大いなる助走

「作家は自分の書いたことで世間から憎まれる。そして報復を受ける。これを覚悟していない作家は作家ではない」

 

筒井康隆の「大いなる助走」を読んだ。

恐ろしい小説だった。何故現実と地続きの舞台を描いておきながら平然と自身の短編小説に出てくるようなキャラクターを登場させられるのか。あまつさえそんな彼らを動かし、存分にその心情を語らせるなど正気の沙汰ではない。ページを適当に開けるだけでも見開き中に一字下げがひとつもない台詞が広がっており、そのあまりの勢いと一貫性にただひたすら目を剥くばかりだった。

僕は筒井康隆の小説をほとんど読んだことがない。短編集をいくつか程度のもので、長編で頭に浮かんでくるのはあの名高い「時をかける少女」、そしてあの悪名高い「虚航船団」ぐらいのものだ。その浅い読書量の中で、僕が最も好きなものが「虚航船団」である。あれは正に狂気であった。しかし一定の触れ幅に保たれていた。管理された狂気。常人はおろか狂人にも描けないあのえもいわれぬ空気。あの作品を読んで僕は筒井康隆という人物を「キチガイが好きで好きでたまらなくて頭がおかしくなってしまった人なんだろうなあ」と思ったのだった。

「大いなる助走」はある意味では僕の考えを補強してくれた。作者は頭がおかしい。一方で、この二つの作品を並べて見る事で僕の頭は新しい認識を抱いた。「虚航船団」は、筒井康隆が今まで脳みその中に蒐集してきた狂気の標本を分類し、大展覧会として発表したものである。対してこの「大いなる助走」はもっと生々しい。言うなら動物園だ。ここに描かれた狂気たちはどれも生き生きとその血をたぎらせ、檻のこちら側にいる読者に踊りかかってくる。危険な獣を隔てているはずの檻はなんとも頼りなく今にも獣たちが飛び出しそうになり、観客は悲鳴と共に飛び上がる。全てが抑えられぬ魂の発露のようであり、しかしその実、裏では猛獣使いが静かにその鞭をしならせているのだ。

しかし一方で、物語の終わりはなんとも物悲しい。これは祭りの終わりにやってくる寂寥感なのか、それとも自分の手で始末をつけた猛獣使いの悲哀なのか。僕はまだ、この感情をはかりきれずにいる。