THANK YOU FOR SMOKING

「バニラが一番の証明は?」「お前の間違いを証明すればいい」

 

クリストファー・バックリー原作「サンキュー・スモーキング」を見た。タバコが体に良いか悪いかだって? そういう話をしにきたんじゃないよ、という男の物語。

 

作品としては凡作以上傑作未満と言ったところ。楽しい作品だった。くっだらないジョークや役者のコミカルな演技は映画に実に良い色を添えていたが、この作品で語られているような内容は本や漫画を読み映画やドラマを見ていれば五百回は目にするだろう。いや流石に言い過ぎたが両の指は超えるはずだ。つまり「お前が決めろ」「絶対的な正しさなんて存在しない」「言い負かしたら勝ち」とまあ、こういった話だ。個人的にはこういった言葉のやり取りで重要なのは「嘘をつかない」だと思っているがまあこれは「言い負かしたら勝ち」に含まれるかもしれない。嘘は相手が付け入る隙になってしまうから。人を説得するというのはすなわち相手の考えを変えるということで、口が立つというのは詐欺師と同義だ。そして詐欺師は嘘をつかない。ああ違うな。「相手にわかるような嘘をつかない」というべきか。

ただ、昔からこの手の映画は(映画に限らないから作品を書くべきかもしれない)馬鹿を要領の良い人間がやり込めるばかりで、頭の良いもの同士がお互いの強み弱みを駆使して舌戦を繰り広げるような作品が少ないのがなんとも物足りない。例えば弁護士と検事なんて代理戦争には持って来いなのに、何故「真犯人を庇う悪徳弁護士」対「正義の検事とそれに協力する警察」とか、あるいはその逆で「無実の人間を守る正義の弁護士」対「真実なんてどうでもいい悪い司法機関」みたいな構図しかないのだ。いや、それでも良い。勧善懲悪で全然良いのだけど、余りにも愚者対賢者の戦いが多すぎやしないか、とちょっと食傷気味になってしまった感は否めない。「ニューオリンズ・トライアル」みたいに両陣営の努力や知性が伺えるのが好きだ。アメリカの法廷ドラマは僕のこうい嗜好を満たしてくれる作品が多いので気に入っている。「スーツ」も結構良いラインいってたがたまに実家に帰ったときぐらいしか見れないのでエピソードが飛び飛びなのが悲しい。レンタルビデオ屋が微妙に遠いのも悲しい。ああ、でもやっぱり善とか悪とか取っ払ってお互い高い職業意識だけを携えて舌戦を繰り広げるようなのも見てみたいな。外道だろうがお構いなしに免罪させる有能弁護士VS目の前の被疑者をムショに叩き込むことしか考えない役人とか、誰か書いてくれないものかな。

 

僕の個人的な一番のビックリポイントはBRを演じていたJ・K・シモンズの存在だ。この人は結構好き。僕はドラマでしか見たことがなかったが、映画俳優もやるのかとWikipedeaを読んでみたら、映画のほうにもしっかり出演していた。恥ずかしながら一作も見た記憶がない。その下に書いてあった

平成狸合戦ぽんぽこ 青左衛門 英語吹替え

を見てここでまたひとつビックリ。なるほど、アニメの吹き替えか。こっちはほとんど手を出していない。今度英語吹き替えの入ってる奴を借りてきてみようかな。

虐殺器官

「不条理なもんは全部カフカだ」

 

伊藤計劃「虐殺器官」を読んだ。「ハーモニー」を先に読んだのは良かったのか悪かったのか。「ハーモニー」同様、いや、それよりも少し露骨に、数々の小説の痕跡が刻まれている。

この小説家は「ことば」というものに非常に強い恐怖か、あるいは畏怖の念を持っているようだ。「ハーモニー」といい「虐殺器官」といい、読んでいると伊藤計劃は誰かにことばによって殺されかけたようにしか思えない。あるいは実際に殺されたのかもしれない。すべてではないにしろ、その脳の五七二のモジュールの一部を。

「ハーモニー」と違い、この小説は実に僕を満足させてくれた。この小説には僕の好む主張がふんだんに盛り込まれている。それは僕の中である程度咀嚼されていたものもあれば、まだ塊で残っているものもあるが、いずれにしろ僕にとっては嬉しい事だ。僕はこのような発見でまるで作者に自身を肯定されたかのような喜びを得る。「ハーモニー」も勿論面白かったが、満足よりもなによりも、その端々に見える作者の叫びが読んでいて辛かった。

ただ、しかしその一方でなんとも感想を語りにくい。この小説から自分と似た考えを持っているのだろうと推察し自身の部分的正しさの補強とすることは出来たが、僕はまだこの小説から新たな発見――すなわちセンス・オブ・ワンダー――が得られていないのだ。その理由は僕もまた現代小説の子供であり、喩えるならば伊藤計劃の弟分であるからだ、などと書くのは驕りが過ぎるだろうが、まあ正直な話そのような認識だ。読書量や思考レベル、そして文章力に至るまで、なかなかに圧倒的な差を感じるので書いていて自分でも恥ずかしいのだが、感じたものは仕方が無い。好き勝手書くついでに恥も存分に搔いておこう。

 

それよりもなによりも。僕が憤慨するのは、「虐殺器官」「ハーモニー」を読んでなお彼の死に何らかの意図を見出そうとする連中だ。無論、彼らが正しいのかも知れない。伊藤計劃は何らかの策略を抱えてこの二作を書き、自身の死を以ってその計劃を遂行しつつあるのかも知れない。だが、少なくとも僕には、彼が死んだという事実を携えながらこれら二作を思い返しても、「今」や「現実世界」に広がる無関心さや無寛容さに苦しみ、喘ぎながら、自身の生きる事が出来る場所を探していたようにしか読み取れない。「死者はぼくらを支配する。その経験不可能性によって」この言葉が指し示すのは、死者が生者を縛るのではなく、生者が死者の皮を使って自分自身を縛っているのだという事ではないのか。伊藤計劃の皮を被って、自分の見たい現実を作っているだけではないのか。僕には、伊藤計劃を祀り上げている連中がそのように映る。そして、伊藤計劃の小説はそれを「悪」だとは決してしなかったが、断じて「是」としていた訳ではないと、そう思うのだ。

梟の城

群衆の中には、かれらをより群衆化させるために、ひとりはきまって精神の脆弱な者がいる。

 

司馬遼太郎「梟の城」を読んだ。

司馬遼太郎の小説はもう一行目が頭をブン殴られたかのような衝撃を以って、こちらをその時代に蹴落としてしまう。これも同様だ。ページなど物の数ではない。書物だというのに、その場に自分が立って、横で司馬遼が滔々と何が起こっているかを聞かせてくれているかのような、そんな錯覚にすら陥る。

しかし、読む分には素晴らしいこの特色も、感想を書くとなっては非常に難しい。この人は文中で話を進めると同時にそれへの感想、考察、推量にいたるまでの自らの考えを懇切丁寧に並べ、更には「余談だが」にも象徴される、まったく別領域からの情報をも山と積み重ねるので、僕程度の人間ではその圧倒的な情報量に濁流に飲み込まれた一枚の葉の如く、ただ飲み込まれ掻き乱され流されていくことしかできない。それはもうえも言われぬ心地よさだが、そのせいで感想はと自問すれば「おもしろかった」程度のものしか出てこないのがなんともはや。

思うに、司馬遼太郎は文章が上手すぎるのだ。小説でありながら、歴史に片足を突っ込んでしまうほどに。それ故に「司馬史観」が問題となる。彼は小説を書いているに他ならないのに。

言い訳はこの辺りでやめておこう。何とか、かろうじて、濁流を流され終えたわが身に滴る雫を読み解くなら、重蔵の考える「忍者」像と、僕の考える「人間」像に近しい点があるという事だ。彼は忍に本性などなく、ただ今日のみあり、立場状況によってどうとでもなる、雲のようなものだと述べていた。自分の中にいくつもの側面があり、状況に応じてそれらが難を逃れさせてくれるのだと。僕は数年前から、人間に芯などというものが本当にあるのだろうかと考えている。「仮面」などに喩えられる事も多いが、果たしてその仮面の下に、顔など存在しているのかと。僕はいくつになっても両親の前では子であり、師の前では弟子であり、後輩の前では先輩であり、先輩の前では後輩であろう。僕を僕たらしめているのはまさにこの多種多様なる関係性としての僕ではないのか。これらすべてに変化している、「本当の僕」などというものが存在しているとはとても思えない。そのような事を考えているので、この小説の忍者たちの余りにもあっさりとした心変わりにもひたすら、「ああこれは現代人にも広く見られるものだなあ」と感じていた。

ピンポン第六話

「それ、ない」

 

オリジナルは良い。松本大洋の「ピンポン」ではないが湯浅政明のピンポンとして良しと出来る。チャイナが母親や部員達と和気藹々と過ごすシーンは流石に過剰な気もしたし(特にカラオケ)ここでチャイナが救われてしまったら個人的超重要ポイントである「相互救済」が薄れてしまうとも思ったが、湯浅監督がそう思ってないのなら別にそれはそれで構わない。彼女とクリスマスにデートする風間で血管が浮き出たが妄想で終わって良かった。本当に良かった。

後、喫煙と飲酒。これは驚いた。なんだよ、喫煙描けるんじゃないか。ペコは堕ちるところまで堕ちるからこそ、その後の這い上がりがよく映える。そのための序盤のアゲが少なかったとも思うが、もう過ぎたことだ。案外アニメで初めて見た人間は十分ペコ強そうに見えてたやも知れん。

 

 

だが。

だがなんだあのBパートは。なんでカブとの会話とアクマとの会話をごたまぜにした? なんだあの気の抜けるようなペコの喋り方は? 「握りっ方から俺に教えてくれろ」はそうじゃねぇ、そうじゃねえんだよ。真剣じゃなきゃ駄目なんだよ。卓球を捨てたペコが帰ってくるような、アクマに吹っ飛ばされたときと同じ衝撃を反対向きに食らったような、それほどの出来事で覚醒しなきゃ駄目だろ。なんでスマイルの覚醒はあんなに格好良く描けたのにペコはこうなんだよ。もしかしてここからぶっ飛ぶような覚醒シーンがあるのか? あると期待していいのか? ドラゴン退治じゃなくチャイナ退治になった理由がちゃんとあるのか? 実は伏線でチャイナ戦で真の救済と覚醒がくるのか?

 

来ると信じて今後に期待!

ピンポン第五話

「旧態依然、危急存亡。じき冬が来る」

 

ペコが海に行くのとか川にラケット投げるのとかは、これ期待していいんですね? 後のアレやソレの為の布石だと思っていいんですね? 女引っ掛けるのは、ちょっとどうかなとも思ったけどペコはコミュニケーション能力高いし妥当ではある。兎にも角にも、喫煙という要素をちゃんと入れてくれたのはとても良かった。流石に口から煙を吐く描写まではできなかったようだが、昨今のアニメに蔓延る「未成年者喫煙」という描写へのタブー感は実に気に食わない。「スペース☆ダンディ」ではそこのところを逆に使って面白い描写にしてて感心したが。

アニメオリジナル展開は、チャイナに関しては本当に頭っからピンズドで良い。中国という国の熾烈さと、そこで暮らす市民の平凡さのギャップが良い味を出している。ドラゴンを世界最強にしたのも良かったと思うが、しかし海王の順位が変わらないというのはどうなのだ? あんな設備を満載しておいてインハイ二回戦で負けていいのか? ドラゴン方向のオリジナル要素、彼女とか学校内の血縁とかはまだ糸を巡らせている状態なのだろう、多分。特に心を掴むモノはないが、まさか大して意味もないまま終わるという事もあるまい。ただアクマに対するコーチの評をアクマスマイル戦の前にやっちゃったのには驚いた。海王という場所の変節を早めに出し、ドラゴンの異常性がコーチ由来ではない(つまりほかにいる)ことを明確に打ち出したかったのだろうか。まあそのための理事長だろうとは思っていたが。

アニメオリジナル展開に前半部分をほとんど丸々使った分、アクマに対する積み立てが足りないのではないかとも思ったが、木村昴の演技が凄く良かった。もしかしたら原作を読んでたから脳内補完出来ただけかも知れないが。