、自動車にスマートフォンといったガジェットを手にする様にインプラントを入れ、データをダウンロードしているのだという、「ほどほどの未来」。そして、僕たちの世界でFAXが残り、レコードが売られ、石炭が発電所を動かすように、その世界でも僕たちの旧知の技術が現役で動いているという「ほどほどの地続き」。現代から、半歩はみ出す感覚……これこそ、サイバーだと言えるだろう。

そして、パンク。パンクってどういう意味だろうか? 検索すれば「反体制」や「攻撃的なファッション」みたいな言葉が出てくる。元々は「不良」という意味だったらしい。そう聞くと、映画版のAKIRAで金田が言う「デコ助野郎!」が、英語翻訳だと「Punk!」になっていたのを思い出す。まあ恐らくは、パンクロック、からの転用としてスチームパンクが生まれ、その後継というか別技術主体の派生ジャンルとしてサイバーパンクと呼称されるようになったのだろう。

この、パンクの部分が、エッジランナーズという作品を読み解くにあたって極めて重要であるように、僕には感じられる。とりわけ「攻撃的」って部分が。

確かに、サイバーパンクジャンルは大抵ろくでもない企業や、狡賢い統治者が登場する。奴等は時に緩やかに、時に苛烈に、様々な手段を使って民衆を、住民を、人間を締め上げる。支配し、屈服させ、コントロールしようとする。大抵の場合、主人公はそれに抗う側だ。(たとえ、主人公が体制側の組織に所属していたとしても)。理不尽な支配に抵抗し、自由を求める。

だが、一人で、ではない。皆で、支配を打倒するのだ。

サイバーパンクは、革命の文脈だ。自分だけ企業の支配に嫌気がさして外の世界に出ていってはいメデタシメデタシ、では納得しない。お前も、こんな支配にうんざりしてるはずだ。あいつらがのさばってることに、耐えられないはずだ。奴等にだけ都合のいい価値観や常識に、囚われてちゃいけないはずだ。その上でパンクは、時にそうでない者を攻撃する。「何故お前達は自分達の上に横たわる支配に目をつぶるんだ!」という怒りが、パンクの、パンクたる所以。このアニメが単なるサイバー物でなく、明確にサイバーパンクである理由。

その最初の一歩が、死別した母親の期待を背負い、退学させられてもなおアラサカ・アカデミーに心を囚われていたデイビッドへの、ルーシーの発言にある。

「それって他人の夢じゃん」

ドキッとする発言だ。ギョッとする発言でもある。片親で、貧困の中、苦労して子供を良い学校に行かせてその将来に幸あれと祈り続け、唐突に死んだ母の願い。それを普通、ここまでザックリと切り捨てられるものだろうか?

確かに子供には明らかに合ってなかった。学校では虐められ、生活は困窮し、二人が互いに満足にコミュニケーションを取る時間もない。この状況を変化させる最も手っ取り早い方法が、「学校をやめる」にあることはかなり明白だ。しかし、相手への同情が、教育された道徳が、培ってきた常識が、それをそのままに表現することを阻む。内心では「学校やめた方が良いんじゃね……?」と思っていても、こんなに苦労してまで息子を良い学校に行かせてる親御さんに、そこまで酷いことは掛けられないよな……とセーブする。それが、普通だ。

ただでさえ、僕達は見ている。洗濯機も停止するほどの困窮状態に、ベッドで眠る余裕もなくソファで仮眠をとっている母親。何もかもを犠牲にして子供のために生きているそんなグロリアの、涙ながらの言葉を聞いている。子供のうちは押しつけがましくも思える親の愛情の、その尊さを。得難さを。人生の中で知ってしまった僕達にとって。

「じゃあ、あたしは何のために働いてんのよ。あんたのためにと思って……」

という、彼女のセリフは余りにも重い。それを前に「テメーの自己満のためだよ!」と言えるほどの非情さを、僕は持たない。当然、デイビッドも持たない。それが、普通だ。

そんな普通を踏みつけにして、相手を閉じ込める檻をぶち壊す。これこそ、パンクの持つ「攻撃性」、その発露だ。常識、道徳、普通。そんなもんに遠慮して丸め込まれることを、断固として拒否する。トンガって、研ぎ澄ませて、相手に己の思想を、理想を、願望を共有させる。「俺とお前は違うが、俺は俺、お前はお前だよな」すら許さない。「お前は間違っている。お前も、俺のようになれ!」という、過激なメッセージ性。パンクというジャンルの持つ特徴が、このセリフには凝縮されている。

そして同時に、この攻撃性によってパンクは大いなる矛盾と直面する。相手を正し、自らに沿わせるその攻撃性は、とどのつまり、「社会性」や「道徳」、「常識」と同種の物なのだ。そんなもんくだらねーぜ! と相手を檻から解き放とうとする限り、パンクは「今まで培ってきた常識なんて捨てろ!」という「新たな常識」の、極めて熱心な教育者にならざるを得ない。

穏やかで緩やかな支配に対する極端で過激な抵抗は、大衆の支持を集めない。これは、恐らく過去も現在も未来も変わらない構図だろう。だから、サイバーパンクは敵を強大化させる。理不尽で、強引で、暴力的で、非人間的な「企業」を向こうに回し、「耐えられない」と思うに足る十分なシチュエーションを構築する。

今回であれば、それは母の死と、学校と言う名の社会からの追放だ。金銭的な問題を抱えつつも今の生活を保障していた存在と、多大なる苦痛を負わせながらも未来への希望を与えてくれる存在。現在と未来の拠り所を粉砕し、デイビッド——および、その背後にいる僕——を追い詰めた所に、極めて魅力的な美少女を登場させて鼻の下を伸ばさせ、間髪入れず「親の期待」、すなわち過去の拠り所へと強烈な蹴りをお見舞いする。そんなもん他人の夢だと切って捨てる。かくして、デイビッドは「過去」、「現在」、「未来」、全ての繋がりを断ち切られ、しがらみのない新しい世界へと踏み込んでいく……はずだった。

そうならなかったのは、作品を最後まで鑑賞した人間なら誰もが記憶しているだろう。デイビッドは最期まで、「親の期待」を手放さなかった。

ここでは、そのことを記憶しておいてほしい。

 

続いて、エッジランナーズの兼ね備えたジャンルの二層目。それはノワールだ。フランス語で「黒」を意味するこのジャンルは、ギャングや犯罪者といった社会の闇の部分を主に取り扱う。このアニメがノワールの文脈に即していることを、否定する人はいないだろう。社会に適応できなかったはみ出し者たちが集まり、暴力によっていくつもの成功を収め、やがて社会の狡猾さのなかで押し潰されていく。ご丁寧にファム・ファタールまで登場するのだから、どこまで教科書通りの物作りをするのだと感心させられたものだ。ノワールの魅力、それはやがて訪れる破局の面白さであり、それは同時に、手段を選ばずに何かを為そうとした者たちに訪れる勧善懲悪への、倒錯した快感でもある。

犯罪者は笑い、無辜の人々が苦しむ。そこには一見すると、正義などないように見える。しかし、報いはある。誰が、どのように報いを受けるのか、それがノワールの面白さである。

駆け上がる階段は死刑台であり、羽ばたき目指す先は翼を溶かす太陽だ。だから、僕たちは安心してその非道を鑑賞することができる。悪党が何かを得て喜ぶ時、共にそれを喜ぶ。そして、悪党が血に塗れて死ぬとき、やはり僕たちはそれを喜ぶのだ。現実では複雑すぎて観測できない因果応報が、単純化されたフィクション世界では明確に機能していることを確認して。

冴えた射撃と強靭な肉体を持ち、頼れる仲間たちと厚い信頼関係を構築しているメインは、まさにこの作品のノワール要素を凝縮した存在だ。夢の頂を目指し、彼はわき目もふらず走っていく。良い兄貴分でもあり、強いリーダーでもあるそのキャラクター造型は、見ている人間の心を掴む。誰もが、メインに好感を抱くだろう。

サンデヴィスタンに適応し、しっかりと使いこなせるようになっても、デイビッドはメインの足元にも及ばない。青二才。半人前。ルーキー。そう呼ばれるに足る、差があった。デイビッドは少しでもその差を埋めてメインに追いつこうとするが、彼はその追随を許さない。

メインの死ぬ、その時まで。その関係性は変わらなかった。決死の覚悟で、死地に臨むつもりで、震えるからだを抑えて銃を構えるデイビッドに、メインは告げる。「お前にはまだ無理だ」

余りにも、無情な言葉だ。愛しのルーシーを置き去りにして、メインの横で死にに来たデイビッドに。メインは「生きろ」と言うのだ。「走り抜けろ」と。

泣かせるじゃないか。狂人が死の間際、チームの新入りを逃がしてやるという、そういう感動的なシーン……だったならばな。ここは違う。いや、確かに強く、頼もしく、カッコいいメインが、狂気に陥り、全てを喪い、盛大に、惨ったらしく死ぬという、展開的に極めて重要な山場であり、絵的にもアクション的にも映える素晴らしいシーンではある。泣ける描写にもしてある。だが、このシーンの肝はそんなお涙頂戴ではない。

メインの発言は、「デイビッド君はまだマックスタックを倒せないから逃げなさい」などという気づかいではない。サイバーサイコシスの症状として、彼の幻視する風景。無限に続くかに思われた道路の上を、痩せた男が走り続ける光景。汗が吹き出し、息せき切って、走り続けたその男は。道路の終端を前にして、ついに立ち止まる。

要するに、彼は走り続けられなかったのだ。

どこまでも行けるつもりだった。なにものにも遮られず、無人の荒野を行くが如く、目的に向かって突き進んでいるはずだった。

だが、そこにガイドラインなどなかった。頼れるものなどなかった。何もない世界。ひたすらに広く、どこまでも続くその世界を、ただ己の目的意識だけを頼りにして走り続けられるほど彼は狂ってはいなかった。

「俺はここで死ぬ。お前は生きろ」というセリフは、肉体的な生死ではない。道路の上しか走れない、俺のような半端者にはなるなという狂気の焚き付けだ。メインの願い。それは、足場も、ラインもない、無限に広がる荒野を、俺の代わりに走って欲しいという最悪のバトンだった。そして、デイビッドは確かにそのバトンを受け取った。メインの目の前で、デイビッドはいともたやすく道路の切れ目を越えて。荒野を駆けていった。逃げるためか? マックスタックから?

違う。彼は逃げるために走ったのではない。

 

サイバーパンクのジャンル分け。三つめは、ボーイミーツガールだ。少年が少女に出会うことで、これまでの平凡で退屈な世界が壊れる。少年は少女に導かれるようにして、物語世界で波瀾万丈な体験をする。またほとんどの作品はその過程で少年が少女に惹かれていく様子を克明に映し出すし、大体は少女もその思いに応える。

そんなボーイミーツガールに対して、僕は常々思う所があった。その結末に関してだ。ボーイミーツガールのラストは、少年と少女の別れであってほしい。その方が美しいじゃないか?

出会いと共に始まった物語は、別れと共に終わるべきだ。

それが、僕の美的感性だ。別に少年と少女のイチャコラが嫌いなわけじゃない。好きな作品はキャラクターへの思い入れも強くなる。二人の幸せそうな顔が、永遠の離別によって断たれる様は、僕の心を揺さぶる。別れのシーンは見ていて辛い。しかし、だからこそ美しいんだ。

そんな観点から言うと、エッジランナーズは素晴らしかった。思いがけない縁をきっかけに出会い、求めあい、愛し合った二人が、お互いの愛ゆえに時にすれ違い、しかし支え合って、お互いに保身など一切考えず、相手の身の安全とその生涯の幸福だけを望んで、その結果として永遠に断絶する。

余りにも、美しい展開だ。ボーイミーツガールという点において、この作品は完璧だったと言ってもいいだろう。

だが一方で、シンプルに考えたとき。この結末にはモヤモヤしたものが残らないだろうか? 結局のところ、「敗北して終わってるじゃないか」と。

狡賢く悪辣なフィクサー、ファラデー。アラサカの用心棒、生ける伝説、アダム・スマッシャー。精神と肉体の両方から、二人を引きはがし、叩き潰そうとする強大な敵たちに、二人は翻弄され続ける。結果的にファラデーの方はぶっ殺すことが出来たものの、アダム・スマッシャーに関しては全く歯が立たなかったと言って良いだろう。そんな事でいいのだろうか? ビターなテイストはこの作品にはよく似合っているし、ノワールという観点からは極めて真っ当な落着だ。だが、ボーイミーツガールというジャンルでは、こういう奴はぶっ飛ばしてくれなきゃ困らないか? 僕は困る。ぶっ飛ばした上で、格の違いを見せつけた上で、あくまでも少年と少女の関係性の終着点としての二人の別れがあって欲しい。

無茶言うなよ、と思うだろうか。アダム・スマッシャーは原作に登場するキャラクターだ。しかも、どうやらかなり重要なポジションにいるらしい。そんな奴をスピンオフ作品でぶっ飛ばすなんて、メアリー・スー紛いのこと出来るわけないじゃないかと。そう思うだろうか。そうやって、理解ある大人の顔をして、デイビッドの健闘を称え、ルーシーが助かった点を喜び、心の中のモヤモヤに「我が儘」とレッテルを貼って蓋をして、仕舞い込んでみせるのか?

 

パンクじゃないだろ、そんな態度は。この作品は、見事にソレをやってのけたというのに。

 

確かに。確かに、アダム・スマッシャーはサイバースケルトン装備のデイビッドを粉砕した。それはもう、紛れもない事実だ。フィジカルにおいても、クローム耐性においても。デイビッドは完敗した。

だからどうした。アダムが為せず、得られず、デイビッドだけがモノにしたものが確かにある。アダム如きには到底手に入れられない「特別」を、デイビッドは確かに有している。

 

それが「夢を叶える」ことだ。しかも、デイビッドが叶えようとする夢は「他人の夢」である。狂気としか言いようがないが、この作品で望みを叶える人間は彼しかいないのだから、彼を「特別」と呼ぶにこれ以上の理由は必要ないだろう。誰もだ。他の誰も、夢を、望みを叶えるものはいない。

権謀術数を尽くしてアラサカに入り込もうとしたファラデーは搬送中に滑落して脳漿をぶちまけた。

仲間を売って悠々自適にドロップアウトすることを望んだキウイはゴミ箱の裏で事切れた。

サイバースケルトンのデータを取ろうとしていたアラサカの連中は「それどころではな」くなった。

いつ頃からかデイビッドに惚れていたレベッカも、その想いが届くことはなかった。

「アンタ自身が生きてくれていれば、それだけで良かったのに」と絞り出すルーシーの悲痛な願いも、世界が聞き届けることはない。

皆殺しを高らかに宣言したアダム・スマッシャーすら、ファルコとルーシーを討ち漏らした。

 

凡人共、道をあけろ。デイビッドの「特別」さなしに、この世界で願いを叶えられると思うな。

 

メインが果たせず、彼に託した「走り抜けろ」という言葉。エッジの向こう側まで駆け抜けたデイビッドを見てもなお、それが果たされてないなどと言える人間はいないだろう。

「月に行きたい」というルーシーの言葉は、「行くだけならでしょ」を引き合いに出すまでもなく、言葉通りの意味ではない。要するに彼女は、「この世界」から脱出したかったのだ。光の檻、ナイトシティ。アラサカの手で無茶苦茶にされた自身の人生。サイバーパンクとして、デイビッドを新しい世界に連れて行った彼女が、しかしより一層強固に囚われて出られなかった「この世界」から、デイビッドは確かに彼女を連れだした。そうでなくて、誰が月面旅行などするものか。人生の上がりをとうに迎えた老人ばかりを積んだ、いかにもつまらなさそうなあんなツアーに。

そして、憶えているだろうか。デイビッドは最期まで「親の期待」を手放さなかったという記述を。アラサカタワーのてっぺんに立った、なんていう話じゃない。

「見返してやりたい」。グロリアがこの作品で、唯一口にした、「彼女の言葉」だ。傭兵と救急隊員の二重生活、母としての責務と我が子への期待。誰かへの謝罪と金の支払い。決して多くはない彼女のセリフは。どれも必要性に駆られている。立場に囚われている。そんな中で、この一言だけは、彼女の願望が窺える。果たして、偶然か作為か。デイビッドの行動原理はいつもここにあった。

カツオに殴られれば殴り返した。世間知らずのガキを相手にするような態度だったルーシーは、気が付けばデイビッドにゾッコンだ。メインにどれだけ洟垂れ扱いされても、一人前だと認めさせようとした(サイバーサイコと化したメインを相手に、マックスタックを目前に控えてさえも)。動くサンデヴィスタン置き場扱いをしていたリパードクも、いつしか彼を立派なエッジランナーとして認めた。極めつけは、アダム・スマッシャーを相手に意趣返しをしてみせた。

こじつけだと思うか? メインやルーシーはともかく、グロリアにそこまでの意味は与えられてないと?

そうかもしれない。

ただ、僕が自身の親への思い入れを反映して、その比重を作品の想定以上に肥大させてるだけかもしれない。

 

それでも、デイビッドはこの作品の中で唯一望みを叶えることができる、「特別」な存在だったという結論が揺らぐことはない。そして、ようやく僕の感想に立ち返ることができる。

 

“グロリアはこの世界でただ一人、彼が「特別」だと知っていた。デイビッドは自分が「特別」だとは知らなかったが、この世界でただ一人、自分がそうであると信じた。”

ああ、そうとも。これに尽きる。他にこんなに痛烈で、面白い要素があるか? この作品で?

 

「お前は特別なんかじゃない」と、デイビッドは言われ続けた。敵にも、リパードクにも、仲間にすら言われた。

 

「サンデヴィスタンで人より速く走れるからってもう一人前ヅラか?」

「人よりいくらか耐性が強いかもしれない。でもあなたは普通の人よ」

「せいぜい伝説って奴にでもなりな。ありきたりのな」

「こんな反重力装置がないと、一人で自分の体重すら支えられない小僧が! この程度で何者かにでもなったつもりか!?」

 

 

ざまあみろ、節穴どもめ。彼は、確かに特別だった。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

「大人になったな」

 

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」より、実に足かけ14年。とうとう完結だという触れ込みを聞いた。正直、公開初日に見た「Q」であきれ果てた身としては「良かった」という評価も「本当に終わった」という言葉も全て半信半疑だったのだが、劇場近くに出向く用事もあったので良い機会にと、このコロナ感染拡大の冷めやらぬ中に厚かましくも不要不急で見てきた。

 

最初に言っておくと、僕はエヴァの世代ではない。テレビ版など見たことも無く、ただ事あるごとに話題に出てくる昔のアニメという印象しかなかった。ニコニコ動画で違法視聴した旧劇でそのアニメーションに感動したものの、漫画版に手を出してみたらなんとまだ完結していなかった。アニメを2クール見るほどの熱意はなく。結局どういう経緯で旧劇のような事態になったのかは、ネット上の書き込みを聞きかじりならぬ、読みかじって知った程度のものだった。

それから数年が経ち、友人に「エヴァ破、面白いよ」と言われた。そんなこと言われても僕旧テレビ版も「序」も見てないよと返したのだが、随分推されたので仕方なく「序」から順番に見ることにした。

あー、昔漫画で読んだわこの辺。その程度の認識だったが、確かに美しい映像と派手なアクションに強い音楽の使い方で見る者を楽しませる、なかなかの作品だった。そのまま「破」も見た。当時の認識はあまり覚えていないが、旧劇のときの鬱屈した雰囲気とは大きく違うなとは思ったはずだし、なにより「Q」を初日に見に行っているのだから相当気に入ったのだろう。

そして、2012年。超満員の大スクリーンで、「Q」を見た。

ふざけんなと思った。

「破」から十数年が経ち、エヴァの世界は激変していた。どうもサードインパクトが起きたらしく、その原因はシンジだったらしい。しかしシンジはインパクト以来、ずっと衛星軌道上で眠り続けていて、事態を何も知らない。映画の視聴者である僕とシンジは、作品の中でほとんど同一の立場だった。当然、意図されたものだ。シンジに向けられる言葉は、視聴者である僕に向けられるし、シンジの感じる理不尽は、そのまま視聴者である僕の中に生まれた。

「破」であれだけポジティブにシンジを送り出しておいて、誰も彼も説明一つせずシンジを詰り倒す。意味もわからん単語を吐き散らし、意味深で思わせぶりに振る舞っておきながら何一つ上手くいかない。シンジは失敗したらしい。それならそれで良いさ。じゃあ何が成功で、誰が成功するんだよ。別にシンジが英雄である必要はない。見ている側を気持ちよくさせる要素がその世界にとって害悪であったと暴き出しても構いはしない。しかしそれがなぜダメで、どうするべきなのか説明しなきゃ意味ねえだろ。煙に巻いてりゃそこに何かを見出して勝手に納得したり高尚扱いして貰えると思ってんじゃねえよ。

ただ一人優しさを見せてくれたカオルは「槍でやり直す」などと親父ギャグを打ちながらシンジの目の前で爆死してトラウマの拡大再生産を始めるわ、二進も三進もいかなくなったシンジは当然のように周囲の制止を無視するわ、怒鳴り散らすアスカにほれ見たことかという態度でまた罵倒されるわ。

失敗を描くためにキャラを愚かにするそれは、完全に馬鹿の書く脚本そのものだった。僕は心底、呆れ果てた。あれを「これこそがエヴァだ」などと祭り上げる向きすらあり、それを見てついに絶望した。

そうでございますか。「これがエヴァ」ですか。それならそれでよろしい。僕はエヴァの客じゃないんだろう。同時に、庵野の客でもない。エヴァを冠して馬鹿をくすぐり金を稼ぐ。これをやり続ける限り、庵野の作品は見ないと決めた。

遠くないうちに公開されるはずだった続編は延期につぐ延期。僕は鼻で笑っていた。「Q」を思い出せば、話に収拾を付けられないだろうことは明白だった。

いつしかシンゴジラが公開された。随分と好評だったが、僕は結局見なかった。公開前、劇場で見た予告編。恐慌を起こし、逃げ惑う群衆だけを映して「匂わせる」そのやり方が「Q」を思い出させ、腹立たしかったから。

とうとう公開が決まってからも、コロナで延期。ただ、流石に2020年にもなると、もう「Q」の記憶は薄れていた。興味もさほどなく。僕にとってエヴァは、「どうでもいい」作品だった。

次の公開日に決まった2021年の正月はそれこそコロナ第三波の猛威ただ中で、当然の再延期。この辺になって、流石に気の毒になってきた。

そして、3月。とうとう公開された。見る予定はなかった。言及すら、する気はなかった。周囲から見に行ったの行かないの、面白かっただの終わったから見に行けだの、そういう話を聞きながら、まあアマプラに配信されたら見るかなーなどと、気のない返事を返していた。

4月に入り、コロナ第四波が猛然と押し寄せ、大阪を中心に関西の医療は大打撃を受けている。東京も緊急事態宣言解除前からじわじわと検査の陽性者が増えていて、明らかに状況は悪い。極力、外に出たくない。そんな中で、街に出る予定が出来てしまった。どうせ出るなら映画も見ちまえと上映スケジュールを確認すると、そこにエヴァがあった。もうこれで良いやと、チケットを購入した。「Q」のことも大して覚えてなかったが、見返したらあの時のイライラが蘇ってきそうだったので、そのままに。

だから、「シン」が「Q」や「序」「破」と比べて、内容的にどうだったかを語ることは出来ない。

ただ、映画としての「シン」の感想を言うなら、明らかに完成度は低かった。

ド派手なアクションと、パソコンの演算能力を自慢したいのかと思うような過剰なオブジェクトの波で映像を揺らしながら、一方でキャラクターたちは入れ代わり立ち代わりひたすら説明セリフを並べ立て続ける。「Q」の時とは真逆で、しかし成長していないなと思った。セリフってのは見てる僕か、その場の誰かに理解させなきゃ意味ないんだよ。その場みんなが知ってることを確認している様を映したって、見てる人が場の空気に飲まれて分かったような顔してくれるわけじゃないんだ。また少し呆れる自分を意識しながら、しかし作品世界に確かにある違いに気付けないほど、僕はエヴァを拒絶してはいなかった。9年の年月のおかげと言えるかもしれない。

赤ん坊。農作業。ケンスケとアスカの疑似的な親子関係。言葉を教わる綾波。虐待にしか見えないものの、アスカがシンジに食事を取らせるシーンも、そうだ。

そこには、「育み」があった。誰かを育むことで、自らをも成長させる。そんな生命の営みに対する、極めてポジティブな情景があった。

トウジが自宅の酒盛りで吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているのを聞いて、僕にはなんとなくこの第三村で、制作陣のやりたかったことが分かった気がした。

この歌は1974年に作られたものだ。エヴァの舞台である2015年、「Q」の2030年あたりは勿論、テレビ版放送時の1995年から考えても、明確に過去の歌である。であるのになぜ、ここで歌われるのか。トウジやその家族、あるいは委員長の家庭にフォークファンがいたから? まさか。設定としてはそういうのがあるかも知れないが、そうじゃない。この歌は「親世代の曲」なのだ。二十世紀末にエヴァを見ていた、当時の子供たちにとって。もしかしたら当時エヴァを作っていた、若者たちにとっても。そしてこれまでのエヴァにおいて、「親」というのはただならぬ意味を持っていた。理不尽で、身勝手で、自分を振り回す。なにやら深慮を巡らせ、しかしそれを説明してくれることはない。言う通りにできなければ、自分をぶつ。なじる。責め立てる。「親」は「敵」だった。「Q」においても、それは同じだった。ただ立場が変わった。制作陣は「親」になっていた。視聴者を「子」に見立てて、制作陣は僕をぶった。「大人になれ」となじった。なんでも説明してもらえると思うなと責め立てた。それは教育のつもりだったかもしれないが、実態は虐待の再生産だった。

だが、「シン」では違った。きっと、何かがあったのだろう。何があったのかは知らないが、とにかく「シン」においては、これまで描いてきた「親」と「子」の関係性をやり直そうとした。そのための施設が、第三村だ。

第三村が象徴するのは戦後の日本だ。全てがぶち壊されたところから這い出して、寄り添い、集まり、生き延びてきた。後ろ暗いこともやったとトウジは語る。ガキのままじゃいられなかったと。そうだろう。そんな過去を生きながらしかし、彼らは、彼女らは、僕たちの今に通じる世界を残してくれた。過去のことなど考えなくても良いぐらい、豊かな世界を築いてくれたのだ。

それを描くために、第三村は在った。それを知るために、シンジたちは村に入った。ともに畑を耕し、村の社会を構成する一員として生きる中で、「人生を語ら」ない大人たちを知る。子供を育みながら、その行ないによって、自身を育てる。

ここに至って、ようやく。「親」は「子」の敵ではなく。「子」は「親」のお荷物ではなく。共に生き、共に育つ対等な存在であることが、確認されたのである。

これを告げられて、僕にそれを寿ぐ以外のどんな行動がとれようか。

気付けて良かったねと、そう言うしかないではないか。

先ほども書いた通り、映画としての完成度は低い。説明に説明を重ねて上滑りする脚本。そもそも説明を放棄したいくつもの固有名詞。それらが入り混じる会話劇は、聞くに堪えない。特にヴンダーの上でシンジがエヴァに乗るの乗らないのを言い争うシーンなど、今思い出しても笑えるほどにお粗末だ。

常に展開に追われ、時間に急かされながら、「話を終わらせるために、せめてこれはやらなければいけない」と書き連ねたチェックリストを埋めていくだけの作業に、演出の魔法を掛けたのがこの映画だ。しかし、それでも。そうなると分かっていてもなお。短くない時間を使って第三村で「親子」の再構築を描いたことを、僕は祝福したい。あれなしに、終盤のゲンドウとシンジの(ある種の)和解を描いても、それこそ説明不足で付いていけなかっただろう。

 

「エヴァの呪い」を受けた事のない僕には、それがどんなものかはわからないが。少なくともこの映画は「親になってしまった子供」を、その呪いから解き放った。

フリクリ オルタナ

「たとえ明日が 昨日の寄せ集めでも わたしは」

 

「フリクリ オルタナ」を見た。2000年、ガイナックスとProduction I.Gによって制作されたOVA「FLCL」、その続編の片割れである。

愚にもつかない話を軽く書く予定なので、先に映画の感想を言っておく。

「予想していたFLCLの新エピソード」でも、「期待していたFLCLの続編」でもなく、しかしフリクリ オルタナは飛び切り面白いアニメだった。

初報は2015年だったと言う。ガイナックスが、FLCLの権利をProduction I.Gに譲渡したというニュースが流れた。僕は確かにこれを耳にしたはずだが、あまりその時のことを覚えていない。多分、本当に作られるのかどうか、実感がなかったのだろう。

そのまま権利関係のニュースの事も頭から過ぎ去った2016年、鶴巻和哉をスーパーバイザーに据えて続編を制作する事が決定という報に、僕は動揺した。

僕は「宝くじを当てたら実現したい事リスト」を持っている。ちょっとしたあぶく銭でできる事から、一等一本じゃ足りないような事まで、大小いろいろと欲望をそのままぶちこけたリストだが、2016年は「ウォークラフト」の公開が発表され、そのリストから「Blizzardに映画を作ってもらう」という項目が消えた年だった。そんな最中、「鶴巻和哉にFLCLみたいなアニメを作ってもらう」まで消えたのだから、動揺しない方がおかしい。

ダサくカッコつけてないように装う斜に構えたカッコよさ。アニメーターの悪ふざけの如く目まぐるしく変化し続ける映像。よくわかんないんだけどなんとなくわかる気がする演出。おちゃらけと猥雑の中に太い芯を感じさせる物語。

あのFLCLの新作がやってくる。

2017年、FLCL2と3が制作されるというティザームービーを見た頃には、僕の期待はとんでもない事になっていた。

2018年になり、オルタナとプログレというタイトルまで公開され、それぞれのPVを見てちょっと引っかかるものを感じたり(ハル子の声優がプログレだけ違うとかその辺)、海外では6月にプログレ公開(日本では両方9月に公開)という情報にモヤモヤしたりしながらも、僕は大層ワクワクして公開を待った。

そうして、とうとうオルタナを見た。

あんまり面白くない。

それが、第一章が終わり、「NEXT EPISODE」の表記を見ながら抱いた最初の印象だ。

「FLCL」的演出……というか、「FLCL」オマージュは確かにある。見たら誰にだって分かるだろう。しかし、あまりにもセリフや展開が、仕上がってないのではないか。

そんな印象は、第二章になってもより強くなるばかり。FLCLのハル子なら、もっとウィットに富んだ軽口を挟むんじゃないか。FLCLなら、もうちょっと巧妙に描くのではないか。

そういう、なかなか退屈な映像とお話が、ただピロウズの曲を背に流れている。

第二章が終わったあたりで、僕は既に自分を慰めるフェイズに入っていた。ここ数年、FLCLの、あのFLCLの続編をやるという話に、舞い上がり過ぎていたんだよ。

考えてみれば、あれほどのイカれたクオリティを保った作品に比肩するクオリティを、このご時世のアニメがそう易々と出せるはずもなかったのだ。

FLCLの表面だけをなぞった、ダラダラとつまらないアニメが流れる。そんな可能性だって、十分にあったじゃないか。

 

そんな思いが反転したのは、第四章。このエピソードを見ながら、僕はようやく自分の思い違いに気づいた。

このアニメは、日常アニメだったのだ。

ここで言う「日常アニメ」とは、だらだらとしょうもないイベントを垂れ流して女の子を愛でる作品の事ではない。「日常を描く」とは、僕の中ではそういう事ではない。

かつて「この世界の片隅に」において明確に意識したように、僕にとって「日常」とは「単体では語り得ぬもの」である。日常は常にそこに存在していて、「非日常」なしには認識できない。故に、日常を描くためにはその日常を破る「非日常」が必要であり、そしてまたその非日常が「日常」に飲み込まれる帰結こそが日常を描き切るために求められる。

その文脈における、「日常アニメ」こそが、「フリクリ オルタナ」だったのだと、僕は第四章にしてようやく気付いた。

一章から三章は「つまらない」。その認識を変えるつもりはない。

しかし、「日常」とは面白くないものだ。呼吸する面白さ、足を前に出す面白さ。そんなものを意識する事は、「日常」においてはない。面白さを感じるほどの事態はそれそのものがもはや非日常なのだから。

そんな中で、主人公の逃避と、懐の深い友達によって、「ハルハラハル子」と「N.O.」という意味も正体も不明な非日常はいともたやすくつまらない日常に溶け込んでいく。それこそが、この作品において重要だったのだ。面白可笑しくては、印象的であっては、刺激的であっては困るのだ。何故ならば、この作品は主人公の「日常」を描く作品だから。

一章では、キャラクターの紹介を。二章と三章では友達の「思わぬ一面」という非日常を追いつつ、ここでシッカリと、ガッツリと、それらを「日常」として飲み込んだからこそ、主人公にフォーカスの当たり否応なく非日常に直面する四章が生き、非日常を受け止めてきた日常そのものが瓦解する五章が映え、そして物語を終わらせる六章が輝く。非日常がいともたやすく日常を切り裂き、しかし裂かれた日常は平然とその非日常をすら日常化する。日常は変化し、しかし変わらず訪れる。

そして、それは紛れもなく、「FLCL」が描いた事ではなかっただろうか。少年の日常に突如現れた「青春の幻影」。だがその女神は少年を一足飛びに大人へなんかしやしない。少年は少年のまま、しかし明確に変化する。「酸っぱいのは嫌いなんだけど」。ナオタに訪れた、小さく、しかし決定的な変化。それを捉えなおそうという、明確な意志。それは、成功しているように僕の目からは見えた。

 

この作品の前半部分のつまらなさは、意図されたものだ。そしてそれは非常に効果的で、「面白い」。

もはや何の憂いもない。何の恐れもない。「フリクリ プログレ」の公開が、今から待ちきれない。

宇宙よりも遠い場所

「何もない一日なんて、存在しないのだということ」

 

マッドハウス制作のオリジナルテレビアニメ「宇宙よりも遠い場所」を最終話まで見終えてから、二週間が経った。(別に時間感覚を喪失してるわけじゃない。書き始めた時はまだ二週間しか経ってなかったんだ。)未だに僕はこの作品にブチのめされていて、満足に立つ事も出来ない。何も手につかない。体が麻痺してる。それでも、僕は立って、踏み出さなければならない。この作品は素晴らしかったんだと、心に刻んでおくために。この作品は無駄でなかったと、僕自身に示すために。

そのために、まず。この文章を書き上げようと思う。

「宇宙よりも遠い場所」は、オリジナル作品だ。それも頭から終わりまで、1クールのテレビアニメとして設計され構築された、「13話完結の連続テレビアニメでなければならなかった」物語だ。その練りこみは凄まじいものがあった。「毎話盛り上がりがある」「始めた話はその尺の中でケリをつける」だけじゃない。そんなものなら、一話完結の物語を作れば良いという事になってしまう。この作品は歯切れの良さを残しながら一つの大きな物語を描くにあたり、1話1話のエピソードの繋ぎ目を、大胆にも作中に放置した。

コンビニ店員としての三宅日向。

資金集めの手段としての白石親子。

まず姿を描かず声だけが登場し、次の話では逆に顔だけ出して喋らない藤堂吟。

非常に明確な導線。カメラが追いかける少女たちの物語とは別の場所、別の位相でも、確かに事態は同時進行している事の示唆。(余談になるが、「外を懸命に覗く」「ひっそりと同じ車両に乗り合わせて様子を窺う」「意を決して車から降りる」と、誰もがその登場シーンで「外」にアプローチしているというのも、この物語を貫く大きなテーマ、「踏み出す」への帰結を感じさせる演出だ。)「おや、誰か出てきたね。話は一旦ここで終わるけど、次どうなると思う?」と、見ている人間に投げかけ、考えさせ、次の物語を待ち望ませる。これは本編中に存在するパターンだけでなく、本編終了後、ほんの数秒のティザームービーを使ってやっている事もある。単話としての完結感を強く残した話、本編の独立性が高い話で特に顕著に、思いがけない人物や描写が登場しているように思う。ここの配分まで計算してあるのかどうか、そこまでは分からないが、ともかく。これは映像を垂れ流し、内容を大まかに伝えてしまう「次回予告」を本編直後に流してしまっては果たせなかった事だ。そして、非常に大切な事。この物語の製作陣は、絶対に翌週、その期待に応える。「続きはまた来週」と締めておいて、いつまで待っても続きを話してくれないようでは誰もついて行くことはできない。期待させ、応える。それを繰り返す事で、信頼が生まれる。(えげつないのはそのやり口で、このアニメは一週間かけてこっちが想像した「次回」を放送前日に予告を流す事で軌道修正させ、受け入れ態勢を整えさせた上でぶち込んで来るのだ。ナレーションが最終回以外ふざけまくっていたのはそこで得られる情報さえ可能な限り制限しようとしていたに違いないと僕は今でも思っているし、最終回だけ真面目なトーンだったのは最後の落ちを隠蔽するためだったと確信している)

語り部と聞き手の原始的で刺激的な信頼関係を、この作品は意識的に作っている。これは、第一話最後で為されるキマリと報瀬の会話「どうやって行くつもり?」「知りたい?」という会話からも明らかだ。どうやって行くのか。それはまさに僕の側、見ている人間の側の問い掛けであり、このアニメはその問い掛けにニヤリと笑いながら、種明かしを翌週に回す。期待と不安に包まれながら聞かされたその作戦は余りにも杜撰で、当然成功するわけもなく。その上でなお少女たちはあくまでもポジティブに前へ進もうと動き続け、何よりもその「前へ進む」という行為そのものによって、失敗の中で目的を果たす。

 

当たり前の話をするが、この作品はフィクションだ。別にこの当たり前の前提は、「現実はそんなに甘くない」という批判への盾じゃない。「そんな事分かってる、でも一旦忘れようよ」という現実逃避の御題目じゃない。ではフィクションが意味することは何か。

フィクションである事の本質的な意味。それは、端的に言うならば「キャラクターのために雨を降らせる事が出来る」というものだ。

現実世界において、天候はとてもとても、人と連動しているとは言えない。僕が泣こうが笑おうが、空はいつだって自由気ままだ。

しかしフィクションでなら、出来る。「キャラクターの感情」を表現するために、作者は空から雨を降らせたり、逆に嫌味なほどの快晴を用意できる。老いた魔道士のために、再び見られないと思った恐るべき力で応える事ができる。

これがフィクションだ。空だけじゃない。すべての事象を操作できる。それこそが、フィクションという前提が持つ本質的な意味であり、フィクションへの「リアリティ」という評価がチェックする領域だ。何故全てが自由で、槍でも火の玉でもピラミッドでも自在に降らせる事が出来るフィクション世界において、「リアリティ」が言及されるのか。それは、その全能の力がなんの意志も矜持もなくただ混沌に渦巻いているのではなく、明確なる作者の想いを乗せて、何らかの「テーマ」を表現するために振るわれるはずだと、他ならぬ僕が信じるからだ。「因果応報」。余りに膨大で複雑に絡み合った現実世界では確認しきれないこのルールが、物語の世界では観測できるはずだと、誰あろう僕が願うからだ。

 

前置きが長くなった。ともかく、画の積み重ね、音の調べ、それによって紡がれる話、そのすべてを撚り合わせた物語の中から、「テーマ」という背骨を見出す。物語が現実の物理法則を無視しようが法道徳を犯そうが、絶対不可侵を貫くもの。物語世界の内容物全てが、そのもののために存在していると呼べるもの。それが「テーマ」だ。

この作品のテーマは、「踏み出す」。この世界では、人が踏み出せば、絶対に状況が変わる。

台詞によって、ストーリーによって、背景によって。明に暗に、徹底的に突き詰めて描かれるこの「踏み出す」は、この作品を通して、世界をぐるぐると廻し、少女たちを次のステップへと誘う。その足取りが余りに軽やかで、その結果が余りにも美しくて、ともすれば、「踏み出せば上手くいく」というメッセージとして、受け取ってしまうかもしれない。

しかし、そうではない。そうであれば、この物語はそもそも成立しない。この作品において「踏み出す」事は絶対に無為にならないが、その踏み出した先、足の踏み場は保証されていない。

報瀬の母小淵沢貴子は、自身と仲間たちの夢に向かって進み始め、何かを掴もうとした矢先、ブリザードに飲まれてそのままあっけなく逝ってしまった。

日向との間に断絶を作った陸上部の少女たちは、どのような意図か明確にはされていないものの、ともかくその断絶を修復しにきたが、日向の親友の手で断ち切られた。

この二つの滑落は、第八話の「大時化の船外」と、第五話の「絶交」という、それぞれに対応して存在する「成功例」によって大きく浮き彫りにされる。しかしそのレリーフは、彼女たちのうち誰が正しくて、誰が間違っているのかなんてことを、描き出したりはしない。誰かを断罪したりはしない。

夢を追う事が即ち成功を意味する世界なら、貴子が死ぬ事はなかっただろう。夢を追う時少しでも躓けば死ぬ世界なら、少女たちは波に飲まれてその姿を消しただろう。

人を傷つける事が取り返しのつかない事と等しいなら、「絶交」は果たされていただろう。右手で頬を打ちながらでも差し出した左手が必ず握り返されるなら、少女たちは許されていただろう。

この世界はどれでもない。何故だ。簡単だろう、そうする事なんて。貴子が実は生きてた。日向が同級生を許す。怒るキマリの後ろで崩れ落ちるめぐみ。報瀬の啖呵に醜く狼狽する様。わかりやすい「勧善懲悪」「めでたしめでたし」に落とし込む事なんて、楽勝だろう。何故そうしない。

それは、この作品に登場するキャラクター全員を、見ている側、作っている側と同じ人間として描いているからだ。

吹雪に飲まれて死んだ人も、高波を被って笑う人も。泣きながら断絶を望む人も、笑いながら復縁を求める人も。

そのどれもが、人を映す鏡だからだ。

これこそが、この作品の端倪すべからざる部分である。この作品は断罪しない。「あいつが悪い」「お前は正しい」なんて事は描かない。踏み出した足が地面を掴めるかどうかは、この世界の関知することでない。あくまでも各キャラクターの、あるいは見ている側個人の「私」によってしか判別されない。相手が何を思っているかなんてことは、「思い込み」に過ぎないと、描写でも、台詞でも、全力で伝えている。それほどまでに、この作品における「他者」の扱いは重い。

第一話、上級生に絡まれた報瀬に対しキマリの送る合図は、「わかるわけないでしょ」と切って捨てられる。

第三話、「友達を作りたい」と言う結月にハグをしながらキマリの発した「わかるよ」という共感は、「わからないですよ」と撥ね除けられる。

第五話、己の行為を懺悔するめぐみにキマリはただ「なんで?」と問い続け、その答えはめぐみ自身「知らねえよ」としか言いようがない。

第六話、パスポートを無くした日向に便を遅らせようと提案する報瀬の言葉は「気ぃ遣われるの嫌なんだよね」と拒絶される。「気なんか遣ってない」という否定すら、日向にとっては気遣いでしかない。

具体例を挙げ始めれば、キリがないほどに。この作品は何度も何度も、「他者」の独立性、人と人の間の断絶を強調する。「手を伸ばせば繋がれる」なんて楽観主義の絵空事は通用しないと断言する。でもそれは、「所詮人間は他人を理解する事が出来ない」というような虚無主義ゆえじゃない。それを理解した上で、それでもなお自分は相手を理解していると「思い込む」事。絶交を告げて去ろうとする相手をそれでも抱きしめる事。自らへの制止を全力で拒否し、それでも握られた腕を振り払わない事。送ったメッセージが既読スルーされてさえ「わかるんだよ、どんな顔してるか」と言ってのける事。掴めないと、出来るわけがないと、「行けるわけないじゃん」と言われてもなお、「踏み出す」事。それこそが、相互理解である。楽観でも虚無でもない。なんて実践的な理想だろうか。

そこまでやった上で、この作品は、なんとまだ終わらなかった。「残念だったな」。これほどまでに的確なワードが存在するなんて。そうだ。結局「わかる」なんて思い込みでしかない。人の想像力なんて、現実を覆いつくすには貧弱すぎる。どれだけ思い込んでも、他者はその壁をぶち壊して思いもよらない事をやってのける。だからこそ他人と通じ合うのは面白く、大切で、尊いんだ。「なんでー!」と言える事こそが、人間が誰かと関係を持つ事の意味なんだ。

このアニメが、人間関係の再接続という行為に対し成功と失敗という異なる二つの結果を描くのは、そこに普遍さを映し出すためだ。僕たち自身も、いつ取り返しのつかない失敗をしてしまうか知れない。その失敗が余りに痛くて。その失敗が余りに辛くて。「怖くて、辞めちゃいたい」と、そう思ってしまっても。それでも、「踏み出す」べきなんだ。その一歩こそが、君を「宇宙よりも遠い場所」に連れて行ってくれるんだ。

 

 

さよならの朝に約束の花をかざろう

「私なら――翔べる」

 

 

PAワークス制作、岡田麿里初監督作品、「さよならの朝に約束の花をかざろう」を観てきた。少年少女の姿を留めたまま長い時を生きる神話的存在「別れの民」と、生まれ育ち老いて死ぬ「人」。その二つの道が交わっていく中で「母とは何か」を描く作品だった。

話としては、嫌いではない。ただ、使う道具が悪かったのではないか。

キャラクター原案とキャラクターデザイン、どちらの仕事でこうなったのか知らないが、時間を経ても老いる事のない麗しき金髪美形が雁首を揃えた「別れの民」と対比して存在すべき、老いて死んでいく側の人間を余りにも描けていなさ過ぎる。女手一つで二人の子を育てている母がそもそも若い女にしか見えないのには目を瞑るとしても、その子供達が成長する様を身長でしか表現できないようなデザインを何故採用したのか。幼児と少年、少年と青年、青年と大人、大人の中にも若々しいもの老けたもの衰えたもの、そして老人という区分の違いが一目で見て取れ、かつ別人か同一人物かを即座に理解させるような、そういうキャラクターデザインが出来なければせっかくの話が台無しだ。

またその話にしても、「女の戦い」としての出産との対で「男の戦い」戦争を、「育ての母」「産みの母」との対で「我が子を見捨てる王族」を配置しているものの、作品の中で男側のテーマを回収できず投げっぱなしになっていては意味がない。映画を地味にしたくなかったのかもしれないが、ただ大砲で城を破壊したり騎馬突撃を銃で迎撃したり、馬鹿っぽい王様が我侭言い散らした所で、映画は面白くなんてならない。そういう所にリソースを割くぐらいなら、もっと狭い世界を切り取って描いたほうが効果的だっただろう。

リソースの話はキャラクターの数にも言える。キャラクターの顔と声と性格と名前が一致できてないのに性急に場面を動かされても、こっちには誰が誰だか判断つかないんだよ。最初に拉致された別れの民の長老は結局その後画面に映ったのか? それとも全部他の子だったのか?  「別れの民」が捕らえられた後、鎖に繋がれた多眼の竜に語りかけていたのはどうやらレイシアらしいと今にして思うが、観ている時はあれが長老かなと思っていたので婚姻の相手がどうこうという話になった時も戸惑ったし、隣国を戦争へ踏み切らせた「別れの民」は誰だ? 髪が長かったので女性と思ったがただの見間違いであれはクリムだったのか? 髪型目の色ぐらいしか判断基準がないキャラクターデザインに同色の髪で描かせ、記憶させる必然性の薄いキャラクターを無駄に名有りにする。混乱の元でしかなかった。

 

色々と書いたが、最初に書いたように、話は嫌いではない。長命と定命の間の悲喜交々を、ただ男女としての愛と別れだけでなく、親と子としてのそれにまで手を広げ、その中で「母」とは、「親」とはなにかを描く。それだけの物語に徹していれば、もっと良い作品になっただろうと思う。短針と長針が刻む時の差は、それだけで数々のドラマを生む。そしてそれは、その物語が古臭いとか陳腐とか言う事を決して意味しない。今でも、その種の物語は望まれ続けている。つい最近twitter上で発生した「魔女集会で会いましょう」なる一大ムーブメントも、それを象徴している。しかし、この作品には無駄が多い。設定を決めたから、キャラクターを用意したから、全部ぶち込まずには居れなかったのだろうか。それが作品のバランスを崩し、纏まりを喪わせるとしても?

僕としては、使う道具が悪かったのではないか、としか言えない。

最後の方はもう明らかに作ってる人達が「絶対ここで観てる人泣かせちゃる~!」と思いっきり張り切っている感じがガンガン伝わってきて、まあこれは好き好きだろう。僕はもうちょっと控えめにやってくれた方が心打たれるけど、アレが刺さる人もいるだろうしね。