Cyberpunk: Edgerunners

「俺には言ってくれないんだね。”できる”って」

 

 

CDプロジェクトの最新作「Cyberpunk 2077」を原作としたオリジナルアニメーション、「サイバーパンク:エッジランナーズ」を見た。監督は今石洋之、制作はトリガー。

 

正直な話、トリガーのアニメを見る気はなかった。サイバーパンクジャンルとなれば、なおさらだった。僕はいまだにニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨンのアニメの出来に対する怒りを抱えている。

だけれども、見た。そして、この作品は間違いなく面白かった。なので、そういう話をしていく。

また、僕は原作のサイバーパンク2077を知らない。このアニメを見て、購入したばかりだ。だから、原作の話はしない。

 

とは言うものの、僕はこの作品の面白さに言及しようとして、思わず臆してしまった。それは余りにもシンプルで、余りにも短文だった。一行で書いてしまえるようなことだった。

言ってみようか。

「ただ一人彼が特別だと知っていた女と、ただ一人彼が特別だと信じていた男」。

こうだ。これが、僕にとってのエッジランナーズの核。面白さの真髄。魅力の最たるものだと断言できる。

「こんな短い感想ならツイッターで呟いてろ」と、思う人もいるかもしれない。だが、この感想は余りにも作品内で描かれた文脈に丸乗りしていて、ただ一言ぽつりと呟いても、理解してもらえるかは非常に疑わしい。彼って誰? 女と男の具体名は? 特別ってどういうこと? まあこの辺は作品を見ていれば分かってもらえると思うが、重要なのは固有名詞じゃない。

“そうだとして、なんでそれが面白いの?”

この問いに答えられなければ、それは感想ではない。僕が何かを感じたとき、感じたものをただ己の情念のまま表現すると、時にそれは「ウオオォオー!!」や「グワアアァー!!」と言った絶叫になる。「なんでー!??」という驚愕になる。それは、反応ではある。だが、誰も理解できない。その作品に既にふれた人が仮に共感してくれたとしても、意味は分からない。どの部分に、どんな理由で叫んだのか? 何を、どうして驚いたのか? 作品の中からその具体的なポイントとして指摘し、その理由を伝えなければ、それは感想ではない。

なので、僕はこの場を使って、僕自身の思考を整理する。その上で、うまく僕の抱いた感想に着地させられそうな展望が見えたらそこにソフトランディングすれば良いわけだ。逆に、なにも思いつかなかったらただひたすら駄文を並べ立てた上で「それはそうとこの作品は○○が面白かったですね」と唐突に締めの言葉が入って終わる、どうしようもないものになるだろう。当然、前者は感想だが後者は感想ではない。

果たして、僕はエッジを超えられるだろうか?

 

さて、僕の思考の整理のために。「この作品は、どういうジャンルなのか?」を考えてみよう。ジャンルが分かるということは、その作品の目指した方向性が分かるということだ。過去に存在した数多の作品群は、必ずこの作品の作り手にも影響を与えている。そして、作り手は望むと望まないとに関わらず。必ずそれらの先行タイトルへの目配せを作品の中に仕込む。そう言った目配せが、僕にとってどう解釈されたのか。そこを、見ていこう。

エッジランナーズは、いくつものジャンルを兼ね備えた複雑な構造をしている。まずはタイトルにもあるようにサイバーパンクだ。機械化された人類、強大な力を持つ企業、そしてサイバー空間に有機的に接続され交わされるコミュニケーション。そういったSFガジェットが、しかしまだ“全てを覆ってはいない”時代。そうでなければ、サイバーとは言い難い。宇宙への植民が本格的に動いているとどうしても舞台が宇宙空間になってしまってスペースになるし、企業が個人を完全に屈服させてしまうとディストピア物や軍記、戦記物の色が強くなる。サイバー空間の取り扱いだって、その世界の中でも新参の技術として扱わなければ、受け手たる僕にとって魔法と変わらない存在として認識されファンタジーのように受容されてしまうのだ。

サイバーのサイバーたる所以。そこには僕たちと同じように人間が暮らし、僕たちが新しいPCやゲーム機、自動車にスマートフォンといったガジェットを手にする様にインプラントを入れ、データをダウンロードしているのだという、「ほどほどの未来」。そして、僕たちの世界でFAXが残り、レコードが売られ、石炭が発電所を動かすように、その世界でも僕たちの旧知の技術が現役で動いているという「ほどほどの地続き」。現代から、半歩はみ出す感覚……これこそ、サイバーだと言えるだろう。

そして、パンク。パンクってどういう意味だろうか? 検索すれば「反体制」や「攻撃的なファッション」みたいな言葉が出てくる。元々は「不良」という意味だったらしい。そう聞くと、映画版のAKIRAで金田が言う「デコ助野郎!」が、英語翻訳だと「Punk!」になっていたのを思い出す。まあ恐らくは、パンクロック、からの転用としてスチームパンクが生まれ、その後継というか別技術主体の派生ジャンルとしてサイバーパンクと呼称されるようになったのだろう。

この、パンクの部分が、エッジランナーズという作品を読み解くにあたって極めて重要であるように、僕には感じられる。とりわけ「攻撃的」って部分が。

確かに、サイバーパンクジャンルは大抵ろくでもない企業や、狡賢い統治者が登場する。奴等は時に緩やかに、時に苛烈に、様々な手段を使って民衆を、住民を、人間を締め上げる。支配し、屈服させ、コントロールしようとする。大抵の場合、主人公はそれに抗う側だ。(たとえ、主人公が体制側の組織に所属していたとしても)。理不尽な支配に抵抗し、自由を求める。

だが、一人で、ではない。皆で、支配を打倒するのだ。

サイバーパンクは、革命の文脈だ。自分だけ企業の支配に嫌気がさして外の世界に出ていってはいメデタシメデタシ、では納得しない。お前も、こんな支配にうんざりしてるはずだ。あいつらがのさばってることに、耐えられないはずだ。奴等にだけ都合のいい価値観や常識に、囚われてちゃいけないはずだ。その上でパンクは、時にそうでない者を攻撃する。「何故お前達は自分達の上に横たわる支配に目をつぶるんだ!」という怒りが、パンクの、パンクたる所以。このアニメが単なるサイバー物でなく、明確にサイバーパンクである理由。

その最初の一歩が、死別した母親の期待を背負い、退学させられてもなおアラサカ・アカデミーに心を囚われていたデイビッドへの、ルーシーの発言にある。

「それって他人の夢じゃん」

ドキッとする発言だ。ギョッとする発言でもある。片親で、貧困の中、苦労して子供を良い学校に行かせてその将来に幸あれと祈り続け、唐突に死んだ母の願い。それを普通、ここまでザックリと切り捨てられるものだろうか?

確かに子供には明らかに合ってなかった。学校では虐められ、生活は困窮し、二人が互いに満足にコミュニケーションを取る時間もない。この状況を変化させる最も手っ取り早い方法が、「学校をやめる」にあることはかなり明白だ。しかし、相手への同情が、教育された道徳が、培ってきた常識が、それをそのままに表現することを阻む。内心では「学校やめた方が良いんじゃね……?」と思っていても、こんなに苦労してまで息子を良い学校に行かせてる親御さんに、そこまで酷いことは掛けられないよな……とセーブする。それが、普通だ。

ただでさえ、僕達は見ている。洗濯機も停止するほどの困窮状態に、ベッドで眠る余裕もなくソファで仮眠をとっている母親。何もかもを犠牲にして子供のために生きているそんなグロリアの、涙ながらの言葉を聞いている。子供のうちは押しつけがましくも思える親の愛情の、その尊さを。得難さを。人生の中で知ってしまった僕達にとって。

「じゃあ、あたしは何のために働いてんのよ。あんたのためにと思って……」

という、彼女のセリフは余りにも重い。それを前に「テメーの自己満のためだよ!」と言えるほどの非情さを、僕は持たない。当然、デイビッドも持たない。それが、普通だ。

そんな普通を踏みつけにして、相手を閉じ込める檻をぶち壊す。これこそ、パンクの持つ「攻撃性」、その発露だ。常識、道徳、普通。そんなもんに遠慮して丸め込まれることを、断固として拒否する。トンガって、研ぎ澄ませて、相手に己の思想を、理想を、願望を共有させる。「俺とお前は違うが、俺は俺、お前はお前だよな」すら許さない。「お前は間違っている。お前も、俺のようになれ!」という、過激なメッセージ性。パンクというジャンルの持つ特徴が、このセリフには凝縮されている。

そして同時に、この攻撃性によってパンクは大いなる矛盾と直面する。相手を正し、自らに沿わせるその攻撃性は、とどのつまり、「社会性」や「道徳」、「常識」と同種の物なのだ。そんなもんくだらねーぜ! と相手を檻から解き放とうとする限り、パンクは「今まで培ってきた常識なんて捨てろ!」という「新たな常識」の、極めて熱心な教育者にならざるを得ない。

穏やかで緩やかな支配に対する極端で過激な抵抗は、大衆の支持を集めない。これは、恐らく過去も現在も未来も変わらない構図だろう。だから、サイバーパンクは敵を強大化させる。理不尽で、強引で、暴力的で、非人間的な「企業」を向こうに回し、「耐えられない」と思うに足る十分なシチュエーションを構築する。

今回であれば、それは母の死と、学校と言う名の社会からの追放だ。金銭的な問題を抱えつつも今の生活を保障していた存在と、多大なる苦痛を負わせながらも未来への希望を与えてくれる存在。現在と未来の拠り所を粉砕し、デイビッド——および、その背後にいる僕——を追い詰めた所に、極めて魅力的な美少女を登場させて鼻の下を伸ばさせ、間髪入れず「親の期待」、すなわち過去の拠り所へと強烈な蹴りをお見舞いする。そんなもん他人の夢だと切って捨てる。かくして、デイビッドは「過去」、「現在」、「未来」、全ての繋がりを断ち切られ、しがらみのない新しい世界へと踏み込んでいく……はずだった。

そうならなかったのは、作品を最後まで鑑賞した人間なら誰もが記憶しているだろう。デイビッドは最期まで、「親の期待」を手放さなかった。

ここでは、そのことを記憶しておいてほしい。

 

続いて、エッジランナーズの兼ね備えたジャンルの二層目。それはノワールだ。フランス語で「黒」を意味するこのジャンルは、ギャングや犯罪者といった社会の闇の部分を主に取り扱う。このアニメがノワールの文脈に即していることを、否定する人はいないだろう。社会に適応できなかったはみ出し者たちが集まり、暴力によっていくつもの成功を収め、やがて社会の狡猾さのなかで押し潰されていく。ご丁寧にファム・ファタールまで登場するのだから、どこまで教科書通りの物作りをするのだと感心させられたものだ。ノワールの魅力、それはやがて訪れる破局の面白さであり、それは同時に、手段を選ばずに何かを為そうとした者たちに訪れる勧善懲悪への、倒錯した快感でもある。

犯罪者は笑い、無辜の人々が苦しむ。そこには一見すると、正義などないように見える。しかし、報いはある。誰が、どのように報いを受けるのか、それがノワールの面白さである。

駆け上がる階段は死刑台であり、羽ばたき目指す先は翼を溶かす太陽だ。だから、僕たちは安心してその非道を鑑賞することができる。悪党が何かを得て喜ぶ時、共にそれを喜ぶ。そして、悪党が血に塗れて死ぬとき、やはり僕たちはそれを喜ぶのだ。現実では複雑すぎて観測できない因果応報が、単純化されたフィクション世界では明確に機能していることを確認して。

冴えた射撃と強靭な肉体を持ち、頼れる仲間たちと厚い信頼関係を構築しているメインは、まさにこの作品のノワール要素を凝縮した存在だ。夢の頂を目指し、彼はわき目もふらず走っていく。良い兄貴分でもあり、強いリーダーでもあるそのキャラクター造型は、見ている人間の心を掴む。誰もが、メインに好感を抱くだろう。

サンデヴィスタンに適応し、しっかりと使いこなせるようになっても、デイビッドはメインの足元にも及ばない。青二才。半人前。ルーキー。そう呼ばれるに足る、差があった。デイビッドは少しでもその差を埋めてメインに追いつこうとするが、彼はその追随を許さない。

メインの死ぬ、その時まで。その関係性は変わらなかった。決死の覚悟で、死地に臨むつもりで、震えるからだを抑えて銃を構えるデイビッドに、メインは告げる。「お前にはまだ無理だ」

余りにも、無情な言葉だ。愛しのルーシーを置き去りにして、メインの横で死にに来たデイビッドに。メインは「生きろ」と言うのだ。「走り抜けろ」と。

泣かせるじゃないか。狂人が死の間際、チームの新入りを逃がしてやるという、そういう感動的なシーン……だったならばな。ここは違う。いや、確かに強く、頼もしく、カッコいいメインが、狂気に陥り、全てを喪い、盛大に、惨ったらしく死ぬという、展開的に極めて重要な山場であり、絵的にもアクション的にも映える素晴らしいシーンではある。泣ける描写にもしてある。だが、このシーンの肝はそんなお涙頂戴ではない。

メインの発言は、「デイビッド君はまだマックスタックを倒せないから逃げなさい」などという気づかいではない。サイバーサイコシスの症状として、彼の幻視する風景。無限に続くかに思われた道路の上を、痩せた男が走り続ける光景。汗が吹き出し、息せき切って、走り続けたその男は。道路の終端を前にして、ついに立ち止まる。

要するに、彼は走り続けられなかったのだ。

どこまでも行けるつもりだった。なにものにも遮られず、無人の荒野を行くが如く、目的に向かって突き進んでいるはずだった。

だが、そこにガイドラインなどなかった。頼れるものなどなかった。何もない世界。ひたすらに広く、どこまでも続くその世界を、ただ己の目的意識だけを頼りにして走り続けられるほど彼は狂ってはいなかった。

「俺はここで死ぬ。お前は生きろ」というセリフは、肉体的な生死ではない。道路の上しか走れない、俺のような半端者にはなるなという狂気の焚き付けだ。メインの願い。それは、足場も、ラインもない、無限に広がる荒野を、俺の代わりに走って欲しいという最悪のバトンだった。そして、デイビッドは確かにそのバトンを受け取った。メインの目の前で、デイビッドはいともたやすく道路の切れ目を越えて。荒野を駆けていった。逃げるためか? マックスタックから?

違う。彼は逃げるために走ったのではない。

 

サイバーパンクのジャンル分け。三つめは、ボーイミーツガールだ。少年が少女に出会うことで、これまでの平凡で退屈な世界が壊れる。少年は少女に導かれるようにして、物語世界で波瀾万丈な体験をする。またほとんどの作品はその過程で少年が少女に惹かれていく様子を克明に映し出すし、大体は少女もその思いに応える。

そんなボーイミーツガールに対して、僕は常々思う所があった。その結末に関してだ。ボーイミーツガールのラストは、少年と少女の別れであってほしい。その方が美しいじゃないか?

出会いと共に始まった物語は、別れと共に終わるべきだ。

それが、僕の美的感性だ。別に少年と少女のイチャコラが嫌いなわけじゃない。好きな作品はキャラクターへの思い入れも強くなる。二人の幸せそうな顔が、永遠の離別によって断たれる様は、僕の心を揺さぶる。別れのシーンは見ていて辛い。しかし、だからこそ美しいんだ。

そんな観点から言うと、エッジランナーズは素晴らしかった。思いがけない縁をきっかけに出会い、求めあい、愛し合った二人が、お互いの愛ゆえに時にすれ違い、しかし支え合って、お互いに保身など一切考えず、相手の身の安全とその生涯の幸福だけを望んで、その結果として永遠に断絶する。

余りにも、美しい展開だ。ボーイミーツガールという点において、この作品は完璧だったと言ってもいいだろう。

だが一方で、シンプルに考えたとき。この結末にはモヤモヤしたものが残らないだろうか? 結局のところ、「敗北して終わってるじゃないか」と。

狡賢く悪辣なフィクサー、ファラデー。アラサカの用心棒、生ける伝説、アダム・スマッシャー。精神と肉体の両方から、二人を引きはがし、叩き潰そうとする強大な敵たちに、二人は翻弄され続ける。結果的にファラデーの方はぶっ殺すことが出来たものの、アダム・スマッシャーに関しては全く歯が立たなかったと言って良いだろう。そんな事でいいのだろうか? ビターなテイストはこの作品にはよく似合っているし、ノワールという観点からは極めて真っ当な落着だ。だが、ボーイミーツガールというジャンルでは、こういう奴はぶっ飛ばしてくれなきゃ困らないか? 僕は困る。ぶっ飛ばした上で、格の違いを見せつけた上で、あくまでも少年と少女の関係性の終着点としての二人の別れがあって欲しい。

無茶言うなよ、と思うだろうか。アダム・スマッシャーは原作に登場するキャラクターだ。しかも、どうやらかなり重要なポジションにいるらしい。そんな奴をスピンオフ作品でぶっ飛ばすなんて、メアリー・スー紛いのこと出来るわけないじゃないかと。そう思うだろうか。そうやって、理解ある大人の顔をして、デイビッドの健闘を称え、ルーシーが助かった点を喜び、心の中のモヤモヤに「我が儘」とレッテルを貼って蓋をして、仕舞い込んでみせるのか?

 

パンクじゃないだろ、そんな態度は。この作品は、見事にソレをやってのけたというのに。

 

確かに。確かに、アダム・スマッシャーはサイバースケルトン装備のデイビッドを粉砕した。それはもう、紛れもない事実だ。フィジカルにおいても、クローム耐性においても。デイビッドは完敗した。

だからどうした。アダムが為せず、得られず、デイビッドだけがモノにしたものが確かにある。アダム如きには到底手に入れられない「特別」を、デイビッドは確かに有している。

 

それが「夢を叶える」ことだ。しかも、デイビッドが叶えようとする夢は「他人の夢」である。狂気としか言いようがないが、この作品で望みを叶える人間は彼しかいないのだから、彼を「特別」と呼ぶにこれ以上の理由は必要ないだろう。誰もだ。他の誰も、夢を、望みを叶えるものはいない。

権謀術数を尽くしてアラサカに入り込もうとしたファラデーは搬送中に滑落して脳漿をぶちまけた。

仲間を売って悠々自適にドロップアウトすることを望んだキウイはゴミ箱の裏で事切れた。

サイバースケルトンのデータを取ろうとしていたアラサカの連中は「それどころではな」くなった。

いつ頃からかデイビッドに惚れていたレベッカも、その想いが届くことはなかった。

「アンタ自身が生きてくれていれば、それだけで良かったのに」と絞り出すルーシーの悲痛な願いも、世界が聞き届けることはない。

皆殺しを高らかに宣言したアダム・スマッシャーすら、ファルコとルーシーを討ち漏らした。

 

凡人共、道をあけろ。デイビッドの「特別」さなしに、この世界で願いを叶えられると思うな。

 

メインが果たせず、彼に託した「走り抜けろ」という言葉。エッジの向こう側まで駆け抜けたデイビッドを見てもなお、それが果たされてないなどと言える人間はいないだろう。

「月に行きたい」というルーシーの言葉は、「行くだけならでしょ」を引き合いに出すまでもなく、言葉通りの意味ではない。要するに彼女は、「この世界」から脱出したかったのだ。光の檻、ナイトシティ。アラサカの手で無茶苦茶にされた自身の人生。サイバーパンクとして、デイビッドを新しい世界に連れて行った彼女が、しかしより一層強固に囚われて出られなかった「この世界」から、デイビッドは確かに彼女を連れだした。そうでなくて、誰が月面旅行などするものか。人生の上がりをとうに迎えた老人ばかりを積んだ、いかにもつまらなさそうなあんなツアーに。

そして、憶えているだろうか。デイビッドは最期まで「親の期待」を手放さなかったという記述を。アラサカタワーのてっぺんに立った、なんていう話じゃない。

「見返してやりたい」。グロリアがこの作品で、唯一口にした、「彼女の言葉」だ。傭兵と救急隊員の二重生活、母としての責務と我が子への期待。誰かへの謝罪と金の支払い。決して多くはない彼女のセリフは。どれも必要性に駆られている。立場に囚われている。そんな中で、この一言だけは、彼女の願望が窺える。果たして、偶然か作為か。デイビッドの行動原理はいつもここにあった。

カツオに殴られれば殴り返した。世間知らずのガキを相手にするような態度だったルーシーは、気が付けばデイビッドにゾッコンだ。メインにどれだけ洟垂れ扱いされても、一人前だと認めさせようとした(サイバーサイコと化したメインを相手に、マックスタックを目前に控えてさえも)。動くサンデヴィスタン置き場扱いをしていたリパードクも、いつしか彼を立派なエッジランナーとして認めた。極めつけは、アダム・スマッシャーを相手に意趣返しをしてみせた。

こじつけだと思うか? メインやルーシーはともかく、グロリアにそこまでの意味は与えられてないと?

そうかもしれない。

ただ、僕が自身の親への思い入れを反映して、その比重を作品の想定以上に肥大させてるだけかもしれない。

 

それでも、デイビッドはこの作品の中で唯一望みを叶えることができる、「特別」な存在だったという結論が揺らぐことはない。そして、ようやく僕の感想に立ち返ることができる。

 

“グロリアはこの世界でただ一人、彼が「特別」だと知っていた。デイビッドは自分が「特別」だとは知らなかったが、この世界でただ一人、自分がそうであると信じた。”

ああ、そうとも。これに尽きる。他にこんなに痛烈で、面白い要素があるか? この作品で?

 

「お前は特別なんかじゃない」と、デイビッドは言われ続けた。敵にも、リパードクにも、仲間にすら言われた。

 

「サンデヴィスタンで人より速く走れるからってもう一人前ヅラか?」

「人よりいくらか耐性が強いかもしれない。でもあなたは普通の人よ」

「せいぜい伝説って奴にでもなりな。ありきたりのな」

「こんな反重力装置がないと、一人で自分の体重すら支えられない小僧が! この程度で何者かにでもなったつもりか!?」

 

 

ざまあみろ、節穴どもめ。彼は、確かに特別だった。

ヒッキーヒッキーシェイク

「俺さ、言葉が嫌いなんだよ。だから言葉のない世界にすこしでも身を置いときたいわけ。ピカソの絵とか見て、これはナントカ主義のナントカでとか、莫迦だと思わね? ただの乾いた絵具じゃん。見てたいか、見たくないかだけじゃん」

 

津原泰水の「ヒッキーヒッキーシェイク」を読んだ。怪しげな自称カウンセラーJJによって引き合わされたヒキコモリ達のアンサンブル。

御多分に漏れず、僕がこの作家を知ったのはごく最近のことだ。1か月も経っていない。百田尚樹の「日本国紀」におけるコピペ騒動と、津原泰水による指摘。そこからひっそりと発生していた文庫本発刊の取り止めの、他ならぬ作家本人からの告発。出るはずの本が出るはずのタイミングで出なかった、というだけで終わっていたかもしれない話は、あれよあれよと言う間に燃え広がり、幻冬舎社長の見城徹を引きずり出し、彼はその筆禍によって自身のツイッターアカウントを焼き、AbemaTVの冠番組を潰した。

随分と回りくどい話だが、僕はこの一連の騒動の後半部分がネット上で話題になる頃にようやく津原泰水という作家を知り、ツイッターアカウントを覗いた。そこにはまず告発があった。告発は僕にとってニュースでしかなかったのでツイートを辿った。次に、戦いがあった。戦いは僕にとって暇つぶしでしかなかったのでさらにツイートを辿った。そして、僕は宣伝を見つけた

不定期連載の長編小説。小難しい言葉遣いの、良く言えば洒落た、悪く言えば気取ったような文章を、僕は貪るように読み、あっというまに掲載分を読み終えてしまった。

面白い。そう思った。だが、最後の更新は3月末。二か月近く放置されている一方で、明らかにこの物語は始まったばかり。

お預けを食らった犬の気分で、僕は渦中の「ヒッキーヒッキーシェイク」を予約し、ついでにやたら評判の良かった「11」という短編集を注文した。ほどなく届いた「11」を読み終えてみて。正直なところ僕は拍子抜けしていた。確かに面白い。文章も好きだ。「五色の舟」と「クラーケン」に関しては、特に気に入った。しかしいくつかの作品に関しては尻切れトンボというか、座りが悪いというか。どうにも、僕の趣味にはあまりあっていないようで。正直、失敗したかもな。そう思いながら、それでも何かの縁よと「ヒッキーヒッキーシェイク」の予約は継続し、やがて発売日が訪れて。読み始めてすぐに気付いた。この小説はべらぼうに面白い。30Pも読まないうちに、僕はコロッとこの作品にやられてしまった。あれこれ考えたのも、今にしてみればただの杞憂だったわけだ。

浮世離れした(ヒキコモリだけに)キャラクター達が織りなす出来事は、現実の色濃い地続きの舞台で藻掻くが故に一層空想の色を帯び、まるで風船さながらに世界を転がり回る。軽妙な会話の中で誰もが煙に巻かれながら、風に流されながら。突然二つの足で大地を踏みしめるようになどならず、ただ流されるままに海の向こうへと消えていきもせず。ただ、精一杯に伸ばしあった手を取りあって、世界と紐付けされる。

そこにある問題を隠蔽せず。安易な解決策など提示せず。それでいて、世界が目指すべき方向を描く。これもまた、実践的な作品だと言えるだろう。

この小説が、2016年5月の段階で出版されていたというのは、希望だ。

この小説が、2019年6月の段階まで“誰にも”読まれていなかったというのは、悲劇だ。

いくつもの事件が脳裏をよぎる。いくつものニュースが思い起こされる。彼らは、彼女らは、この小説を知っていただろうか。他ならぬ幻冬舎社長が暴露した単行本の売り上げ冊数を考えるに、恐らくは知るまい。目にしたこともなく、存在自体認識してはおるまい。

そのうちのいくつかは、ここ一か月に起きた事だった。それがなによりも辛く、悲しい。

僕だって、この騒動が無ければこの作家を知ることはなかった。小説を読むことはなかった。逆に言えば、何かがあれば誰だって、この小説を読み得たということだ。

もしも彼ら彼女らが、この作品を知っていたならば。手に取って読んでいたならば。

全てと言わずとも、いくつかの悲劇は未然に防がれたのではないか。そんな考えばかりが胸に溢れる。

「コミュニティの一生」が指し示しているものはなんだったのか。

発祥がどこかは知らないが、とにかく2ちゃんねるやニコニコ、twitterなど日本のSNSを今も漂流している「コミュニティの一生」というコピペがある。

面白い人が面白いことをする
↓
面白いから凡人が集まってくる
↓
住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める
↓
面白い人が見切りをつけて居なくなる
↓
残った凡人が面白くないことをする
↓
面白くないので皆居なくなる

とまあ、委細に違いはあれど概ねこのような内容のテキストだ。このテキストを読んで尤もであると今を嘆く人がいれば、同じようにこのテキストを読んで新規を排斥すればそもそも誰もいなくなるだろと反発する人もいる。賛否両論数あれど、ともかくこの数行のテキストが、衆目に晒しても風化しないだけの強い力を持っていることは否定しがたい。

しかし、このテキストは余りにも刺々しい。「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」これらの言葉が具体的には誰に当てはまるのか。このテキストを読んだ自分――世の常として、必ずどこかしらのコミュニティに属している自分――は「面白い人」として評価されているのか、「凡人」として糾弾されているのか。それを判断するにはテキストがあまりにも曖昧で、読んだ人間の心にさざ波を立てずにはいられない。その刺々しさ、人に波を立てる鋭さこそが、このテキストの存在感を保ち続けたという功績は確かにある(かくいう僕も、その鋭さ故に、このように文章を書いているのだから)。それでも、この言葉の棘が読む人をただ通り魔的に傷つけて、まさにその傷によってコミュニティ内部に不和を生じてしまう事態に繋がっているのはなんとも悲しいので、僕はこの言葉を解きほぐしてやりたいと思う。すなわち、

「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」

とは一体、何を意味した言葉なのか。

それを理解するためには、まず「コミュニティ」とはなんなのかという所を決めておかねばならない。僕の定義はこうだ。

 

「コミュニティとは、集合である」

 

どのような種類のコミュニティであろうと、ただ一人の人間しかいない場所にコミュニティは形成されない。二人以上の人間が、何らかの目的をもって「重なり合った場所」こそがコミュニティである。ベン図を思い浮かべてもらうのが分かりやすいかと思う。複数の円が部分的に重なり合った領域。それこそがコミュニティである。この円は必ずしも個人である必要はなく、コミュニティ同士が重なり合った場所に新たなコミュニティが生まれるという事も当然あるだろう。

さて、コミュニティの黎明期。コミュニティを形成する円は少なく、当然コミュニティ自体も小さい。そんな中で、所属する人が活動をするとどうなるか。小さいコミュニティでは何をするにも、コミュニティの外から何かを持ち込むしかない。遊ぶとなったら外からゲームを持ってくるし、話すとなったら外の話題だ。つまり、黎明期のコミュニティは何かにつけて、所属者が持ち込む「未知」に晒され続ける。この「未知」の流入が継続的に行われるかどうか、そしてその「未知」がほかの所属者に受け入れられるかどうか。それが、コミュニティの発展を決定付ける。

ここに、「面白い人」と「面白いこと」と呼ばれるものが存在する。「未知」であり、なおかつコミュニティに所属する他者が受け入れられる何か……それが「面白いこと」と認識され、それを持ち込む人が「面白い人」と呼ばれる。

ここで「未知」と呼ばれるものは、コンテンツに限らず、人の場合もある。そして往々にして、これは雪だるまのように、他のものを連鎖的に連れてくる。新たな人をコミュニティへ招けば、その人が「未知」のコンテンツを提供してくれる事がある。新たなコンテンツがコミュニティに拓かれれば、そのコンテンツを求めて「未知」な人がコミュニティを訪れる事もある。このようにして、「面白い人」が「面白いこと」をすればするほどに、コミュニティは「面白い」という事になるわけだ。

しかし悲しいことだが、人には限界がある。一個人が知ることのできる情報は僅か。他人に伝達できる状態に変換できるものは更に少ない。多くの「面白い人」たちは遠くないうち、コミュニティに「未知」を持ち込むことが出来なくなっていく。

同様に、コンテンツにも限界がある。どれほど面白い遊びでも、100回遊び、1000回遊び、と回数を重ねていくうちに、段々と「未知」ではなくなってしまう。

一方で、「未知」としてコミュニティに流入した人たち全てが、今までいた「面白い人」と同じように「未知」を紹介できるわけではない。アニメでも映画でも小説でも構わないが、その道のファン10人でなら、ひとりひとり違う方法で作品の面白さを他人に伝えられるかもしれないが、10000人を集めて一人一本、10000種類の語り、コンテンツを作ることは至難だ。たとえ集まったとして、それらを一つ一つ判別できる形で拾い集める事も容易ではないだろう。

このように、どこかのタイミングで、コミュニティに「未知」を提供できない人というものが出てくる。正確には、顕在化する。最初のうちは気付かなかった、気にするまでもなかった存在が、次第に多く、目に付くようになってくる。

コミュニティに所属する者が受け入れられるような「未知」をコミュニティにもたらさない存在。それがこのコピペで言われるところの「凡人」であり、「主張」や「面白くないこと」とは「既知」であるものつまりすでに陳腐化したコンテンツや、あるいは「未知」ではあるがコミュニティ所属者の大多数にとって受け入れがたいコンテンツを意味している。

では、「面白い人」はどこに行ってしまったのだろう。「見切りをつけて居なくな」ってしまったのだろうか? そうとは限らない。

かつてコミュニティに「未知」を持ち込んでいた人が、コミュニティが拡大してもなお、同じように「未知」を持ち込めるなどというのは余りにも、人を過大評価している。そういった膨大なコンテンツにアクセスできる人は当然いる、その膨大なコンテンツを咀嚼し、僕たちにも理解できる形で授けてくれる存在は確かに地球に存在する。だが、人間というのはそんな逸材ばかりではない。いくつか面白いことを知っているだけの兄ちゃんや姉ちゃんだって、コミュニティはたくさんいるはずだ。そういった人たちが、自分の持つ「未知」をあらかた提供してしまったら。情報が、コンテンツが、陳腐化してしまったら。

そうなれば、彼ら彼女らは埋没する。コミュニティに内包され、「既知」の存在となる。つまり、「凡人」化する。コミュニティが拡大するに従って「面白い人」たちはそのコミュニティの中で段々と「凡人」になっていくのだ。

規模が大きくなれば、「未知」は減る。「未知」を提供できる人も減る。こうして、どこかのタイミングで遂に、コミュニティは停滞する。流入する「未知」こそが、コミュニティを拡大させていたのだから。

その後コミュニティが衰退していく事を、「人は『未知』が好きで、それを求めているから」という理由で説明することは難しい。「既知」の魅力を否定することは出来ないから。お約束、定番、王道、古典。そういったものにも面白さは明確に存在していて、なかなか消えてなくなることはない。それでもやはり、コミュニティの存続と発展には「未知」が必要不可欠なのだろう。コミュニティ内部のものにとってはとっくに「既知」の存在が当人にとっては「未知」であるからこそ、コミュニティ外部の存在が内部の存在に変化するのだから。

どうにも話が散らかってしまった印象はあるが、とりあえずこのコピペにおける「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」に関しては、少しは限定的な言葉に書き換えることが出来たように思う。

そしてそのうえで、僕は示したい。「凡人」が悪いのではない。「面白い人」が悪いのでもない。コミュニティはいつか飽和し、停滞し、衰退する。それは避けようのないことだ。「未知」を収集し、コミュニティに奉仕せよ、などとは誰にも命じることは出来ない。どこまで行っても。コミュニティは、人と人とが重なった集合に過ぎないのだから。それは人ではない。コミュニティはコンテンツではあっても、人ではない。大切なのは、人だ。人が苦痛を感じるようなことを、強いてはいけない。つまらないコミュニティになれば、新しいコミュニティにいけば良いのだ。

それでもなお。今所属しているコミュニティを盛り上げたいと思ったなら。そんなときは、持っている「未知」を一つ、コミュニティに提供してみたら良い。あなたにとってはありふれた、つまらない、誰でも思いつくような何かであっても。コミュニティの誰かにとってそうであるとは限らない。始まりからして、きっとそういうものだった。何気ない世間話で自分が全然知らない事を聞けたら、それはとっても「面白い」のだ。かつて僕も、その連鎖の果てに今いるコミュニティにたどり着いた。その連鎖の次の輪を、自らの手で作ってみるというのも、コミュニティから得られる「未知」であることは間違いのないことなのである。

SUPER MARIO ODDESSY

「Take a turn, off the path Find a new addition to the cast, You know that any captain needs a crew」

 

世界で最も著名なゲームの一つ、「マリオ」シリーズ最新作。「スーパーマリオオデッセイ」を遊んだ。

僕は、あまりマリオを遊ばない。まあ一応遊んだ、と言っても許されそうなマリオシリーズは、「スーパーマリオRPG」と「スーパーマリオ64」の二本だけで、しかもカジオ―もクッパの三戦目も倒していない。今でもゲームはへたくそだが、当時はそれに輪をかけて、ドへたくそだったのだ。僕は人生において、マリオシリーズをクリアした事がなかった。

そんな惨状であるにも関わらず。或いは、そんな狭い世界で生きていたからこそかもしれないが。僕の中で上記の二作品は、新しいゲームに押されておもちゃ箱の奥に仕舞い込まれるのと同時に、思い出の中でも深く深く埋もれながら、しかし一方で、大地の圧力が時に宝石を生み出すがごとく。その輝きを刻一刻と強めていったのだった。

僕はある時期からかなり長い間、コンシューマ機でゲームを遊ぶことがなかった。そんな僕がコンシューマー機のゲームを見ても、その全ては色褪せていた。おもしろそうだな、と思ったソフトも、たのしそうだな、と思ったハードも。どうせ僕が手に取り、遊ぶ事はなかった。そんな環境では全てが、取るに足らない些細なものだった。思い出の中の宝石と比べれば、可哀想になるぐらいちっぽけなものだった。

一方で僕はその長い期間、パソコンを使って遊ぶオンラインゲームに浸っていた。様々な種類があり、いくつものタイトルを遊んだが、そのどれもが、上記の二タイトルとは、似ても似つかないものだった。僕にとってオンラインゲームの本質は画面の向こうの誰かとのコミュニケーションだった。極端な話、ゲームが詰まらなくても良い。そこに人がいて、くだらない話をしていられるなら、その場を提供しているゲームが素晴らしいものである必要はなかった。ゲーム体験の質が良い必要はなかった。そんなゲームを遊んでいて、思い出の宝石達に傷の一つだって入るはずがなかった。彼らはゲームとして素晴らしく、楽しく、僕が遊べて、そして何より、僕にとってはもはや思い出の中にしか存在しなかった。ゲーム、という観点において。オンラインゲームは端っから勝負にならなかった。

 

そんなゲーム体験を積み重ねていくうちに。僕の中で宝石は呪いと化した。最早、コンシューマゲームであろうとパソコンゲームであろうと、オンラインであろうとオフラインであろうと、僕にとっては関係なかった。全てが宝石と比べればくだらないゲームだった。美しく激しいアクションゲームを見るたび、僕は思った。「まあまあ面白そうだけど、マリオ64にはかなわない」壮大で痛快なRPGを見るたび、僕は思った。「なかなか楽しそうけど、マリオRPGにはかなわない」

これは、時が経ち、友人から中古の携帯ゲーム機を譲り受けてチョコチョコそれで遊び始めたり、Steamの存在を知って様々なゲームを開発するようになってからも変わることはなかった。

どんなゲームだって、完璧足り得はしない。粗いポリゴン。拙いプログラミング。ハードの限界。ズレた演出に穴のある筋、不自然なデザイン。そういったものは確かに存在していたはずだった。だが、そんな点は振り返らない。見返さない。美点だけが映し出され、長所だけが箇条書きされる。思い出は無敵の鉄壁となった。

それは、僕のデジタルゲーム人生を覆い、包み込んでしまう、偉大なる万里の長城だった。

 

そんな中。2016年10月下旬。

Nintendo Switchの第一報プロモーションビデオが公開された。カチン、という軽妙な音と共に組み合わされるJoyコンと、ノリの良い音楽は、実に僕の趣味と合っていた。興味が増して、見てみることにした。ゼルダ。カチン、スカイリム。カチン、なんか知らんバスケットボールのゲーム。カチン、僕のクソ苦手なマリオカート。「ふーん」と思いながら見ていた。面白そうだね。でも大丈夫。僕にはグレートウォールがあるから。そう思っていたら、カチン。そこにマリオがいた。三段ジャンプをしていた。僕の胸に沸いたのは、渇望だった。実に奇妙な感覚だった。僕には無敵の万里があるはずだった。サンシャインにもギャラクシーにも、あろうことかDSリメイクの64にさえ、その壁は一切揺るがなかった。なのに。どうしてか。ジャンプしてるマリオが、欲しくてたまらなかった。ビデオを見終わるころには、僕はSwitchの購入を決めていた(PV時点では、スプラトゥーンに対する印象は「ああ任天堂はやっと二画面とかいう遊びにくそうな方向性を一旦脇に置いたんだね」というのと「相当Esportsやりたいんだね」という程度しかなかった)。

 

僕は続報を待った。しばらくして、どうやらローンチでマリオは出ないらしいと聞いた。ガッカリしながら、それでもSwitchの大層な人気振り、売り切れの連続に慄き、マリオが出ても手に入らなかったら嫌だったので5月に入る前にSwitchを入手した。

また僕は待った。その間に12スイッチ、ゼルダの伝説BotW、ARMS、スプラトゥーン2と僕の人生の中でも一、二を争う頻度でコンシューマゲームを遊び、その面白さに童話酸っぱいぶどうを思い出しながらも、やっぱり3Dアクションゲームはマリオ64だよねという感は拭えないまま、数々の先行プレイ動画を見ながら首を長くして待ち、ようやく。2017年10月27日の午前0時過ぎ。僕はPUBGからログアウトして、マリオオデッセイを始めた。

マリオオデッセイは面白かった。でも64じゃなかった。楽しみながら、まだ僕は壁の中にいた。なんか違うんだよな。結局、64じゃないんだもん。マリオの声優は老けてるしさ。

そうこうしていると、64みたいな部分が見えてきた。64みたいなマップが出てきた。64みたいな演出が出てきた。

楽しいなあ。面白いなあ。しかも凄く64をリスペクトしてるなあ。僕はうれしくて、泣きそうになりながらも、でも64じゃないから壁の中にいた。ムーンを集めて、人生で初めて、3Dのクッパを倒した。ムーンを集めて、全マップを解放した(多分)。ああ、楽しい。まだまだムーンはある。取れるものも取れないものもあるだろうけど、まだしばらくこのゲームを楽しめるだろう。そう思いながら、しみじみこのゲームの主題歌を聞いた。僕は歌をただ聞くだけじゃなく、歌うのも大好きだから、歌詞を探してきて聞きながら一緒に歌った。

そしたら、僕の壁が砕け散った。

何故砕けたか、というのを語ることはまだ出来ない。この歌詞が、それだけ深く僕の心に刺さったからだろうとしか、今は思いつかない。ただ一つ確かなこと。この歌は、マリオオデッセイを曲がりなりにも遊んだ僕が歌って初めて、僕の中で完成した。

 

 

思い出は美しく、到底太刀打ちできない。マリオが生み出したそんなゲーム体験を打ち砕いたのは。結局のところマリオだったという、それだけの、とてもくだらない話。それでも、「Jump Up, Super Star!」を、歌詞ガン見しながらたどたどしく歌ってみて、僕の胸に突如溢れた感情は。どんな宝石の煌きよりも、輝いて見えたのでした。

Sing

「僕が言ったことを思い出すんだ。歌い始めてしまえば、恐れる事なんて何もない。……さあ、歌って」

 

「ミニオンズ」で有名な3DCGアニメーション制作会社、Illuminationの最新作、「シング」を見てきた。とはいえミニオンズは見たことが無い。多分この会社の映画自体初めてだろう。そもそも僕自身が3DCG自体への好き嫌いが結構激しい性質であり、例えば「ベイマックス」や「ズートピア」などの超ビッグタイトルでさえ最近ようやく見たぐらいだし、その上で大して評価してない。そんな僕が何故この映画を見るに至ったか。理由は至極単純である。

僕は、音楽映画が好きなのだ。敢えて「ミュージカル」であるかどうかなどという区分けは握りつぶそう。正直なところ違いがよく分からんし。メリーポピンズ、チキチキバンバン、サウンドオブミュージック等々の傑作映画を与えられ、101匹わんちゃんやアラジンといったディズニー「二つの黄金期」を摘み食い、そしてブルースブラザーズに脳天をぶち抜かれた僕のような人間。毎週日曜日にビートルズやニールヤングやといった両親の趣味全開のCDやレコードを目覚まし代わりに布団を這い出していた僕のような人間にとって。この手の音楽映画というのはそれだけで飛びついてしまう存在なのだ。「なんか最近のディズニー映画より3DCGがちょっと受け入れやすい感じだった」という第一観すら、これが制作会社の違いを的確に見抜いていたのか、それとも単にCMの頭に流れた「Gimme Some Lovin’」のハロウ効果にヤラれていたのかも定かではない。ともかく、僕はこの映画を非常に好意的に受け止め、ワクワクしながら見に行った。4月5日の事だ。そして、とても、とても満足した。大満足の僕はゆったりとスクリーンを出て、パンフレットとサントラを買うために物販の列に並んだ。そのついでに、携帯電話の電源をつけた。長い起動画面の後、前触れなく待ち受け画面が表示された。その待ち受けに父親からの着信履歴が残っているのを見て、僕はとても嫌な予感を覚えながら、リダイアルした。そして、そこで半日の遅れをようやく取り戻した。

 

2017年4月5日。

加川良が死んだ。

 

素晴らしい音楽映画と出会ったその日、素晴らしい音楽家の死を知った。どうにも悲しくて、数日の間は暇さえあれば彼のうたを聞いていた。