シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

「大人になったな」

 

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」より、実に足かけ14年。とうとう完結だという触れ込みを聞いた。正直、公開初日に見た「Q」であきれ果てた身としては「良かった」という評価も「本当に終わった」という言葉も全て半信半疑だったのだが、劇場近くに出向く用事もあったので良い機会にと、このコロナ感染拡大の冷めやらぬ中に厚かましくも不要不急で見てきた。

 

最初に言っておくと、僕はエヴァの世代ではない。テレビ版など見たことも無く、ただ事あるごとに話題に出てくる昔のアニメという印象しかなかった。ニコニコ動画で違法視聴した旧劇でそのアニメーションに感動したものの、漫画版に手を出してみたらなんとまだ完結していなかった。アニメを2クール見るほどの熱意はなく。結局どういう経緯で旧劇のような事態になったのかは、ネット上の書き込みを聞きかじりならぬ、読みかじって知った程度のものだった。

それから数年が経ち、友人に「エヴァ破、面白いよ」と言われた。そんなこと言われても僕旧テレビ版も「序」も見てないよと返したのだが、随分推されたので仕方なく「序」から順番に見ることにした。

あー、昔漫画で読んだわこの辺。その程度の認識だったが、確かに美しい映像と派手なアクションに強い音楽の使い方で見る者を楽しませる、なかなかの作品だった。そのまま「破」も見た。当時の認識はあまり覚えていないが、旧劇のときの鬱屈した雰囲気とは大きく違うなとは思ったはずだし、なにより「Q」を初日に見に行っているのだから相当気に入ったのだろう。

そして、2012年。超満員の大スクリーンで、「Q」を見た。

ふざけんなと思った。

「破」から十数年が経ち、エヴァの世界は激変していた。どうもサードインパクトが起きたらしく、その原因はシンジだったらしい。しかしシンジはインパクト以来、ずっと衛星軌道上で眠り続けていて、事態を何も知らない。映画の視聴者である僕とシンジは、作品の中でほとんど同一の立場だった。当然、意図されたものだ。シンジに向けられる言葉は、視聴者である僕に向けられるし、シンジの感じる理不尽は、そのまま視聴者である僕の中に生まれた。

「破」であれだけポジティブにシンジを送り出しておいて、誰も彼も説明一つせずシンジを詰り倒す。意味もわからん単語を吐き散らし、意味深で思わせぶりに振る舞っておきながら何一つ上手くいかない。シンジは失敗したらしい。それならそれで良いさ。じゃあ何が成功で、誰が成功するんだよ。別にシンジが英雄である必要はない。見ている側を気持ちよくさせる要素がその世界にとって害悪であったと暴き出しても構いはしない。しかしそれがなぜダメで、どうするべきなのか説明しなきゃ意味ねえだろ。煙に巻いてりゃそこに何かを見出して勝手に納得したり高尚扱いして貰えると思ってんじゃねえよ。

ただ一人優しさを見せてくれたカオルは「槍でやり直す」などと親父ギャグを打ちながらシンジの目の前で爆死してトラウマの拡大再生産を始めるわ、二進も三進もいかなくなったシンジは当然のように周囲の制止を無視するわ、怒鳴り散らすアスカにほれ見たことかという態度でまた罵倒されるわ。

失敗を描くためにキャラを愚かにするそれは、完全に馬鹿の書く脚本そのものだった。僕は心底、呆れ果てた。あれを「これこそがエヴァだ」などと祭り上げる向きすらあり、それを見てついに絶望した。

そうでございますか。「これがエヴァ」ですか。それならそれでよろしい。僕はエヴァの客じゃないんだろう。同時に、庵野の客でもない。エヴァを冠して馬鹿をくすぐり金を稼ぐ。これをやり続ける限り、庵野の作品は見ないと決めた。

遠くないうちに公開されるはずだった続編は延期につぐ延期。僕は鼻で笑っていた。「Q」を思い出せば、話に収拾を付けられないだろうことは明白だった。

いつしかシンゴジラが公開された。随分と好評だったが、僕は結局見なかった。公開前、劇場で見た予告編。恐慌を起こし、逃げ惑う群衆だけを映して「匂わせる」そのやり方が「Q」を思い出させ、腹立たしかったから。

とうとう公開が決まってからも、コロナで延期。ただ、流石に2020年にもなると、もう「Q」の記憶は薄れていた。興味もさほどなく。僕にとってエヴァは、「どうでもいい」作品だった。

次の公開日に決まった2021年の正月はそれこそコロナ第三波の猛威ただ中で、当然の再延期。この辺になって、流石に気の毒になってきた。

そして、3月。とうとう公開された。見る予定はなかった。言及すら、する気はなかった。周囲から見に行ったの行かないの、面白かっただの終わったから見に行けだの、そういう話を聞きながら、まあアマプラに配信されたら見るかなーなどと、気のない返事を返していた。

4月に入り、コロナ第四波が猛然と押し寄せ、大阪を中心に関西の医療は大打撃を受けている。東京も緊急事態宣言解除前からじわじわと検査の陽性者が増えていて、明らかに状況は悪い。極力、外に出たくない。そんな中で、街に出る予定が出来てしまった。どうせ出るなら映画も見ちまえと上映スケジュールを確認すると、そこにエヴァがあった。もうこれで良いやと、チケットを購入した。「Q」のことも大して覚えてなかったが、見返したらあの時のイライラが蘇ってきそうだったので、そのままに。

だから、「シン」が「Q」や「序」「破」と比べて、内容的にどうだったかを語ることは出来ない。

ただ、映画としての「シン」の感想を言うなら、明らかに完成度は低かった。

ド派手なアクションと、パソコンの演算能力を自慢したいのかと思うような過剰なオブジェクトの波で映像を揺らしながら、一方でキャラクターたちは入れ代わり立ち代わりひたすら説明セリフを並べ立て続ける。「Q」の時とは真逆で、しかし成長していないなと思った。セリフってのは見てる僕か、その場の誰かに理解させなきゃ意味ないんだよ。その場みんなが知ってることを確認している様を映したって、見てる人が場の空気に飲まれて分かったような顔してくれるわけじゃないんだ。また少し呆れる自分を意識しながら、しかし作品世界に確かにある違いに気付けないほど、僕はエヴァを拒絶してはいなかった。9年の年月のおかげと言えるかもしれない。

赤ん坊。農作業。ケンスケとアスカの疑似的な親子関係。言葉を教わる綾波。虐待にしか見えないものの、アスカがシンジに食事を取らせるシーンも、そうだ。

そこには、「育み」があった。誰かを育むことで、自らをも成長させる。そんな生命の営みに対する、極めてポジティブな情景があった。

トウジが自宅の酒盛りで吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているのを聞いて、僕にはなんとなくこの第三村で、制作陣のやりたかったことが分かった気がした。

この歌は1974年に作られたものだ。エヴァの舞台である2015年、「Q」の2030年あたりは勿論、テレビ版放送時の1995年から考えても、明確に過去の歌である。であるのになぜ、ここで歌われるのか。トウジやその家族、あるいは委員長の家庭にフォークファンがいたから? まさか。設定としてはそういうのがあるかも知れないが、そうじゃない。この歌は「親世代の曲」なのだ。二十世紀末にエヴァを見ていた、当時の子供たちにとって。もしかしたら当時エヴァを作っていた、若者たちにとっても。そしてこれまでのエヴァにおいて、「親」というのはただならぬ意味を持っていた。理不尽で、身勝手で、自分を振り回す。なにやら深慮を巡らせ、しかしそれを説明してくれることはない。言う通りにできなければ、自分をぶつ。なじる。責め立てる。「親」は「敵」だった。「Q」においても、それは同じだった。ただ立場が変わった。制作陣は「親」になっていた。視聴者を「子」に見立てて、制作陣は僕をぶった。「大人になれ」となじった。なんでも説明してもらえると思うなと責め立てた。それは教育のつもりだったかもしれないが、実態は虐待の再生産だった。

だが、「シン」では違った。きっと、何かがあったのだろう。何があったのかは知らないが、とにかく「シン」においては、これまで描いてきた「親」と「子」の関係性をやり直そうとした。そのための施設が、第三村だ。

第三村が象徴するのは戦後の日本だ。全てがぶち壊されたところから這い出して、寄り添い、集まり、生き延びてきた。後ろ暗いこともやったとトウジは語る。ガキのままじゃいられなかったと。そうだろう。そんな過去を生きながらしかし、彼らは、彼女らは、僕たちの今に通じる世界を残してくれた。過去のことなど考えなくても良いぐらい、豊かな世界を築いてくれたのだ。

それを描くために、第三村は在った。それを知るために、シンジたちは村に入った。ともに畑を耕し、村の社会を構成する一員として生きる中で、「人生を語ら」ない大人たちを知る。子供を育みながら、その行ないによって、自身を育てる。

ここに至って、ようやく。「親」は「子」の敵ではなく。「子」は「親」のお荷物ではなく。共に生き、共に育つ対等な存在であることが、確認されたのである。

これを告げられて、僕にそれを寿ぐ以外のどんな行動がとれようか。

気付けて良かったねと、そう言うしかないではないか。

先ほども書いた通り、映画としての完成度は低い。説明に説明を重ねて上滑りする脚本。そもそも説明を放棄したいくつもの固有名詞。それらが入り混じる会話劇は、聞くに堪えない。特にヴンダーの上でシンジがエヴァに乗るの乗らないのを言い争うシーンなど、今思い出しても笑えるほどにお粗末だ。

常に展開に追われ、時間に急かされながら、「話を終わらせるために、せめてこれはやらなければいけない」と書き連ねたチェックリストを埋めていくだけの作業に、演出の魔法を掛けたのがこの映画だ。しかし、それでも。そうなると分かっていてもなお。短くない時間を使って第三村で「親子」の再構築を描いたことを、僕は祝福したい。あれなしに、終盤のゲンドウとシンジの(ある種の)和解を描いても、それこそ説明不足で付いていけなかっただろう。

 

「エヴァの呪い」を受けた事のない僕には、それがどんなものかはわからないが。少なくともこの映画は「親になってしまった子供」を、その呪いから解き放った。

JOKER

「ジョークを一つ、思いついたんだ」

 

ジョーカー。言わずと知れた、DCコミック「バットマン」における不朽の名悪役。善も悪もお構いなしに引きずり回し、ゴッサムシティを恐怖に陥れる希代の怪人、そのオリジン。

 

僕は、TRPGという遊びを随分と長くやっている。テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームという、一定のルールに則ってキャラクターを作り、そのキャラクターのロールプレイをしながら遊ぶ、コミュニケーションゲームだ。そんなTRPGの、特にRPという部分に心を惹かれて遊んでいる人間だからだろうか。僕はこの映画を見ていて、ひとりのコメディアンが語った「妻とのロールプレイ」というネタが強烈に心に残った。

「僕は妻とよくロールプレイをして盛り上がっている。例えば、大学教授と単位の欲しい女子大生だ」

そのネタは実にありふれた下ネタで、時間にしてわずか一分程度だっただろう。シーンとしてはアーサーがコメディアンになるための勉強を映し、同時にアーサーが「普通の人間」の中でどうしようもなく浮いてしまっている様子を描いている。ここで言及された「ロールプレイ」という言葉が、僕がこの映画を楽しむにあたって非常に重要な役割を果たしてくれた。

ロールプレイ。ゲームの前に付く場合、その意味は非常に多義的なものとなるが、とりあえず英語としては「役割演技」と訳されることが多い。「特定の状況を用意し、何らかの役割を持ったキャラクターとして対応する」訓練として、企業の入社試験などでも採用されていたりする。だが、この言葉は決して空想や虚構だけに限定されるものではない。僕たちは時に誰かの家族として、時に誰かの友人として、時に誰かの師として弟として。時に誰かの敵として。その役割にふさわしい行動を選択する。話し方や考え方を変え、対する相手の立場や状況によって、自らの役割を決定する。

では。アーサーはどんな役割を持ったキャラクターであっただろうか。彼は人を笑わせたいという願いを持った芸人だ。彼は母親想いの息子だ。彼は父性を求めるこどもだ。

たとえ街のチンピラにボコボコにされようと。乗り合わせた子供の保護者から過剰なまでに気味悪がられようと。母親の介護をしながら貧しい生活を送ろうとも。この役割を担い続けている限りにおいて、彼は善良なピエロで在り続けることができた。歪ではあるものの、社会と自らを接続し続けることができた。

だが。この映画はジョーカーを生み出すため。哀れなアーサーから、彼の持つ役割を根こそぎ剥ぎ取る。それも、まるで旅人の服を自発的に脱がせた太陽のように、彼自身の手を使って。

彼は小児病棟に銃を持ち込み、仕事を首になった。彼にとっては極めて珍しいことであっただろう、大人を笑わせることのできた銃という必殺のネタこそが、「仕事」と「願望」という、彼と社会を繋ぐ巨大な鎖を断ち切った。

彼はトーマス・ウェインと母親の関係を聞き、その真実を知った。彼の愛した母は幼い自分を虐待し、妄想を信じ込んで金を無心する、どうしようもない養母だった。血のつながりすら与えない徹底ぶりで、最も小さな社会である家族、その「母」の息の根を止めた。

彼は母と共に毎晩見ていたコメディー番組の司会者に、我が子のように気に入られる空想を抱いていた。それほどまでに憧れていた伝説のコメディアンすら、彼を虚仮にし彼の行いを全否定した。母の真実を知る中で砕けていた「実父」と共に、残された絆、社会との接続の拠り所だった「父」はコナゴナになった。

社会の中での役割。ロールこそが、僕たちが僕たちであるという連続性を担保し続ける。それが残らず擦り潰されたなら、もはや個人として、キャラクターとしての同一性は保てない。全てを失った以上、アーサーはアーサーでは居られなかった。

 

 

ジョーカーと呼ばれたその男は。もはやジョーカーになるしかなかった。

ヒッキーヒッキーシェイク

「俺さ、言葉が嫌いなんだよ。だから言葉のない世界にすこしでも身を置いときたいわけ。ピカソの絵とか見て、これはナントカ主義のナントカでとか、莫迦だと思わね? ただの乾いた絵具じゃん。見てたいか、見たくないかだけじゃん」

 

津原泰水の「ヒッキーヒッキーシェイク」を読んだ。怪しげな自称カウンセラーJJによって引き合わされたヒキコモリ達のアンサンブル。

御多分に漏れず、僕がこの作家を知ったのはごく最近のことだ。1か月も経っていない。百田尚樹の「日本国紀」におけるコピペ騒動と、津原泰水による指摘。そこからひっそりと発生していた文庫本発刊の取り止めの、他ならぬ作家本人からの告発。出るはずの本が出るはずのタイミングで出なかった、というだけで終わっていたかもしれない話は、あれよあれよと言う間に燃え広がり、幻冬舎社長の見城徹を引きずり出し、彼はその筆禍によって自身のツイッターアカウントを焼き、AbemaTVの冠番組を潰した。

随分と回りくどい話だが、僕はこの一連の騒動の後半部分がネット上で話題になる頃にようやく津原泰水という作家を知り、ツイッターアカウントを覗いた。そこにはまず告発があった。告発は僕にとってニュースでしかなかったのでツイートを辿った。次に、戦いがあった。戦いは僕にとって暇つぶしでしかなかったのでさらにツイートを辿った。そして、僕は宣伝を見つけた

不定期連載の長編小説。小難しい言葉遣いの、良く言えば洒落た、悪く言えば気取ったような文章を、僕は貪るように読み、あっというまに掲載分を読み終えてしまった。

面白い。そう思った。だが、最後の更新は3月末。二か月近く放置されている一方で、明らかにこの物語は始まったばかり。

お預けを食らった犬の気分で、僕は渦中の「ヒッキーヒッキーシェイク」を予約し、ついでにやたら評判の良かった「11」という短編集を注文した。ほどなく届いた「11」を読み終えてみて。正直なところ僕は拍子抜けしていた。確かに面白い。文章も好きだ。「五色の舟」と「クラーケン」に関しては、特に気に入った。しかしいくつかの作品に関しては尻切れトンボというか、座りが悪いというか。どうにも、僕の趣味にはあまりあっていないようで。正直、失敗したかもな。そう思いながら、それでも何かの縁よと「ヒッキーヒッキーシェイク」の予約は継続し、やがて発売日が訪れて。読み始めてすぐに気付いた。この小説はべらぼうに面白い。30Pも読まないうちに、僕はコロッとこの作品にやられてしまった。あれこれ考えたのも、今にしてみればただの杞憂だったわけだ。

浮世離れした(ヒキコモリだけに)キャラクター達が織りなす出来事は、現実の色濃い地続きの舞台で藻掻くが故に一層空想の色を帯び、まるで風船さながらに世界を転がり回る。軽妙な会話の中で誰もが煙に巻かれながら、風に流されながら。突然二つの足で大地を踏みしめるようになどならず、ただ流されるままに海の向こうへと消えていきもせず。ただ、精一杯に伸ばしあった手を取りあって、世界と紐付けされる。

そこにある問題を隠蔽せず。安易な解決策など提示せず。それでいて、世界が目指すべき方向を描く。これもまた、実践的な作品だと言えるだろう。

この小説が、2016年5月の段階で出版されていたというのは、希望だ。

この小説が、2019年6月の段階まで“誰にも”読まれていなかったというのは、悲劇だ。

いくつもの事件が脳裏をよぎる。いくつものニュースが思い起こされる。彼らは、彼女らは、この小説を知っていただろうか。他ならぬ幻冬舎社長が暴露した単行本の売り上げ冊数を考えるに、恐らくは知るまい。目にしたこともなく、存在自体認識してはおるまい。

そのうちのいくつかは、ここ一か月に起きた事だった。それがなによりも辛く、悲しい。

僕だって、この騒動が無ければこの作家を知ることはなかった。小説を読むことはなかった。逆に言えば、何かがあれば誰だって、この小説を読み得たということだ。

もしも彼ら彼女らが、この作品を知っていたならば。手に取って読んでいたならば。

全てと言わずとも、いくつかの悲劇は未然に防がれたのではないか。そんな考えばかりが胸に溢れる。

Mary Poppins Returns

「忘れないよ、メリーポピンズ」

 

「メリーポピンズ リターンズ」を見た。1965年に公開された傑作ミュージカル映画「メリーポピンズ」が、50年の時を超えて新作映画になる。それを知った時、勘の良い僕はピンと来ていた。

今(と限定するまでもなく)、世界中でリメイクが流行だ。リブートを繰り返す各種ヒーロー映画に擬えるまでもない。「パディントン」「ピーターラビット」「美女と野獣」「くるみ割り人形」など、ディズニーでも他の会社でも、日本のアニメ業界でだって。ちょっと思い返せばいくつも出てくる。何も「リメイクは商業的に堅い」なんて擦れただけの考えでもないだろう。名だたる過去の傑作を見て育ってきた世代が造り手となり、それらを自分たちの手でもう一度やってやろうじゃないかと思うのは実に自然なことだ。それは、この「メリーポピンズ」という怪物を前にしてすらも同じことだろう。むしろメリーポピンズには最強の音楽がついている事だし、組み立てを多少いじってそれを流すだけでも戦えるものは出来てしまいかねない。言われてみれば良いチョイスだ。

などと。

今にして思えば赤面するより他にない、愚鈍にして蒙昧な考えを抱いて。それ以上の何を知ることもなく、僕は劇場にやってきた。スクリーンに入り、周りが暗くなっても。公開前に外の屋台で買ったまっずいお握りの事を思い出していたほどだった。

そして、映画が始まり、ほどなく。僕は己の勘違いに気付いた。ガス灯。車いすに乗った提督。優し気な父親。快活な伯母。3人兄妹。

これは、リメイクではなく続編だった。「メリーポピンズ リターンズ」。読んで字のごとく。この映画は、かつてメリーポピンズに子守をされたバンクス姉弟が成長した時代にメリーポピンズが帰ってくるという物語だったのだ。つまり、「プーと大人になった僕」が近いわけだ。(こうやって並べると、一層「ウォルトディズニーの約束」で原作者がプーさんに話し掛けるシーンの重みが増す気がしないでもない)

という事に遅まきながら気付き、大きく納得をして、しかし僕は正直なところ、(こんなもんか)と思いながら見ていた。懐かしいメロディーは聞こえてくるものの、目玉となるミュージカル部分は新曲、新曲、新曲。どれも愉快な出来だがいくらなんでも相手が悪い。俳優陣を見渡せば、脇役や子役の芝居などは流石に時代とともに上がってきた全体としてのレベルの高さを感じさせるものの、あの主演二人に匹敵するほどの華を備えた俳優など、おいそれと見つけ出せるものではなく、前作が大好きな人間の贔屓目という点を考慮してもなお、追いつけてはいない。音楽や舞台は徹底的に「メリーポピンズ」を踏襲し、常に一目で「ああ、これあのシーンだ」と気付けてしまう。となれば最後の頼みは映像部分だが、ふんだんに使われるCGは余りにも幻想的、夢想的すぎ、実写であるキャラクター達が「浮いて」しまっていて。今映し出されている光景はメリーポピンズの操る魔法などではなく、夢とカリスマを備えたナニーの生み出す虚構に過ぎないのだと思わされてしまう。まあ、このように作中に現れる「非現実的事象」とキャラクターがそれを想像しているに過ぎない「虚構」の境界を「虚構」側に思い切りズラして描くのは最近とてもよく見るので(「プーと大人になった僕」や「エクソダス:神と王」などがパッと思い浮かぶ)、その流れを汲んでいるのだろう。

要するに。よくあるリバイバルの一環。それに過ぎない映画なんだ。それが、序盤を見ていての僕の感想だった。やがて2Dアニメーションのパートが現れ、久々に、本当に久々にディズニーの2Dアニメを見ることが出来て、それだけでも結構胸に来るものがあったが、映される群衆の中に微動だにしない個体を見つけるたび、規則的に同じ動きを繰り返している様に気付くたび。「衰えたな、ディズニー!」と。言いたくなる自分が居た。

潮目が変わったのは、終盤。本当に終盤だった。意地悪な銀行頭取の手で、バンクス一家は家を失いつつあった。そこに、かつての頭取が姿を現した。その姿。見紛うはずもない。ディック・ヴァン・ダイク。あの名優が、50年の月日を経て、あの時の姿でそこにいた。そして彼は、あまりにも鮮やかにすべての問題を解決してみせた。

2ペンス。

たったの2ペンス。マイケルが老婆から鳩の餌を買うために取り出した2ペンスを、父親が「未来のために」銀行に預けさせた明るくコミカルでしかし間違いなく暴力的なあのシーンを、この映画は見事に昇華させた。この上なく美しく、そして何よりも相応しい。まさに絶妙な脚本だった。あの1シーンで、この映画はどこに出しても恥ずかしくない、堂々たる「メリーポピンズ」の続編となった。

この映画は、とても完璧な映画ではない。シーンはどこも「メリーポピンズ」の焼き直しだし、音楽も俳優陣も映像効果すら、とてもとても勝ってるとは言えない。所詮一山いくらのリバイバル、と舐め腐った僕をぶちのめしたその1シーンの後だって、わざわざ必要か? と思ってしまう描写が挟まり、感極まっていた僕としてはどうも興が削がれたような感じを受けた箇所もあった。何より、この映画は「メリーポピンズ」を見てない人には多分付いていけないだろう。

それでも、この映画は「メリーポピンズ」でしか出来ないことをやったし、「メリーポピンズ」がやらなかったこと、やり残したことをやり遂げた。何より、「メリーポピンズ」を見ていて出てくる動物たちや奇人変人がだれもかれも「やあメリー・ポピンズ! お会いできてうれしいよ!」みたいな知人同士の挨拶をしていて若干の疎外感を感じていた僕としては、今度は逆に彼らと一緒に「久しぶり! 待ってたよ!」という心境で見ることが出来るというのは本当に嬉しかった。余りにも僕が感動した部分を有体に書いてしまったので、その手でこのような事を記すのはどうかと自分でも思うのだが、もし幼いころに「メリーポピンズ」を楽しんだ過去を持っているなら、この映画は間違いなくお勧めできる。

この作品は、メリーポピンズの宿題をやってのけた。

「コミュニティの一生」が指し示しているものはなんだったのか。

発祥がどこかは知らないが、とにかく2ちゃんねるやニコニコ、twitterなど日本のSNSを今も漂流している「コミュニティの一生」というコピペがある。

面白い人が面白いことをする
↓
面白いから凡人が集まってくる
↓
住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める
↓
面白い人が見切りをつけて居なくなる
↓
残った凡人が面白くないことをする
↓
面白くないので皆居なくなる

とまあ、委細に違いはあれど概ねこのような内容のテキストだ。このテキストを読んで尤もであると今を嘆く人がいれば、同じようにこのテキストを読んで新規を排斥すればそもそも誰もいなくなるだろと反発する人もいる。賛否両論数あれど、ともかくこの数行のテキストが、衆目に晒しても風化しないだけの強い力を持っていることは否定しがたい。

しかし、このテキストは余りにも刺々しい。「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」これらの言葉が具体的には誰に当てはまるのか。このテキストを読んだ自分――世の常として、必ずどこかしらのコミュニティに属している自分――は「面白い人」として評価されているのか、「凡人」として糾弾されているのか。それを判断するにはテキストがあまりにも曖昧で、読んだ人間の心にさざ波を立てずにはいられない。その刺々しさ、人に波を立てる鋭さこそが、このテキストの存在感を保ち続けたという功績は確かにある(かくいう僕も、その鋭さ故に、このように文章を書いているのだから)。それでも、この言葉の棘が読む人をただ通り魔的に傷つけて、まさにその傷によってコミュニティ内部に不和を生じてしまう事態に繋がっているのはなんとも悲しいので、僕はこの言葉を解きほぐしてやりたいと思う。すなわち、

「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」

とは一体、何を意味した言葉なのか。

それを理解するためには、まず「コミュニティ」とはなんなのかという所を決めておかねばならない。僕の定義はこうだ。

 

「コミュニティとは、集合である」

 

どのような種類のコミュニティであろうと、ただ一人の人間しかいない場所にコミュニティは形成されない。二人以上の人間が、何らかの目的をもって「重なり合った場所」こそがコミュニティである。ベン図を思い浮かべてもらうのが分かりやすいかと思う。複数の円が部分的に重なり合った領域。それこそがコミュニティである。この円は必ずしも個人である必要はなく、コミュニティ同士が重なり合った場所に新たなコミュニティが生まれるという事も当然あるだろう。

さて、コミュニティの黎明期。コミュニティを形成する円は少なく、当然コミュニティ自体も小さい。そんな中で、所属する人が活動をするとどうなるか。小さいコミュニティでは何をするにも、コミュニティの外から何かを持ち込むしかない。遊ぶとなったら外からゲームを持ってくるし、話すとなったら外の話題だ。つまり、黎明期のコミュニティは何かにつけて、所属者が持ち込む「未知」に晒され続ける。この「未知」の流入が継続的に行われるかどうか、そしてその「未知」がほかの所属者に受け入れられるかどうか。それが、コミュニティの発展を決定付ける。

ここに、「面白い人」と「面白いこと」と呼ばれるものが存在する。「未知」であり、なおかつコミュニティに所属する他者が受け入れられる何か……それが「面白いこと」と認識され、それを持ち込む人が「面白い人」と呼ばれる。

ここで「未知」と呼ばれるものは、コンテンツに限らず、人の場合もある。そして往々にして、これは雪だるまのように、他のものを連鎖的に連れてくる。新たな人をコミュニティへ招けば、その人が「未知」のコンテンツを提供してくれる事がある。新たなコンテンツがコミュニティに拓かれれば、そのコンテンツを求めて「未知」な人がコミュニティを訪れる事もある。このようにして、「面白い人」が「面白いこと」をすればするほどに、コミュニティは「面白い」という事になるわけだ。

しかし悲しいことだが、人には限界がある。一個人が知ることのできる情報は僅か。他人に伝達できる状態に変換できるものは更に少ない。多くの「面白い人」たちは遠くないうち、コミュニティに「未知」を持ち込むことが出来なくなっていく。

同様に、コンテンツにも限界がある。どれほど面白い遊びでも、100回遊び、1000回遊び、と回数を重ねていくうちに、段々と「未知」ではなくなってしまう。

一方で、「未知」としてコミュニティに流入した人たち全てが、今までいた「面白い人」と同じように「未知」を紹介できるわけではない。アニメでも映画でも小説でも構わないが、その道のファン10人でなら、ひとりひとり違う方法で作品の面白さを他人に伝えられるかもしれないが、10000人を集めて一人一本、10000種類の語り、コンテンツを作ることは至難だ。たとえ集まったとして、それらを一つ一つ判別できる形で拾い集める事も容易ではないだろう。

このように、どこかのタイミングで、コミュニティに「未知」を提供できない人というものが出てくる。正確には、顕在化する。最初のうちは気付かなかった、気にするまでもなかった存在が、次第に多く、目に付くようになってくる。

コミュニティに所属する者が受け入れられるような「未知」をコミュニティにもたらさない存在。それがこのコピペで言われるところの「凡人」であり、「主張」や「面白くないこと」とは「既知」であるものつまりすでに陳腐化したコンテンツや、あるいは「未知」ではあるがコミュニティ所属者の大多数にとって受け入れがたいコンテンツを意味している。

では、「面白い人」はどこに行ってしまったのだろう。「見切りをつけて居なくな」ってしまったのだろうか? そうとは限らない。

かつてコミュニティに「未知」を持ち込んでいた人が、コミュニティが拡大してもなお、同じように「未知」を持ち込めるなどというのは余りにも、人を過大評価している。そういった膨大なコンテンツにアクセスできる人は当然いる、その膨大なコンテンツを咀嚼し、僕たちにも理解できる形で授けてくれる存在は確かに地球に存在する。だが、人間というのはそんな逸材ばかりではない。いくつか面白いことを知っているだけの兄ちゃんや姉ちゃんだって、コミュニティはたくさんいるはずだ。そういった人たちが、自分の持つ「未知」をあらかた提供してしまったら。情報が、コンテンツが、陳腐化してしまったら。

そうなれば、彼ら彼女らは埋没する。コミュニティに内包され、「既知」の存在となる。つまり、「凡人」化する。コミュニティが拡大するに従って「面白い人」たちはそのコミュニティの中で段々と「凡人」になっていくのだ。

規模が大きくなれば、「未知」は減る。「未知」を提供できる人も減る。こうして、どこかのタイミングで遂に、コミュニティは停滞する。流入する「未知」こそが、コミュニティを拡大させていたのだから。

その後コミュニティが衰退していく事を、「人は『未知』が好きで、それを求めているから」という理由で説明することは難しい。「既知」の魅力を否定することは出来ないから。お約束、定番、王道、古典。そういったものにも面白さは明確に存在していて、なかなか消えてなくなることはない。それでもやはり、コミュニティの存続と発展には「未知」が必要不可欠なのだろう。コミュニティ内部のものにとってはとっくに「既知」の存在が当人にとっては「未知」であるからこそ、コミュニティ外部の存在が内部の存在に変化するのだから。

どうにも話が散らかってしまった印象はあるが、とりあえずこのコピペにおける「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」に関しては、少しは限定的な言葉に書き換えることが出来たように思う。

そしてそのうえで、僕は示したい。「凡人」が悪いのではない。「面白い人」が悪いのでもない。コミュニティはいつか飽和し、停滞し、衰退する。それは避けようのないことだ。「未知」を収集し、コミュニティに奉仕せよ、などとは誰にも命じることは出来ない。どこまで行っても。コミュニティは、人と人とが重なった集合に過ぎないのだから。それは人ではない。コミュニティはコンテンツではあっても、人ではない。大切なのは、人だ。人が苦痛を感じるようなことを、強いてはいけない。つまらないコミュニティになれば、新しいコミュニティにいけば良いのだ。

それでもなお。今所属しているコミュニティを盛り上げたいと思ったなら。そんなときは、持っている「未知」を一つ、コミュニティに提供してみたら良い。あなたにとってはありふれた、つまらない、誰でも思いつくような何かであっても。コミュニティの誰かにとってそうであるとは限らない。始まりからして、きっとそういうものだった。何気ない世間話で自分が全然知らない事を聞けたら、それはとっても「面白い」のだ。かつて僕も、その連鎖の果てに今いるコミュニティにたどり着いた。その連鎖の次の輪を、自らの手で作ってみるというのも、コミュニティから得られる「未知」であることは間違いのないことなのである。