僕のエメラルド・シティ

宇宙よりも遠い場所

「・青春、する。」

 

NHKみんなのうた「月のワルツ」のいしづかあつこ監督、京都アニメーション「響け!ユーフォニアム」の花田十輝脚本。MADHOUSE制作のオリジナルアニメーション「宇宙よりも遠い場所」を7話まで見ての感想。

 

1話から見ていてまず明確に意識したのは、「このアニメの根幹は南極云々ではない」という事だった。勿論大きなテーマではあろう。海上自衛隊、極地研究所などなど、錚々たる顔ぶれが協力者として挙げられ、ホームページには毎週南極関係者へのインタビューが掲載され、監督に至っては南極に直接取材に行こうとしたとまで言っている。南極という巨大なワンダーが作品を作り、整え、知らしめる燃料になっているのは間違いない。

しかし、ただ南極を描くだけならこのようなアニメにはならないだろう。主人公が女子高生? 物語の動き出しは落とした100万円を届けてあげた事? メンバーは二人で、とりあえず船を見に行って1話が終わり?

あり得ない事だ。南極を描くなら、南極から始めれば良い。もう少し面白いところを拾ってから行きたいというなら、南極へ向かう旅路からやったって良いだろう。だが、こんなところから物語を始めたりはしない。誰だってわかる。彼女たちが今立っている場所から南極に行くまでの道のりは、余りにも遠すぎる。

では何なのか。この1話と、新メンバーが加入していよいよ話が加速していく2話から僕が読み取ったのは、「少女たちが南極に辿り着くまでの軌跡」こそが、このアニメの真髄ですよ、という事だった。この文脈でも、大切なのは、「少女たちが南極に辿り着く」ことではなく、その「軌跡」だ。青春がしたいと泣いた少女が、青春が動いていると笑う。

青春って何だろう。その厳密な定義を、僕は知らない。しかし言葉は世界に溢れている。僕がそれらを読み解くために編み出した定義は、「後先を脇において、やるだけやる」。人は何かをする時色んな事を考える。スポーツをすれば筋肉痛になるかも。深酒が過ぎると二日酔いになるかも。余り遅くまで起きてると寝不足になるかも。そういった「未来のために今セーブする」という思考をうっちゃってしまって、ナウオアネバーの精神でもって何かをなそうとする事を、僕は青春と捉えている。だからきっと、このアニメもそういうことなのだろう。少女たちが南極に行こうとする。そこには沢山の障害が立ちふさがり、無理解が邪魔をし、そして少女たち自身の歪みもまた表出するだろう。そういったものにぶつかりながら、がむしゃらに南極を目指す、その軌跡こそが、この作品で描かれるものなのだろう。2話を見終えた時の僕の心持ちを、今にして言語化するなら、おおよそこのような感じになるだろう。

そんな予想は、3話で南極行きの特急券たる白石結月が加わり、4話で南極行きのための夏季訓練を始めてもなお磐石だった。だって物語世界での時計はまだ6月かそこらで(前期末テスト前)、夏休みすら迎えていないのだ。肝心の出発は11月。いくらでもイベントは起こせるのだからと、楽しくルンルン見ていた。お気楽に、3話を見ながら「友達」を持たない結月とバカグループの間の温度差に涙ぐみ、4話Cパートの不穏なめぐみを見ながら「ああ、動き始めてしまったキマリとの間で軋轢が生まれつつ、でも仲直りしてこの子がキマリの赤点を防ぐために勉強教えるのかなぁ」なんてのほほんとしていた。

予想が揺らいだのは、5話。アバンの段階で、もう行くという。南極に向かって発つという。この時点で僕は全校集会のめぐっちゃんみたいな顔になっていたと思う。それよりもっと困惑が表に出ていたか。ともかく、かなり動揺していた。だって余りに勿体無いじゃないか? いくらでもここにドラマを生み出せただろうに、なんでもう旅に出てしまうんだ?

そんな動揺の中でも、5話で描かれためぐみとキマリとの関係性の変貌には心を打たれ、また目を潤ませた。保護者面する事の気持ちよさ、そのために誰かをソフトロックしたいという薄汚い欲求に僕自身、身に覚えがあった。それを自覚し改めようとしてなお、相手に全てをぶちまける事で贖罪を為そうとする哀しいばかりのエゴイズムにも、身につまされる共感があった。このめぐみの行為もまた、「青春」だ。「青春」は選ばれた誰かだけの特権じゃない。世界中の誰のところにだって、存在する。ただ一歩踏み出せば、その足跡こそが青春になるのだ。そんな感じで僕は大いに感じ入りながら、(ああでもこの話8話ぐらいでやったらもっと鋭かったろうになぁ)というような事を考えていた。そして、2話を見た時点で描いていた「ずっと南極に行こうと頑張って周りの人間関係を浮き彫りにしていって最終話で10年ぐらい時間飛ばしてようやく南極に辿り着いてフィニッシュ」という予想ロードマップを頭から消し、シンガポールで何やるんだろう新キャラ出てくるのかなという割とフラットな状態で6話を待った。

6話では、5話とはまた違った形で、僕の薄暗い部分を刺激された。大切なものを失くした時の血の気がひいて行く焦りと、うっかりどっかに入り込んでるだけだと(本当は違うと半ばわかっていても)思い込もうとする現実逃避。気を遣われないように予め気を遣い、自分にとって都合の良い状態でだけ交信を行いたいという、薄皮を纏ったコミュニケーション障害。ある。僕にも覚えがある。若く、幼く、未熟。そんな中でも、自分なりにはなんとか体裁を保とうとしているという青臭さ。「相手のため」という自分のための言動。泣き出したいほどに、僕にとっては理解できた。そしてそんな雁字搦めを救ってくれる、境界線を踏み越えてくれるバカが存在しているという有難さを痛感した。こういう訳で、5話と6話は僕にはまるで双子のように映った。哀しい自意識が救われるのを見て、僕の中の変えられない過去、凝り固まった感情は慰撫され、挙句ド級の落差で物語のオチが付いたものだから、ゲラゲラ笑って作品を満喫した。

 

そして、昨日。7話が放送された。

この話を見て、ようやく。ようやく僕は、この作品の姿を目に捉えることが出来たような気がする。

この7話が描き出すのは、民間南極観測隊の大人たち。「青春」に身を投げ出しても、誰かがケツを持ってくれるかもしれない子供たちとは違う。未来を忘れてオールインするには、余りにも多くのものを背負っているであろう大人たちだ。そんな大人たちは、勿論「後先を脇において、やるだけやる」ような考えで、動いてはいない。それでもなお、「南極に宇宙を見に行く」という。これは、「夢」だ。

そう。この作品は、僕の定義するところの「青春」ものではなかった事に、やっとのことで僕は気付いたのだった。これは夢を追う人間の物語だ。(2018年3月1日追記。ここは、正確ではなかった。夢を追う人間の話だったから、という理由で感動したのではない。青春という、僕にとっては「一時的なイベント」だった概念と、夢を追うという「生涯をかけたイベント」。この、僕の中で独立していた二つの概念を、橋渡ししてくれた。接続してくれた。青春はいずれくる敗北に目を背ける事で成立しているものじゃない、夢という形でずっと戦い続けられるものなんだと、蒙を啓かれた事によって感動したのだ。)

僕だって知っている。ポンと飛び出た夢がそのまま現実を動かすなんて事は起こらない。夢を見て。夢を語って。そんな甘っちょろい事で、世界はウンとは言ってくれない。現実は厳しく、固く、冷たい。聞く耳を持たない。泣こうが喚こうが、計画は破綻し人は死ぬ。求めるものは得られず、望むものは見つからず、掴もうとしたものは零れていく。

それでも。人は夢を抱く。人は夢を追い求める。夢を、叶えようとする。時に泥水を啜り、肝を嘗める羽目になっても。思い描いた夢を、現実にしようとする。泣きながら、喚きながら。あがいて、もがいて、世界を変えようとする。

この作品はきっと、そんな人間たちの物語だ。「宇宙よりも遠い場所」は、南極だけど、南極じゃない。いつか、僕が、あなたが、彼ら彼女らが、誰かが見た夢。理想。こうありたいと思い、こうあるべきと信じた姿。それこそが、「此処じゃない、何処か」。「宇宙よりも遠い場所」なのだ。

南極を目指す女子高生だけの物語じゃない。民間観測隊も。高橋めぐみも。そして、僕も、あなたも。宇宙よりも遠い場所に向かって踏み出す全ての人のための物語。それが「宇宙よりも遠い場所」という、稀代のアニメーション作品である。

 

 

私たちは踏み出す。今まで頼りにしていたものが何もない世界に。右に行けば何があるのか、家はどっちの方かも分からない世界に。明日どこにいるのか、明後日どこを進んでいるか想像できない世界に。それでも踏み出す。

 

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