僕のエメラルド・シティ

花とアリス殺人事件

今回紹介するのは、「スワロウテイル」の監督岩井俊二による実写映画「花とアリス」、の前日譚である所の「花とアリス殺人事件」である。実写映画の方はビデオ屋で全部貸し出されていたので未見のまま、こちらを見ることになった。両親の離婚がきっかけで引っ越してきた少女有栖川徹子――アリスは、転校先の学校でかつて「ユダ」が使っていた席に座ることになり、周囲から腫れ物扱いを受ける。「殺されたのはユダ。殺したのもユダ。ユダには四人の妻がいた。その事がほかの妻に露見し、一人の妻が毒を盛った……」“悪魔憑き”の少女陸奥睦美の計らいと自慢の脚力によってクラスに溶け込んだアリスは、一年前に起きたその「殺人事件」について知るべく、不登校になり留年した「事件の生き証人」荒井花に会うために彼女の住む“花屋敷”へやって来た。花はアリスの話を聞き、こんな提案をする。「あたしが手伝ってあげるから、君調べろ」こうして、アリスは真相究明のため、ユダの父親が勤めるコバルト商事に向かうのだった……。

このアニメでまず意識的になるのは、きっとキャラクターの絵だろう。生々しいような、のっぺりしたような、そんな奇妙な造型。見ていてしばらくは3D作画かとも思ったが、どうやら違う。これはロトスコープと呼ばれる、撮影した映像をトレースして動画を作成するアニメーション手法のひとつだ。このロトスコープ、単にデジタルな映像をフレーム単位でトレースすると通常アニメと異なるペースでコマ、というか画が変化してしまうので、なんとも間延びしたようなゆったりした動きになったり、そうかと思えばやたらと機敏で溜めのない動きになったり、間違いなくアニメであるにもかかわらず役者そのものをトレースした結果キャラクターの顔や体格が「(従来の――もっというなら日本のテレビの――)アニメらしからぬ」ものになってしまう。また、役者の芝居を撮ってからそれをトレースするという二度手間な作画方法の結果金も時間もかかるとか。それだけの労力を掛けて、挙句アニメとしては受けないのだ。金と時間の問題はともかく、少なくともロトスコープによって生み出される作画は日本のテレビアニメとその系譜としての劇場アニメを好む、恐らく日本アニメ界のボリューム層たるアニメファン相手の商売にはどうにも向かない(まあこの作品に関しては顔部分をかなりアニメらしい絵に寄せているので、アニメに慣れた身としてもとても見やすいが)。では何故、この作品でわざわざロトスコープが用いられているのか。そこに、僕は三つの理由を考えた。

一つは、「前作」の存在だ。僕のまだ見ていない実写映画「花とアリス」は、2004年に制作されている。一方でこのアニメ映画「花とアリス殺人事件」は2015年公開。十年の時を経て、キャラクター達の「過去」を描く。それを実写でやるのは中々難しい。童顔な日本人女優とはいえ、流石に十年前に高校生役を演じたキャラクターの中学生時代を演じるというのは厳しいだろう(これが舞台なら大人が子供を演じるような事は割とあるだろうが、映画などの映像媒体では中々そういうわけもいかない)。かといって別人に演じさせるには、時代が近すぎる。声も姿も芝居も違えば、それはもう同じ名前同じ設定であっても別のキャラクターでしかない。飽くまでも2004年に公開した「花とアリス」、そのスピンオフであるとするならば、同一性を如何にして保つのか。その一つの答えが、このアニメーション化という選択だったのではないだろうか。アニメなら、かつての役者に声を当ててもらう事ができる。そしてロトスコープなら、かつての役者に芝居をしてもらう事ができる(声はともかく、実際にかつての主演女優二人を使って撮影したのかどうか僕は知らないけど)。それに、元々実写映画のシリーズならその続編にやってくる客層も実写映画のファンが多かろう、ということであまりテレビアニメ的な客層へのアピールも過度にする必要もないだろうというわけだ。ただ一方でロトスコープによるアニメーションがアニメを見慣れていない人間の目にどう映るかというと、やはり不自然に見えてしまうのではないかという懸念は残る。何せ実際の俳優の顔と比べて明らかに造型が簡略化されている。アニメを見慣れない人間に、アニメ的表現がどこまで許容されるのか。これは僕一人では知りようの無い感覚なのでなんとも言えないが。

もう一つは、その演出効果。実写映像を元に線を描くロトスコープは、三脚やなんかで固定したカメラの定点的な安定したフレームも、手に持って撮った不安定な手ぶれも、レールに乗せてカメラを動かすような撮影方法もほぼ全て、実写映画と同様に描き出すことができる。その一方で、目が点になったり、顔の輪郭まで歪ませるような、漫画やアニメ的なつよい感情表現も用いることができる。実写とアニメのあいの子であるが故に、ロトスコープの取ることができる選択肢は広い。この映画の背景美術は完全にアニメやノベルゲームのそれで、幻想的という領域にも踏み込むその美しい光と色の世界の中を、重さを持った、ある種アニメらしからぬキャラクター達が動き回る事ができるというのは、強い長所だろう。

そして最後の理由。それは、実写をなぞって生み出されるその絵そのものの歪さではないだろうか。14歳(あるいは15歳)、中学三年生というその年齢は、考えてみれば実に奇妙だ。どう見たって大人ではない。しかし子供からははみ出しつつある。どう見たって女らしくはない。しかし少年(というか、未分化的な中性)からは脱却しつつある。二つの属性の間で、まるでどちらからも遠ざけられるような、宙ぶらりんな歪さ。それを表現するために、ロトスコープが選ばれたのではないか。そういう風に、僕は思った。

この最後の理由は、無論ただこの作品の作画方法がロトスコープであるというその一点から導き出されたものではない。劇中、「ユダ」が実際のところ死んだのかどうかを調べるためにアリスが「ユダ父」を尾行しようとして、間違えてユダ父と同じ会社の年配の男性を追ってしまうシーンで、「生き別れの父」というあまりにもあまりなアリスの嘘を聞かされ、アリスを乗せて前のタクシーを追い、あまつさえ相手に声を掛ける白髪のタクシードライバー。喫茶店での年配の男性の腕まくりや、人違いと分かった後で駅まで帰る途中にあったブランコでの会話。二年を「チョー懐かしい」遠い昔として語る少女と、四十年を「短いもんだな」と思い起こす老人。終電間近のラーメン屋で、ヤンキーな感じの一団が見せた荒っぽい優しさ。彼らが見せるその「童心」あるいは「無垢」とでも言うべきもの。大人が時として見せる子供らしさ。それは普段意識されずとも、年配の男性の二の腕のように、確かに大人たちの中にある。そして一方で、大人は喪ってしまった一方で――それは若さかもしれない。あるいは時に「向こう見ず」や「考え無し」とも称されるような、その無軌道性かもしれない――、目の前の溌剌とした少女はなんてこともない様に湛えているものもある。それを無自覚なままに見せ付けられる眩しさ。それこそが、大人たちの子供らしさを照らし、表出させているのかもしれない。

そう。そんな眩しい何かが、この映画には溢れている。ユダの霊。同級生の死。終電に乗り遅れ、踊りながら見た満点の星。トラックの下で過ごす夜。消えた友人と走り去るトラック。無軌道で無責任な若者たちが生み出す、些細なる大事。
この映画で描かれる出来事のはどれも、実に些細なことだ。「ユダの霊をクラス全員が見た」。そう語ったいじめっ子だが、しかしそれは運悪く「ユダ」の席に座ってしまった少女の狂言でしかなかった。その少女の狂言も、「ユダが座っていた席」に割り当てられたせいでいじめられるという境遇から脱したかっただけの事だった。そもそもその「ユダの死」なる事件自体、湯田という少年が転校直前に蜂に刺されて倒れたという話が人の口を伝わるうちに膨らんでいっただけの事でしかなかった。ミクロにおける悲劇が、マクロにおいては時に喜劇になってしまうような、あるいは酸鼻極める惨劇の中で、個人の間では時に笑顔が生まれるような。当人にとってはどれほど大事であったとしても、他人にとっては些細な事でしかない事もある。そしてそれは、「若者」がすなわち「当人」であるとも限らない。アリスを駅まで送った後、年配の男性が言った「ありがとう」という言葉。その重さすら、アリスには届かない。おじさんと喫茶店に入って、公園で一休みしつつ、駅までぶらぶら歩く。そんな事は、アリスにとっては実に些細なことだ。そして一方でおじさんにとっては、きっと得がたい時間だったのだ。
翻って、アリスから事件のことについて問われた花の態度。頑なに「知らない」「知らない」と語るその態度に、最初に見たときは何の違和感も無く「事情も知らない人間が好き勝手に過去を穿り返そうとしていることに腹を立てているのだろう」と一人合点をしていたが、実際にはその態度は明確に、「知ってる」「気にしてる」「知りたい」という内心を隠し繕うための言葉だったのだ。ほんの軽い、些細な悪戯のはずだったのに、という自責の念。車の下で吐露された気に病み、悩み、家から出られなくなった花の抱える思いの方は、アリスにも十分伝わった。伝わりすぎて、また一笑い起きるのだけど。

こんな些細な大事は、時に無関係な人間を巻き込み、時に誰かを傷付けてしまう、とても迷惑なことかもしれないけれど。そこに、かつて自分が持っていたであろう何かの、狂おしく眩しい光を見てしまうのは、間違ったことではない。その光を懐かしみ、時に焦がれてしまうのも、きっと間違ったことではない。

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