僕のエメラルド・シティ

MANDELA

「力を」「民衆に」

 

南アフリカ共和国第八代大統領ネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」を見た。

この映画は僕が漠然と、歴史上の一行としてしか知らなかったアパルトヘイトの一端を教えてくれた。そして、それ以上に、僕を恐怖させた。

南アフリカでホワイトの支配をブラックが打ち破った。これはただそれだけの問題ではない。世界の至る所で、長らく続いていた支配の一部が手放された、そんな時代だった。その機運が、ネルソン・マンデラを終身刑から救い、彼を大統領たらしめ、ノーベル平和賞まで受賞させた。

だが、現在。

二十一世紀が七分の一終わった、今この時。世界は未だ、無数の支配と搾取、そして差別に溢れている。

かつて。マンデラ達は戦った。日本も戦った。ベトナムもイラクも戦った。インドネシアも戦った。アメリカも戦ったし、ソビエトも中国もヨーロッパも、世界中が戦った。ある者は勝利し、ある者は敗北した。

だが、今。世界は変わらない。法の後ろ盾を失っても人種差別は残る。白人の支配から解放されたかに見えたアフリカではそこかしこで内戦が続いている。日本では「サヨク」という言葉自体が忌避されている。大国はその身の内に火種を抱え続け、希望に溢れていたEUにもいくつもの綻びや亀裂が入った。戦いでは世界を変えられない。彼らは戦いたくて戦ったのではない。戦わざるをえなくなって戦った。そこまで「追い込まれた」のだ。「正義は我にあり」「間違っているのは彼らだ」そうやって、自分達を正当化し、鼓舞し、戦った。戦うためには必要なことだ。だが、支配と戦い、その場の支配者を倒すことは出来ても、「支配」に勝つことは出来ない。

「支配」はこの上なく狡猾だ。彼らは敗北さえも飲み込んで、新たな支配を生み出す。

彼らは戦うしかなかった。耐え難いほど支配され、戦うことによって、自らの正義によって、「支配」を倒せると信じた。

僕は知っている。戦っても、「支配」は倒せないと知っている。

まず認めよう。僕は「支配」のおかげで今を保っている。僕は「支配」に生かされている。勿論、今僕の世界を支配しているルール全てを肯定しているわけではないし、そのルールを今よりもっと不愉快なものにしようとしている連中に対して怒りを覚えることもある。

だが、だからと言ってどうすれば良いのだ。僕は死にたくないし、殺したくない。そして、誰かを殺しても世界は変わらないと知っている。皆が変わらなければ世界は変わらない。しかし、自分を変えるというその行為自体を恐れるような、そんな人間が他人を変えられるものだろうか。

こんな悩みを抱くのは、幸福であり不幸だ。正しさに盲目的にならなくてもよいほど、僕の世界は豊かだった。脇目も振らずに追い求めなければならないものが、僕の世界にはなかった。そのせいで僕は今悩む羽目になっている。世には「正しさ」が溢れているが、どれを選んだって、この問答が僕を苛む。お前の選んだその「正しさ」の正当性を、誰が担保してくれる?

そして、僕は佇み続ける。自らを委ねるに足る、正しさを求めて。

だが、いつまでもこのままではいられない。変えなければならない。今切羽詰っていなくても、いつか、のっぴきならない状態がやってくる。

その時、僕は、戦わずに、ネルソン・マンデラと同じ事をしなければならないのだ。

 

それが恐ろしい。

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