シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

「大人になったな」

 

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」より、実に足かけ14年。とうとう完結だという触れ込みを聞いた。正直、公開初日に見た「Q」であきれ果てた身としては「良かった」という評価も「本当に終わった」という言葉も全て半信半疑だったのだが、劇場近くに出向く用事もあったので良い機会にと、このコロナ感染拡大の冷めやらぬ中に厚かましくも不要不急で見てきた。

 

最初に言っておくと、僕はエヴァの世代ではない。テレビ版など見たことも無く、ただ事あるごとに話題に出てくる昔のアニメという印象しかなかった。ニコニコ動画で違法視聴した旧劇でそのアニメーションに感動したものの、漫画版に手を出してみたらなんとまだ完結していなかった。アニメを2クール見るほどの熱意はなく。結局どういう経緯で旧劇のような事態になったのかは、ネット上の書き込みを聞きかじりならぬ、読みかじって知った程度のものだった。

それから数年が経ち、友人に「エヴァ破、面白いよ」と言われた。そんなこと言われても僕旧テレビ版も「序」も見てないよと返したのだが、随分推されたので仕方なく「序」から順番に見ることにした。

あー、昔漫画で読んだわこの辺。その程度の認識だったが、確かに美しい映像と派手なアクションに強い音楽の使い方で見る者を楽しませる、なかなかの作品だった。そのまま「破」も見た。当時の認識はあまり覚えていないが、旧劇のときの鬱屈した雰囲気とは大きく違うなとは思ったはずだし、なにより「Q」を初日に見に行っているのだから相当気に入ったのだろう。

そして、2012年。超満員の大スクリーンで、「Q」を見た。

ふざけんなと思った。

「破」から十数年が経ち、エヴァの世界は激変していた。どうもサードインパクトが起きたらしく、その原因はシンジだったらしい。しかしシンジはインパクト以来、ずっと衛星軌道上で眠り続けていて、事態を何も知らない。映画の視聴者である僕とシンジは、作品の中でほとんど同一の立場だった。当然、意図されたものだ。シンジに向けられる言葉は、視聴者である僕に向けられるし、シンジの感じる理不尽は、そのまま視聴者である僕の中に生まれた。

「破」であれだけポジティブにシンジを送り出しておいて、誰も彼も説明一つせずシンジを詰り倒す。意味もわからん単語を吐き散らし、意味深で思わせぶりに振る舞っておきながら何一つ上手くいかない。シンジは失敗したらしい。それならそれで良いさ。じゃあ何が成功で、誰が成功するんだよ。別にシンジが英雄である必要はない。見ている側を気持ちよくさせる要素がその世界にとって害悪であったと暴き出しても構いはしない。しかしそれがなぜダメで、どうするべきなのか説明しなきゃ意味ねえだろ。煙に巻いてりゃそこに何かを見出して勝手に納得したり高尚扱いして貰えると思ってんじゃねえよ。

ただ一人優しさを見せてくれたカオルは「槍でやり直す」などと親父ギャグを打ちながらシンジの目の前で爆死してトラウマの拡大再生産を始めるわ、二進も三進もいかなくなったシンジは当然のように周囲の制止を無視するわ、怒鳴り散らすアスカにほれ見たことかという態度でまた罵倒されるわ。

失敗を描くためにキャラを愚かにするそれは、完全に馬鹿の書く脚本そのものだった。僕は心底、呆れ果てた。あれを「これこそがエヴァだ」などと祭り上げる向きすらあり、それを見てついに絶望した。

そうでございますか。「これがエヴァ」ですか。それならそれでよろしい。僕はエヴァの客じゃないんだろう。同時に、庵野の客でもない。エヴァを冠して馬鹿をくすぐり金を稼ぐ。これをやり続ける限り、庵野の作品は見ないと決めた。

遠くないうちに公開されるはずだった続編は延期につぐ延期。僕は鼻で笑っていた。「Q」を思い出せば、話に収拾を付けられないだろうことは明白だった。

いつしかシンゴジラが公開された。随分と好評だったが、僕は結局見なかった。公開前、劇場で見た予告編。恐慌を起こし、逃げ惑う群衆だけを映して「匂わせる」そのやり方が「Q」を思い出させ、腹立たしかったから。

とうとう公開が決まってからも、コロナで延期。ただ、流石に2020年にもなると、もう「Q」の記憶は薄れていた。興味もさほどなく。僕にとってエヴァは、「どうでもいい」作品だった。

次の公開日に決まった2021年の正月はそれこそコロナ第三波の猛威ただ中で、当然の再延期。この辺になって、流石に気の毒になってきた。

そして、3月。とうとう公開された。見る予定はなかった。言及すら、する気はなかった。周囲から見に行ったの行かないの、面白かっただの終わったから見に行けだの、そういう話を聞きながら、まあアマプラに配信されたら見るかなーなどと、気のない返事を返していた。

4月に入り、コロナ第四波が猛然と押し寄せ、大阪を中心に関西の医療は大打撃を受けている。東京も緊急事態宣言解除前からじわじわと検査の陽性者が増えていて、明らかに状況は悪い。極力、外に出たくない。そんな中で、街に出る予定が出来てしまった。どうせ出るなら映画も見ちまえと上映スケジュールを確認すると、そこにエヴァがあった。もうこれで良いやと、チケットを購入した。「Q」のことも大して覚えてなかったが、見返したらあの時のイライラが蘇ってきそうだったので、そのままに。

だから、「シン」が「Q」や「序」「破」と比べて、内容的にどうだったかを語ることは出来ない。

ただ、映画としての「シン」の感想を言うなら、明らかに完成度は低かった。

ド派手なアクションと、パソコンの演算能力を自慢したいのかと思うような過剰なオブジェクトの波で映像を揺らしながら、一方でキャラクターたちは入れ代わり立ち代わりひたすら説明セリフを並べ立て続ける。「Q」の時とは真逆で、しかし成長していないなと思った。セリフってのは見てる僕か、その場の誰かに理解させなきゃ意味ないんだよ。その場みんなが知ってることを確認している様を映したって、見てる人が場の空気に飲まれて分かったような顔してくれるわけじゃないんだ。また少し呆れる自分を意識しながら、しかし作品世界に確かにある違いに気付けないほど、僕はエヴァを拒絶してはいなかった。9年の年月のおかげと言えるかもしれない。

赤ん坊。農作業。ケンスケとアスカの疑似的な親子関係。言葉を教わる綾波。虐待にしか見えないものの、アスカがシンジに食事を取らせるシーンも、そうだ。

そこには、「育み」があった。誰かを育むことで、自らをも成長させる。そんな生命の営みに対する、極めてポジティブな情景があった。

トウジが自宅の酒盛りで吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているのを聞いて、僕にはなんとなくこの第三村で、制作陣のやりたかったことが分かった気がした。

この歌は1974年に作られたものだ。エヴァの舞台である2015年、「Q」の2030年あたりは勿論、テレビ版放送時の1995年から考えても、明確に過去の歌である。であるのになぜ、ここで歌われるのか。トウジやその家族、あるいは委員長の家庭にフォークファンがいたから? まさか。設定としてはそういうのがあるかも知れないが、そうじゃない。この歌は「親世代の曲」なのだ。二十世紀末にエヴァを見ていた、当時の子供たちにとって。もしかしたら当時エヴァを作っていた、若者たちにとっても。そしてこれまでのエヴァにおいて、「親」というのはただならぬ意味を持っていた。理不尽で、身勝手で、自分を振り回す。なにやら深慮を巡らせ、しかしそれを説明してくれることはない。言う通りにできなければ、自分をぶつ。なじる。責め立てる。「親」は「敵」だった。「Q」においても、それは同じだった。ただ立場が変わった。制作陣は「親」になっていた。視聴者を「子」に見立てて、制作陣は僕をぶった。「大人になれ」となじった。なんでも説明してもらえると思うなと責め立てた。それは教育のつもりだったかもしれないが、実態は虐待の再生産だった。

だが、「シン」では違った。きっと、何かがあったのだろう。何があったのかは知らないが、とにかく「シン」においては、これまで描いてきた「親」と「子」の関係性をやり直そうとした。そのための施設が、第三村だ。

第三村が象徴するのは戦後の日本だ。全てがぶち壊されたところから這い出して、寄り添い、集まり、生き延びてきた。後ろ暗いこともやったとトウジは語る。ガキのままじゃいられなかったと。そうだろう。そんな過去を生きながらしかし、彼らは、彼女らは、僕たちの今に通じる世界を残してくれた。過去のことなど考えなくても良いぐらい、豊かな世界を築いてくれたのだ。

それを描くために、第三村は在った。それを知るために、シンジたちは村に入った。ともに畑を耕し、村の社会を構成する一員として生きる中で、「人生を語ら」ない大人たちを知る。子供を育みながら、その行ないによって、自身を育てる。

ここに至って、ようやく。「親」は「子」の敵ではなく。「子」は「親」のお荷物ではなく。共に生き、共に育つ対等な存在であることが、確認されたのである。

これを告げられて、僕にそれを寿ぐ以外のどんな行動がとれようか。

気付けて良かったねと、そう言うしかないではないか。

先ほども書いた通り、映画としての完成度は低い。説明に説明を重ねて上滑りする脚本。そもそも説明を放棄したいくつもの固有名詞。それらが入り混じる会話劇は、聞くに堪えない。特にヴンダーの上でシンジがエヴァに乗るの乗らないのを言い争うシーンなど、今思い出しても笑えるほどにお粗末だ。

常に展開に追われ、時間に急かされながら、「話を終わらせるために、せめてこれはやらなければいけない」と書き連ねたチェックリストを埋めていくだけの作業に、演出の魔法を掛けたのがこの映画だ。しかし、それでも。そうなると分かっていてもなお。短くない時間を使って第三村で「親子」の再構築を描いたことを、僕は祝福したい。あれなしに、終盤のゲンドウとシンジの(ある種の)和解を描いても、それこそ説明不足で付いていけなかっただろう。

 

「エヴァの呪い」を受けた事のない僕には、それがどんなものかはわからないが。少なくともこの映画は「親になってしまった子供」を、その呪いから解き放った。

JOKER

「ジョークを一つ、思いついたんだ」

 

ジョーカー。言わずと知れた、DCコミック「バットマン」における不朽の名悪役。善も悪もお構いなしに引きずり回し、ゴッサムシティを恐怖に陥れる希代の怪人、そのオリジン。

 

僕は、TRPGという遊びを随分と長くやっている。テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームという、一定のルールに則ってキャラクターを作り、そのキャラクターのロールプレイをしながら遊ぶ、コミュニケーションゲームだ。そんなTRPGの、特にRPという部分に心を惹かれて遊んでいる人間だからだろうか。僕はこの映画を見ていて、ひとりのコメディアンが語った「妻とのロールプレイ」というネタが強烈に心に残った。

「僕は妻とよくロールプレイをして盛り上がっている。例えば、大学教授と単位の欲しい女子大生だ」

そのネタは実にありふれた下ネタで、時間にしてわずか一分程度だっただろう。シーンとしてはアーサーがコメディアンになるための勉強を映し、同時にアーサーが「普通の人間」の中でどうしようもなく浮いてしまっている様子を描いている。ここで言及された「ロールプレイ」という言葉が、僕がこの映画を楽しむにあたって非常に重要な役割を果たしてくれた。

ロールプレイ。ゲームの前に付く場合、その意味は非常に多義的なものとなるが、とりあえず英語としては「役割演技」と訳されることが多い。「特定の状況を用意し、何らかの役割を持ったキャラクターとして対応する」訓練として、企業の入社試験などでも採用されていたりする。だが、この言葉は決して空想や虚構だけに限定されるものではない。僕たちは時に誰かの家族として、時に誰かの友人として、時に誰かの師として弟として。時に誰かの敵として。その役割にふさわしい行動を選択する。話し方や考え方を変え、対する相手の立場や状況によって、自らの役割を決定する。

では。アーサーはどんな役割を持ったキャラクターであっただろうか。彼は人を笑わせたいという願いを持った芸人だ。彼は母親想いの息子だ。彼は父性を求めるこどもだ。

たとえ街のチンピラにボコボコにされようと。乗り合わせた子供の保護者から過剰なまでに気味悪がられようと。母親の介護をしながら貧しい生活を送ろうとも。この役割を担い続けている限りにおいて、彼は善良なピエロで在り続けることができた。歪ではあるものの、社会と自らを接続し続けることができた。

だが。この映画はジョーカーを生み出すため。哀れなアーサーから、彼の持つ役割を根こそぎ剥ぎ取る。それも、まるで旅人の服を自発的に脱がせた太陽のように、彼自身の手を使って。

彼は小児病棟に銃を持ち込み、仕事を首になった。彼にとっては極めて珍しいことであっただろう、大人を笑わせることのできた銃という必殺のネタこそが、「仕事」と「願望」という、彼と社会を繋ぐ巨大な鎖を断ち切った。

彼はトーマス・ウェインと母親の関係を聞き、その真実を知った。彼の愛した母は幼い自分を虐待し、妄想を信じ込んで金を無心する、どうしようもない養母だった。血のつながりすら与えない徹底ぶりで、最も小さな社会である家族、その「母」の息の根を止めた。

彼は母と共に毎晩見ていたコメディー番組の司会者に、我が子のように気に入られる空想を抱いていた。それほどまでに憧れていた伝説のコメディアンすら、彼を虚仮にし彼の行いを全否定した。母の真実を知る中で砕けていた「実父」と共に、残された絆、社会との接続の拠り所だった「父」はコナゴナになった。

社会の中での役割。ロールこそが、僕たちが僕たちであるという連続性を担保し続ける。それが残らず擦り潰されたなら、もはや個人として、キャラクターとしての同一性は保てない。全てを失った以上、アーサーはアーサーでは居られなかった。

 

 

ジョーカーと呼ばれたその男は。もはやジョーカーになるしかなかった。

Mary Poppins Returns

「忘れないよ、メリーポピンズ」

 

「メリーポピンズ リターンズ」を見た。1965年に公開された傑作ミュージカル映画「メリーポピンズ」が、50年の時を超えて新作映画になる。それを知った時、勘の良い僕はピンと来ていた。

今(と限定するまでもなく)、世界中でリメイクが流行だ。リブートを繰り返す各種ヒーロー映画に擬えるまでもない。「パディントン」「ピーターラビット」「美女と野獣」「くるみ割り人形」など、ディズニーでも他の会社でも、日本のアニメ業界でだって。ちょっと思い返せばいくつも出てくる。何も「リメイクは商業的に堅い」なんて擦れただけの考えでもないだろう。名だたる過去の傑作を見て育ってきた世代が造り手となり、それらを自分たちの手でもう一度やってやろうじゃないかと思うのは実に自然なことだ。それは、この「メリーポピンズ」という怪物を前にしてすらも同じことだろう。むしろメリーポピンズには最強の音楽がついている事だし、組み立てを多少いじってそれを流すだけでも戦えるものは出来てしまいかねない。言われてみれば良いチョイスだ。

などと。

今にして思えば赤面するより他にない、愚鈍にして蒙昧な考えを抱いて。それ以上の何を知ることもなく、僕は劇場にやってきた。スクリーンに入り、周りが暗くなっても。公開前に外の屋台で買ったまっずいお握りの事を思い出していたほどだった。

そして、映画が始まり、ほどなく。僕は己の勘違いに気付いた。ガス灯。車いすに乗った提督。優し気な父親。快活な伯母。3人兄妹。

これは、リメイクではなく続編だった。「メリーポピンズ リターンズ」。読んで字のごとく。この映画は、かつてメリーポピンズに子守をされたバンクス姉弟が成長した時代にメリーポピンズが帰ってくるという物語だったのだ。つまり、「プーと大人になった僕」が近いわけだ。(こうやって並べると、一層「ウォルトディズニーの約束」で原作者がプーさんに話し掛けるシーンの重みが増す気がしないでもない)

という事に遅まきながら気付き、大きく納得をして、しかし僕は正直なところ、(こんなもんか)と思いながら見ていた。懐かしいメロディーは聞こえてくるものの、目玉となるミュージカル部分は新曲、新曲、新曲。どれも愉快な出来だがいくらなんでも相手が悪い。俳優陣を見渡せば、脇役や子役の芝居などは流石に時代とともに上がってきた全体としてのレベルの高さを感じさせるものの、あの主演二人に匹敵するほどの華を備えた俳優など、おいそれと見つけ出せるものではなく、前作が大好きな人間の贔屓目という点を考慮してもなお、追いつけてはいない。音楽や舞台は徹底的に「メリーポピンズ」を踏襲し、常に一目で「ああ、これあのシーンだ」と気付けてしまう。となれば最後の頼みは映像部分だが、ふんだんに使われるCGは余りにも幻想的、夢想的すぎ、実写であるキャラクター達が「浮いて」しまっていて。今映し出されている光景はメリーポピンズの操る魔法などではなく、夢とカリスマを備えたナニーの生み出す虚構に過ぎないのだと思わされてしまう。まあ、このように作中に現れる「非現実的事象」とキャラクターがそれを想像しているに過ぎない「虚構」の境界を「虚構」側に思い切りズラして描くのは最近とてもよく見るので(「プーと大人になった僕」や「エクソダス:神と王」などがパッと思い浮かぶ)、その流れを汲んでいるのだろう。

要するに。よくあるリバイバルの一環。それに過ぎない映画なんだ。それが、序盤を見ていての僕の感想だった。やがて2Dアニメーションのパートが現れ、久々に、本当に久々にディズニーの2Dアニメを見ることが出来て、それだけでも結構胸に来るものがあったが、映される群衆の中に微動だにしない個体を見つけるたび、規則的に同じ動きを繰り返している様に気付くたび。「衰えたな、ディズニー!」と。言いたくなる自分が居た。

潮目が変わったのは、終盤。本当に終盤だった。意地悪な銀行頭取の手で、バンクス一家は家を失いつつあった。そこに、かつての頭取が姿を現した。その姿。見紛うはずもない。ディック・ヴァン・ダイク。あの名優が、50年の月日を経て、あの時の姿でそこにいた。そして彼は、あまりにも鮮やかにすべての問題を解決してみせた。

2ペンス。

たったの2ペンス。マイケルが老婆から鳩の餌を買うために取り出した2ペンスを、父親が「未来のために」銀行に預けさせた明るくコミカルでしかし間違いなく暴力的なあのシーンを、この映画は見事に昇華させた。この上なく美しく、そして何よりも相応しい。まさに絶妙な脚本だった。あの1シーンで、この映画はどこに出しても恥ずかしくない、堂々たる「メリーポピンズ」の続編となった。

この映画は、とても完璧な映画ではない。シーンはどこも「メリーポピンズ」の焼き直しだし、音楽も俳優陣も映像効果すら、とてもとても勝ってるとは言えない。所詮一山いくらのリバイバル、と舐め腐った僕をぶちのめしたその1シーンの後だって、わざわざ必要か? と思ってしまう描写が挟まり、感極まっていた僕としてはどうも興が削がれたような感じを受けた箇所もあった。何より、この映画は「メリーポピンズ」を見てない人には多分付いていけないだろう。

それでも、この映画は「メリーポピンズ」でしか出来ないことをやったし、「メリーポピンズ」がやらなかったこと、やり残したことをやり遂げた。何より、「メリーポピンズ」を見ていて出てくる動物たちや奇人変人がだれもかれも「やあメリー・ポピンズ! お会いできてうれしいよ!」みたいな知人同士の挨拶をしていて若干の疎外感を感じていた僕としては、今度は逆に彼らと一緒に「久しぶり! 待ってたよ!」という心境で見ることが出来るというのは本当に嬉しかった。余りにも僕が感動した部分を有体に書いてしまったので、その手でこのような事を記すのはどうかと自分でも思うのだが、もし幼いころに「メリーポピンズ」を楽しんだ過去を持っているなら、この映画は間違いなくお勧めできる。

この作品は、メリーポピンズの宿題をやってのけた。

フリクリ オルタナ

「たとえ明日が 昨日の寄せ集めでも わたしは」

 

「フリクリ オルタナ」を見た。2000年、ガイナックスとProduction I.Gによって制作されたOVA「FLCL」、その続編の片割れである。

愚にもつかない話を軽く書く予定なので、先に映画の感想を言っておく。

「予想していたFLCLの新エピソード」でも、「期待していたFLCLの続編」でもなく、しかしフリクリ オルタナは飛び切り面白いアニメだった。

初報は2015年だったと言う。ガイナックスが、FLCLの権利をProduction I.Gに譲渡したというニュースが流れた。僕は確かにこれを耳にしたはずだが、あまりその時のことを覚えていない。多分、本当に作られるのかどうか、実感がなかったのだろう。

そのまま権利関係のニュースの事も頭から過ぎ去った2016年、鶴巻和哉をスーパーバイザーに据えて続編を制作する事が決定という報に、僕は動揺した。

僕は「宝くじを当てたら実現したい事リスト」を持っている。ちょっとしたあぶく銭でできる事から、一等一本じゃ足りないような事まで、大小いろいろと欲望をそのままぶちこけたリストだが、2016年は「ウォークラフト」の公開が発表され、そのリストから「Blizzardに映画を作ってもらう」という項目が消えた年だった。そんな最中、「鶴巻和哉にFLCLみたいなアニメを作ってもらう」まで消えたのだから、動揺しない方がおかしい。

ダサくカッコつけてないように装う斜に構えたカッコよさ。アニメーターの悪ふざけの如く目まぐるしく変化し続ける映像。よくわかんないんだけどなんとなくわかる気がする演出。おちゃらけと猥雑の中に太い芯を感じさせる物語。

あのFLCLの新作がやってくる。

2017年、FLCL2と3が制作されるというティザームービーを見た頃には、僕の期待はとんでもない事になっていた。

2018年になり、オルタナとプログレというタイトルまで公開され、それぞれのPVを見てちょっと引っかかるものを感じたり(ハル子の声優がプログレだけ違うとかその辺)、海外では6月にプログレ公開(日本では両方9月に公開)という情報にモヤモヤしたりしながらも、僕は大層ワクワクして公開を待った。

そうして、とうとうオルタナを見た。

あんまり面白くない。

それが、第一章が終わり、「NEXT EPISODE」の表記を見ながら抱いた最初の印象だ。

「FLCL」的演出……というか、「FLCL」オマージュは確かにある。見たら誰にだって分かるだろう。しかし、あまりにもセリフや展開が、仕上がってないのではないか。

そんな印象は、第二章になってもより強くなるばかり。FLCLのハル子なら、もっとウィットに富んだ軽口を挟むんじゃないか。FLCLなら、もうちょっと巧妙に描くのではないか。

そういう、なかなか退屈な映像とお話が、ただピロウズの曲を背に流れている。

第二章が終わったあたりで、僕は既に自分を慰めるフェイズに入っていた。ここ数年、FLCLの、あのFLCLの続編をやるという話に、舞い上がり過ぎていたんだよ。

考えてみれば、あれほどのイカれたクオリティを保った作品に比肩するクオリティを、このご時世のアニメがそう易々と出せるはずもなかったのだ。

FLCLの表面だけをなぞった、ダラダラとつまらないアニメが流れる。そんな可能性だって、十分にあったじゃないか。

 

そんな思いが反転したのは、第四章。このエピソードを見ながら、僕はようやく自分の思い違いに気づいた。

このアニメは、日常アニメだったのだ。

ここで言う「日常アニメ」とは、だらだらとしょうもないイベントを垂れ流して女の子を愛でる作品の事ではない。「日常を描く」とは、僕の中ではそういう事ではない。

かつて「この世界の片隅に」において明確に意識したように、僕にとって「日常」とは「単体では語り得ぬもの」である。日常は常にそこに存在していて、「非日常」なしには認識できない。故に、日常を描くためにはその日常を破る「非日常」が必要であり、そしてまたその非日常が「日常」に飲み込まれる帰結こそが日常を描き切るために求められる。

その文脈における、「日常アニメ」こそが、「フリクリ オルタナ」だったのだと、僕は第四章にしてようやく気付いた。

一章から三章は「つまらない」。その認識を変えるつもりはない。

しかし、「日常」とは面白くないものだ。呼吸する面白さ、足を前に出す面白さ。そんなものを意識する事は、「日常」においてはない。面白さを感じるほどの事態はそれそのものがもはや非日常なのだから。

そんな中で、主人公の逃避と、懐の深い友達によって、「ハルハラハル子」と「N.O.」という意味も正体も不明な非日常はいともたやすくつまらない日常に溶け込んでいく。それこそが、この作品において重要だったのだ。面白可笑しくては、印象的であっては、刺激的であっては困るのだ。何故ならば、この作品は主人公の「日常」を描く作品だから。

一章では、キャラクターの紹介を。二章と三章では友達の「思わぬ一面」という非日常を追いつつ、ここでシッカリと、ガッツリと、それらを「日常」として飲み込んだからこそ、主人公にフォーカスの当たり否応なく非日常に直面する四章が生き、非日常を受け止めてきた日常そのものが瓦解する五章が映え、そして物語を終わらせる六章が輝く。非日常がいともたやすく日常を切り裂き、しかし裂かれた日常は平然とその非日常をすら日常化する。日常は変化し、しかし変わらず訪れる。

そして、それは紛れもなく、「FLCL」が描いた事ではなかっただろうか。少年の日常に突如現れた「青春の幻影」。だがその女神は少年を一足飛びに大人へなんかしやしない。少年は少年のまま、しかし明確に変化する。「酸っぱいのは嫌いなんだけど」。ナオタに訪れた、小さく、しかし決定的な変化。それを捉えなおそうという、明確な意志。それは、成功しているように僕の目からは見えた。

 

この作品の前半部分のつまらなさは、意図されたものだ。そしてそれは非常に効果的で、「面白い」。

もはや何の憂いもない。何の恐れもない。「フリクリ プログレ」の公開が、今から待ちきれない。

さよならの朝に約束の花をかざろう

「私なら――翔べる」

 

 

PAワークス制作、岡田麿里初監督作品、「さよならの朝に約束の花をかざろう」を観てきた。少年少女の姿を留めたまま長い時を生きる神話的存在「別れの民」と、生まれ育ち老いて死ぬ「人」。その二つの道が交わっていく中で「母とは何か」を描く作品だった。

話としては、嫌いではない。ただ、使う道具が悪かったのではないか。

キャラクター原案とキャラクターデザイン、どちらの仕事でこうなったのか知らないが、時間を経ても老いる事のない麗しき金髪美形が雁首を揃えた「別れの民」と対比して存在すべき、老いて死んでいく側の人間を余りにも描けていなさ過ぎる。女手一つで二人の子を育てている母がそもそも若い女にしか見えないのには目を瞑るとしても、その子供達が成長する様を身長でしか表現できないようなデザインを何故採用したのか。幼児と少年、少年と青年、青年と大人、大人の中にも若々しいもの老けたもの衰えたもの、そして老人という区分の違いが一目で見て取れ、かつ別人か同一人物かを即座に理解させるような、そういうキャラクターデザインが出来なければせっかくの話が台無しだ。

またその話にしても、「女の戦い」としての出産との対で「男の戦い」戦争を、「育ての母」「産みの母」との対で「我が子を見捨てる王族」を配置しているものの、作品の中で男側のテーマを回収できず投げっぱなしになっていては意味がない。映画を地味にしたくなかったのかもしれないが、ただ大砲で城を破壊したり騎馬突撃を銃で迎撃したり、馬鹿っぽい王様が我侭言い散らした所で、映画は面白くなんてならない。そういう所にリソースを割くぐらいなら、もっと狭い世界を切り取って描いたほうが効果的だっただろう。

リソースの話はキャラクターの数にも言える。キャラクターの顔と声と性格と名前が一致できてないのに性急に場面を動かされても、こっちには誰が誰だか判断つかないんだよ。最初に拉致された別れの民の長老は結局その後画面に映ったのか? それとも全部他の子だったのか?  「別れの民」が捕らえられた後、鎖に繋がれた多眼の竜に語りかけていたのはどうやらレイシアらしいと今にして思うが、観ている時はあれが長老かなと思っていたので婚姻の相手がどうこうという話になった時も戸惑ったし、隣国を戦争へ踏み切らせた「別れの民」は誰だ? 髪が長かったので女性と思ったがただの見間違いであれはクリムだったのか? 髪型目の色ぐらいしか判断基準がないキャラクターデザインに同色の髪で描かせ、記憶させる必然性の薄いキャラクターを無駄に名有りにする。混乱の元でしかなかった。

 

色々と書いたが、最初に書いたように、話は嫌いではない。長命と定命の間の悲喜交々を、ただ男女としての愛と別れだけでなく、親と子としてのそれにまで手を広げ、その中で「母」とは、「親」とはなにかを描く。それだけの物語に徹していれば、もっと良い作品になっただろうと思う。短針と長針が刻む時の差は、それだけで数々のドラマを生む。そしてそれは、その物語が古臭いとか陳腐とか言う事を決して意味しない。今でも、その種の物語は望まれ続けている。つい最近twitter上で発生した「魔女集会で会いましょう」なる一大ムーブメントも、それを象徴している。しかし、この作品には無駄が多い。設定を決めたから、キャラクターを用意したから、全部ぶち込まずには居れなかったのだろうか。それが作品のバランスを崩し、纏まりを喪わせるとしても?

僕としては、使う道具が悪かったのではないか、としか言えない。

最後の方はもう明らかに作ってる人達が「絶対ここで観てる人泣かせちゃる~!」と思いっきり張り切っている感じがガンガン伝わってきて、まあこれは好き好きだろう。僕はもうちょっと控えめにやってくれた方が心打たれるけど、アレが刺さる人もいるだろうしね。