「俺がCEOだ、ボケ」
Facebook創設者マーク・ザッカーバーグに関する映画。ノンフィクション作品と同時並列で作られたのだという。
始まってしばらくすると、複数の時間軸をカメラが移動するようになる。今まさに成功への道を歩く学生と、Facebookが大当たりし、今までの関係が壊れ、訴訟を抱えるCEO。「決裂」と「サクセス」とが並列して描かれているのに、その二線がいつまで立っても結びつかない。見ていてイライラさせられる映画だった。例えばカンバーバッチが主演した「ホーキング」でも、この方法は使われていた。あの場合は、今回で言う「決裂」にあたるシーンの意味をかなりボカしており、「この何度も挟まれるシーンはなんなのだろう?」という興味によって、多層的に映画に人を引き込んでいた。しかしこの作品は違う。「決裂」のシーンは見た瞬間に「サクセスストーリーの途中で何か、関係を終わらせる致命的な事が起こるんだろうな」と思わせられる。事実そう思ったし、映画の内容もそうだった。つまり、先の展開を教えてしまっている。この演出が有用なのは「ふたつの線がつながった後」の話に重点を置きたい時だ。先の展開をあらかじめ教える事で、いざその展開が発生した時の違和感や疑問を減らし、スムーズに先の展開に接続するのだ。しかし、この映画はそうではない。先の展開などないのだ。二つの線は断続的に現れ、いつになっても繋がらない。これは問題だ。演出上もう描いている事を、映像上描けていないので先の展開が訪れない。
そうだ。僕がイライラさせられたのは、この映画がただひたすら「待たされる映画」だったからなのかもしれない。
また、僕がFacebook嫌いというのもこの映画を高評価するためには不適当だったようだ。このゴタゴタが事実かどうかは誰にもわからない事だが、もし嘘だったとして今までの僕に何の変わりもなく、本当だったとしたら尚更あのサイトにかかわる気にはなれない。やはり僕はFacebookが嫌いだ。ただでさえ人間関係というのは面倒ごとが多いのだ。これは僕のようなちゃらんぽらんな人間をしてそうなのだ。インターネットでまで僕をソレに縛り付けるのは不愉快でしかない。そんな事をいいつつtwitterを使いblogを更新するのは大いなる矛盾と言えなくもないが、重要なのは「程度」だ。僕が誰であり、何処に住み、どんな経歴で、何をしているのか。情報には段階がある。僕の方からそれを主観的自由度の中で選択し、インターネットに繋ぐのと、はなっから丸ごと繋がっているのではまったく違う。他の誰にとって同じでも、僕にとっては違う。まあ何らかの理由や意識の変化で使い出す日が来るかもしれないが、その時は「何かが変わったのだ」と考えていただきたい。