柘榴坂の仇討

「姿形は変わっても、捨ててはならぬものもまた、文明ではありませぬか」

 

中村貴一主演「柘榴坂の仇討」を見てきた。原作は浅田次郎。と書いたは良いが、僕はこの二人の事をほとんど知らない。僕がこの映画に足を運んだ理由は主に阿部寛と中村吉右衛門である。

阿部寛が仇役だというのはCMやチラシから知っていたが、中村吉右衛門が井伊直弼役だというのはまったく思いもよらなかったのでまずそこで驚いた。何せ話の中心は桜田門外で主君を失った男とその仇なのだから、必定、井伊直弼は早々に死ぬ。彼の演技が少ししか見られないというのは、なんとも勿体無い事だ。(家に帰って調べてみたところ、なんと十九年ぶりの映画出演だったそうだ。ますます勿体無い)流石に七十歳ということもあり、「鬼平犯科帳」のころから比べれば明らかに老けていたが、流石は人間国宝。貫禄の立ち振る舞いだった。作品としても、製作側としても色々事情はあったのかもしれないが、もう少し見ていたかった。

内容としては、江戸時代から明治時代へと急速に移り変わる時流の中で、半ば置いていかれたものたち、即ち武士であったり、その武家社会に纏わる忠や義であったり、情であったり(……勿論こういったものは二十一世紀の現代にも息づいてはいる。が、しかし、大手を振って、世の中の真ん中に存在しているわけではない。そんな中途半端な状態であることを悪用する輩も大勢いる)、そういった、失われたものの美しさ、ひたむきさ……「懐古」「郷愁」とでも言おうか、とにかく、そういったものを上手く調理していると思う。金貸しの無法な行いに対してやあやあ我こそはと次々に名乗りを上げる元武士達のシーンは非常に象徴的だ。

 

 

だが、と僕のようなひねくれ者は思うのだ。だが、いや、だからこそ、その事をおおっぴらに、作ってる側が言うべきではないだろう。「日本のいい映画ができました」とかなんとかチラシに書くような、そんな映画ではないだろう。時代遅れと馬鹿にされたり、冷笑されても、それでも自分の中の何かを貫く。それが武士道だと言うのなら、その考えをこそ、身のうちに秘するべきではないだろうか。チラシやパンフレットに対して怒るというのは、それこそお門違いかもしれないが。