「大人になったな」
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」より、実に足かけ14年。とうとう完結だという触れ込みを聞いた。正直、公開初日に見た「Q」であきれ果てた身としては「良かった」という評価も「本当に終わった」という言葉も全て半信半疑だったのだが、劇場近くに出向く用事もあったので良い機会にと、このコロナ感染拡大の冷めやらぬ中に厚かましくも不要不急で見てきた。
最初に言っておくと、僕はエヴァの世代ではない。テレビ版など見たことも無く、ただ事あるごとに話題に出てくる昔のアニメという印象しかなかった。ニコニコ動画で違法視聴した旧劇でそのアニメーションに感動したものの、漫画版に手を出してみたらなんとまだ完結していなかった。アニメを2クール見るほどの熱意はなく。結局どういう経緯で旧劇のような事態になったのかは、ネット上の書き込みを聞きかじりならぬ、読みかじって知った程度のものだった。
それから数年が経ち、友人に「エヴァ破、面白いよ」と言われた。そんなこと言われても僕旧テレビ版も「序」も見てないよと返したのだが、随分推されたので仕方なく「序」から順番に見ることにした。
あー、昔漫画で読んだわこの辺。その程度の認識だったが、確かに美しい映像と派手なアクションに強い音楽の使い方で見る者を楽しませる、なかなかの作品だった。そのまま「破」も見た。当時の認識はあまり覚えていないが、旧劇のときの鬱屈した雰囲気とは大きく違うなとは思ったはずだし、なにより「Q」を初日に見に行っているのだから相当気に入ったのだろう。
そして、2012年。超満員の大スクリーンで、「Q」を見た。
ふざけんなと思った。
「破」から十数年が経ち、エヴァの世界は激変していた。どうもサードインパクトが起きたらしく、その原因はシンジだったらしい。しかしシンジはインパクト以来、ずっと衛星軌道上で眠り続けていて、事態を何も知らない。映画の視聴者である僕とシンジは、作品の中でほとんど同一の立場だった。当然、意図されたものだ。シンジに向けられる言葉は、視聴者である僕に向けられるし、シンジの感じる理不尽は、そのまま視聴者である僕の中に生まれた。
「破」であれだけポジティブにシンジを送り出しておいて、誰も彼も説明一つせずシンジを詰り倒す。意味もわからん単語を吐き散らし、意味深で思わせぶりに振る舞っておきながら何一つ上手くいかない。シンジは失敗したらしい。それならそれで良いさ。じゃあ何が成功で、誰が成功するんだよ。別にシンジが英雄である必要はない。見ている側を気持ちよくさせる要素がその世界にとって害悪であったと暴き出しても構いはしない。しかしそれがなぜダメで、どうするべきなのか説明しなきゃ意味ねえだろ。煙に巻いてりゃそこに何かを見出して勝手に納得したり高尚扱いして貰えると思ってんじゃねえよ。
ただ一人優しさを見せてくれたカオルは「槍でやり直す」などと親父ギャグを打ちながらシンジの目の前で爆死してトラウマの拡大再生産を始めるわ、二進も三進もいかなくなったシンジは当然のように周囲の制止を無視するわ、怒鳴り散らすアスカにほれ見たことかという態度でまた罵倒されるわ。
失敗を描くためにキャラを愚かにするそれは、完全に馬鹿の書く脚本そのものだった。僕は心底、呆れ果てた。あれを「これこそがエヴァだ」などと祭り上げる向きすらあり、それを見てついに絶望した。
そうでございますか。「これがエヴァ」ですか。それならそれでよろしい。僕はエヴァの客じゃないんだろう。同時に、庵野の客でもない。エヴァを冠して馬鹿をくすぐり金を稼ぐ。これをやり続ける限り、庵野の作品は見ないと決めた。
遠くないうちに公開されるはずだった続編は延期につぐ延期。僕は鼻で笑っていた。「Q」を思い出せば、話に収拾を付けられないだろうことは明白だった。
いつしかシンゴジラが公開された。随分と好評だったが、僕は結局見なかった。公開前、劇場で見た予告編。恐慌を起こし、逃げ惑う群衆だけを映して「匂わせる」そのやり方が「Q」を思い出させ、腹立たしかったから。
とうとう公開が決まってからも、コロナで延期。ただ、流石に2020年にもなると、もう「Q」の記憶は薄れていた。興味もさほどなく。僕にとってエヴァは、「どうでもいい」作品だった。
次の公開日に決まった2021年の正月はそれこそコロナ第三波の猛威ただ中で、当然の再延期。この辺になって、流石に気の毒になってきた。
そして、3月。とうとう公開された。見る予定はなかった。言及すら、する気はなかった。周囲から見に行ったの行かないの、面白かっただの終わったから見に行けだの、そういう話を聞きながら、まあアマプラに配信されたら見るかなーなどと、気のない返事を返していた。
4月に入り、コロナ第四波が猛然と押し寄せ、大阪を中心に関西の医療は大打撃を受けている。東京も緊急事態宣言解除前からじわじわと検査の陽性者が増えていて、明らかに状況は悪い。極力、外に出たくない。そんな中で、街に出る予定が出来てしまった。どうせ出るなら映画も見ちまえと上映スケジュールを確認すると、そこにエヴァがあった。もうこれで良いやと、チケットを購入した。「Q」のことも大して覚えてなかったが、見返したらあの時のイライラが蘇ってきそうだったので、そのままに。
だから、「シン」が「Q」や「序」「破」と比べて、内容的にどうだったかを語ることは出来ない。
ただ、映画としての「シン」の感想を言うなら、明らかに完成度は低かった。
ド派手なアクションと、パソコンの演算能力を自慢したいのかと思うような過剰なオブジェクトの波で映像を揺らしながら、一方でキャラクターたちは入れ代わり立ち代わりひたすら説明セリフを並べ立て続ける。「Q」の時とは真逆で、しかし成長していないなと思った。セリフってのは見てる僕か、その場の誰かに理解させなきゃ意味ないんだよ。その場みんなが知ってることを確認している様を映したって、見てる人が場の空気に飲まれて分かったような顔してくれるわけじゃないんだ。また少し呆れる自分を意識しながら、しかし作品世界に確かにある違いに気付けないほど、僕はエヴァを拒絶してはいなかった。9年の年月のおかげと言えるかもしれない。
赤ん坊。農作業。ケンスケとアスカの疑似的な親子関係。言葉を教わる綾波。虐待にしか見えないものの、アスカがシンジに食事を取らせるシーンも、そうだ。
そこには、「育み」があった。誰かを育むことで、自らをも成長させる。そんな生命の営みに対する、極めてポジティブな情景があった。
トウジが自宅の酒盛りで吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているのを聞いて、僕にはなんとなくこの第三村で、制作陣のやりたかったことが分かった気がした。
この歌は1974年に作られたものだ。エヴァの舞台である2015年、「Q」の2030年あたりは勿論、テレビ版放送時の1995年から考えても、明確に過去の歌である。であるのになぜ、ここで歌われるのか。トウジやその家族、あるいは委員長の家庭にフォークファンがいたから? まさか。設定としてはそういうのがあるかも知れないが、そうじゃない。この歌は「親世代の曲」なのだ。二十世紀末にエヴァを見ていた、当時の子供たちにとって。もしかしたら当時エヴァを作っていた、若者たちにとっても。そしてこれまでのエヴァにおいて、「親」というのはただならぬ意味を持っていた。理不尽で、身勝手で、自分を振り回す。なにやら深慮を巡らせ、しかしそれを説明してくれることはない。言う通りにできなければ、自分をぶつ。なじる。責め立てる。「親」は「敵」だった。「Q」においても、それは同じだった。ただ立場が変わった。制作陣は「親」になっていた。視聴者を「子」に見立てて、制作陣は僕をぶった。「大人になれ」となじった。なんでも説明してもらえると思うなと責め立てた。それは教育のつもりだったかもしれないが、実態は虐待の再生産だった。
だが、「シン」では違った。きっと、何かがあったのだろう。何があったのかは知らないが、とにかく「シン」においては、これまで描いてきた「親」と「子」の関係性をやり直そうとした。そのための施設が、第三村だ。
第三村が象徴するのは戦後の日本だ。全てがぶち壊されたところから這い出して、寄り添い、集まり、生き延びてきた。後ろ暗いこともやったとトウジは語る。ガキのままじゃいられなかったと。そうだろう。そんな過去を生きながらしかし、彼らは、彼女らは、僕たちの今に通じる世界を残してくれた。過去のことなど考えなくても良いぐらい、豊かな世界を築いてくれたのだ。
それを描くために、第三村は在った。それを知るために、シンジたちは村に入った。ともに畑を耕し、村の社会を構成する一員として生きる中で、「人生を語ら」ない大人たちを知る。子供を育みながら、その行ないによって、自身を育てる。
ここに至って、ようやく。「親」は「子」の敵ではなく。「子」は「親」のお荷物ではなく。共に生き、共に育つ対等な存在であることが、確認されたのである。
これを告げられて、僕にそれを寿ぐ以外のどんな行動がとれようか。
気付けて良かったねと、そう言うしかないではないか。
先ほども書いた通り、映画としての完成度は低い。説明に説明を重ねて上滑りする脚本。そもそも説明を放棄したいくつもの固有名詞。それらが入り混じる会話劇は、聞くに堪えない。特にヴンダーの上でシンジがエヴァに乗るの乗らないのを言い争うシーンなど、今思い出しても笑えるほどにお粗末だ。
常に展開に追われ、時間に急かされながら、「話を終わらせるために、せめてこれはやらなければいけない」と書き連ねたチェックリストを埋めていくだけの作業に、演出の魔法を掛けたのがこの映画だ。しかし、それでも。そうなると分かっていてもなお。短くない時間を使って第三村で「親子」の再構築を描いたことを、僕は祝福したい。あれなしに、終盤のゲンドウとシンジの(ある種の)和解を描いても、それこそ説明不足で付いていけなかっただろう。
「エヴァの呪い」を受けた事のない僕には、それがどんなものかはわからないが。少なくともこの映画は「親になってしまった子供」を、その呪いから解き放った。