「この世の終わりの日まで、一緒よ。呪いのように。親子、だもの」
桜庭一樹「ファミリーポートレイト」を読んだ。人形にして神。家畜にして女王。哲学者にして官能者。小さくて大きなコマコの物語。
始めのうち、この作品は僕にとってフィクションそのものだった。僕とかけ離れた境遇を生き、不思議な町を渡り歩き、事ある毎にひどい目に会い、それでも母を愛する、哀れな少女のフィクション。
それが、母の死を境にいきなりこちらにやって来た。
父と再会し、社会と邂逅した。彼女はフィクション世界からノンフィクションへの回帰を果たした。
ノンフィクションの世界には、車椅子を駆る老人も、女装少年も、豚の民も、隠遁者を雇う貴族も、そして真紅を湛える母もいない。
だが、そこには人間がいた。関係があり、社会があり、現実があった。
現実に現れたコマコは、驚くほど僕を満足させた。彼女の出会う人間の語る言葉、彼女の紡ぐ幾篇もの物語、そして彼女自身が得る見識、たどり着く思考。
僕が思っている事や、僕が喜んで受け入れられる事が、沢山書かれていた。僕は、他者の作品から己の主張を読み取る事を非常に好む。まるで作者に自分を肯定してもらえたかのような錯覚が好きなのだ。
そして、ようやくこれが作者桜庭一樹自身の「嘘話」なのであると気がついた。
小さなコマコの前を流れていった風景も、入れ替わり立ち替わり現れた人々も、否応なしに出くわした出来事も。
全てが嘘で、そして真実の欠片なのだ。
小説は、対話に似ている。作者と作品との。作品と読者との。そう、つまるところ、読者と作者との。そして、対話とは自問に似ている。人は己を通してしか世界にかかわる事はできず、己を介してしか世界を知る事はできない。
しかして、自問とは対話なのだ。己に存在する他者。自らを構成している、はるか昔に溶け合ったかつての他者との交流。人は作品を通じて、そして作品に触れてからその後の一生を、無限に続く自問と対話に費やすのだ。
コマコの中にマコが住み着いたように。それらがあるときは幻覚として、あるときはもう一人の自分として。最後には混ざり合った同一のものとして、自分自身に、世界に、影響を与え続ける。
僕はまだこの作品をたった一度、目を通したに過ぎない。
それでも、僕の中で芽生えたものがある。植えつけられたものがある。これは僕自身だし、僕の中に溶けたこの作品の一部、つまり作者の真実のひとかけらである。
血の絆が親子を永遠に結びつけるように、読者と筆者も、作品によって永遠に結び付けられる。終わりの日まで一緒だ。呪いのように。