僕のエメラルド・シティ

太秦ライムライト

「監督さん、太秦にエキストラはいません。みんな演技者、表現者です」

 

50年斬られ役を演じ続けたという名脇役、福本清三の初主演作品「太秦ライムライト」を見た。

どうにも、奇妙な映画だった。間違いなく映画である。つまりはお話であり、お芝居である。なのに、何故かドキュメンタリーのようにも見える。これは制作陣の実感こもった情景描写、演出によるものなのだろうか。

土台、主演の福本清三という役者自体が、奇妙な雰囲気を湛えていた。肋骨の浮いた、まさに老骨というような薄い胸板が見ていて痛々しいほどだが、その立ち振る舞い、刀捌きはとても七十とは思えない。言葉もしっかりしている。そうか思えば、時折ああこの人は老人なのだと再認識させるような喋り方にもなる。

芝居なのか、素なのか。

服の解れを直す姿。豆腐を切り、味噌汁に落とす仕草。あれは、香美山清一という役だったのだろうか。それとも、福本清三という役者だったのだろうか。

いずれにせよ、時代劇が減り、その“殺陣”役者達が数を減らしているという状況は現実のものだ。その現実を打破するために僕ができることは、やはり、時代劇を見るということしかないだろう。劇場でCMを打っていた「柘榴坂の仇討」(半ば明治時代の話らしいので時代劇と呼べるか不安だが)を見に行こうと心のメモ帳に書き記した。

 

映画のほかの部分に触れていなかった。

エンドロールを見ていると、やたら外国人のスタッフがいた。エンドロールや最初の説明文も英語が併記されていたし、海外向けに売り出すのかもしれない。京都は未だに石を投げれば外国人に当たるほどだし、注目されると良いのだが。実に日本の軽薄なドラマらしさを醸し出している劇中劇を見て呆れられてしまうんじゃないかというのが不安だが、あれもまた日本の映像界の現実である。あんなもんばかりでは無い事を祈るばかりだ。

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