僕のエメラルド・シティ

フリクリ オルタナ

「たとえ明日が 昨日の寄せ集めでも わたしは」

 

「フリクリ オルタナ」を見た。2000年、ガイナックスとProduction I.Gによって制作されたOVA「FLCL」、その続編の片割れである。

愚にもつかない話を軽く書く予定なので、先に映画の感想を言っておく。

「予想していたFLCLの新エピソード」でも、「期待していたFLCLの続編」でもなく、しかしフリクリ オルタナは飛び切り面白いアニメだった。

初報は2015年だったと言う。ガイナックスが、FLCLの権利をProduction I.Gに譲渡したというニュースが流れた。僕は確かにこれを耳にしたはずだが、あまりその時のことを覚えていない。多分、本当に作られるのかどうか、実感がなかったのだろう。

そのまま権利関係のニュースの事も頭から過ぎ去った2016年、鶴巻和哉をスーパーバイザーに据えて続編を制作する事が決定という報に、僕は動揺した。

僕は「宝くじを当てたら実現したい事リスト」を持っている。ちょっとしたあぶく銭でできる事から、一等一本じゃ足りないような事まで、大小いろいろと欲望をそのままぶちこけたリストだが、2016年は「ウォークラフト」の公開が発表され、そのリストから「Blizzardに映画を作ってもらう」という項目が消えた年だった。そんな最中、「鶴巻和哉にFLCLみたいなアニメを作ってもらう」まで消えたのだから、動揺しない方がおかしい。

ダサくカッコつけてないように装う斜に構えたカッコよさ。アニメーターの悪ふざけの如く目まぐるしく変化し続ける映像。よくわかんないんだけどなんとなくわかる気がする演出。おちゃらけと猥雑の中に太い芯を感じさせる物語。

あのFLCLの新作がやってくる。

2017年、FLCL2と3が制作されるというティザームービーを見た頃には、僕の期待はとんでもない事になっていた。

2018年になり、オルタナとプログレというタイトルまで公開され、それぞれのPVを見てちょっと引っかかるものを感じたり(ハル子の声優がプログレだけ違うとかその辺)、海外では6月にプログレ公開(日本では両方9月に公開)という情報にモヤモヤしたりしながらも、僕は大層ワクワクして公開を待った。

そうして、とうとうオルタナを見た。

あんまり面白くない。

それが、第一章が終わり、「NEXT EPISODE」の表記を見ながら抱いた最初の印象だ。

「FLCL」的演出……というか、「FLCL」オマージュは確かにある。見たら誰にだって分かるだろう。しかし、あまりにもセリフや展開が、仕上がってないのではないか。

そんな印象は、第二章になってもより強くなるばかり。FLCLのハル子なら、もっとウィットに富んだ軽口を挟むんじゃないか。FLCLなら、もうちょっと巧妙に描くのではないか。

そういう、なかなか退屈な映像とお話が、ただピロウズの曲を背に流れている。

第二章が終わったあたりで、僕は既に自分を慰めるフェイズに入っていた。ここ数年、FLCLの、あのFLCLの続編をやるという話に、舞い上がり過ぎていたんだよ。

考えてみれば、あれほどのイカれたクオリティを保った作品に比肩するクオリティを、このご時世のアニメがそう易々と出せるはずもなかったのだ。

FLCLの表面だけをなぞった、ダラダラとつまらないアニメが流れる。そんな可能性だって、十分にあったじゃないか。

 

そんな思いが反転したのは、第四章。このエピソードを見ながら、僕はようやく自分の思い違いに気づいた。

このアニメは、日常アニメだったのだ。

ここで言う「日常アニメ」とは、だらだらとしょうもないイベントを垂れ流して女の子を愛でる作品の事ではない。「日常を描く」とは、僕の中ではそういう事ではない。

かつて「この世界の片隅に」において明確に意識したように、僕にとって「日常」とは「単体では語り得ぬもの」である。日常は常にそこに存在していて、「非日常」なしには認識できない。故に、日常を描くためにはその日常を破る「非日常」が必要であり、そしてまたその非日常が「日常」に飲み込まれる帰結こそが日常を描き切るために求められる。

その文脈における、「日常アニメ」こそが、「フリクリ オルタナ」だったのだと、僕は第四章にしてようやく気付いた。

一章から三章は「つまらない」。その認識を変えるつもりはない。

しかし、「日常」とは面白くないものだ。呼吸する面白さ、足を前に出す面白さ。そんなものを意識する事は、「日常」においてはない。面白さを感じるほどの事態はそれそのものがもはや非日常なのだから。

そんな中で、主人公の逃避と、懐の深い友達によって、「ハルハラハル子」と「N.O.」という意味も正体も不明な非日常はいともたやすくつまらない日常に溶け込んでいく。それこそが、この作品において重要だったのだ。面白可笑しくては、印象的であっては、刺激的であっては困るのだ。何故ならば、この作品は主人公の「日常」を描く作品だから。

一章では、キャラクターの紹介を。二章と三章では友達の「思わぬ一面」という非日常を追いつつ、ここでシッカリと、ガッツリと、それらを「日常」として飲み込んだからこそ、主人公にフォーカスの当たり否応なく非日常に直面する四章が生き、非日常を受け止めてきた日常そのものが瓦解する五章が映え、そして物語を終わらせる六章が輝く。非日常がいともたやすく日常を切り裂き、しかし裂かれた日常は平然とその非日常をすら日常化する。日常は変化し、しかし変わらず訪れる。

そして、それは紛れもなく、「FLCL」が描いた事ではなかっただろうか。少年の日常に突如現れた「青春の幻影」。だがその女神は少年を一足飛びに大人へなんかしやしない。少年は少年のまま、しかし明確に変化する。「酸っぱいのは嫌いなんだけど」。ナオタに訪れた、小さく、しかし決定的な変化。それを捉えなおそうという、明確な意志。それは、成功しているように僕の目からは見えた。

 

この作品の前半部分のつまらなさは、意図されたものだ。そしてそれは非常に効果的で、「面白い」。

もはや何の憂いもない。何の恐れもない。「フリクリ プログレ」の公開が、今から待ちきれない。

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