僕のエメラルド・シティ

あなたはだんだん眠くなる。

暗示とはなんだろうか。

僕はこれまで三人ほどの催眠術師に出会った事がある。術をかけられた人としゃべった事もあるし、術をかけられた事もある。

逆に言うならその程度の経験だ。そしてほかに暗示に関する知識らしいものを入手する手段はフィクションにしかなかったので、実態は違うかもしれない。また、精神科などで行う暗示療法に関しては見た事も聞いた事も無いので、あれらがこれまで僕の触れてきた暗示と同一であるかどうかも知らない。

だが、少なくとも僕がこれまで出くわした術師や、フィクションから得た情報を加味する限りにおいて、暗示とは許しを請う技術である。

彼らはものものしい。仰々しく、大げさで、喜劇めいている。そして、自らの暗示(すなわち、握った手を離せないとか、鳥になるとか、目をつぶったら目の前に花畑が広がるとか)が、対象者にかかって当然。効果を表して当然だというように、振舞う。勿論衆人環視の中である。それは対象者にとって大いなるプレッシャーとなる。

あっさりと手を開いてしまえば、相手の面目は丸つぶれになるのではないか? そういう考えが頭をよぎる。実際はそうではないのだが、そう考えてしまう。これが暗示の第一の鎖である。また、人間は一度にひとつのことを考えているわけでもない。相手の面目を心配している同じ頭の中に、不思議な出来事に遭遇したい、巻き込まれたいという思いが存在する。それが暗示の第二の鎖となり、自らを縛り上げる。自分は今不思議な出来事に遭遇しているのだ。暗示をかけられ、手を開く事ができないのだと、自分自身がそれを望む。

そして、対象者は結論を下す。手を握っているだけで皆が満足するなら、握っておいてやろうと。

この考えが僕の中で現実味を持つのは、無数のフィクションが声をそろえて訴える「暗示で人は殺せない」というルールを説明できるからだ。

誰だって死ねとお願いされて死んでやるほどのお人よしではないのだという、ごく当然の発想である。結局は閾値の問題だ。知らない人に突然鳥の物まねをしろと迫られても、人はそれをしない。だが、上記の二つの鎖が、人の閾値を下げる。そのぐらいしてやるかという気になる。だが、どれほど周囲に期待されたからといって、ホイホイ死ぬ人はそうそう居ない。

 

だから暗示で人は殺せないのだ。

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