宇宙よりも遠い場所

「何もない一日なんて、存在しないのだということ」

 

マッドハウス制作のオリジナルテレビアニメ「宇宙よりも遠い場所」を最終話まで見終えてから、二週間が経った。(別に時間感覚を喪失してるわけじゃない。書き始めた時はまだ二週間しか経ってなかったんだ。)未だに僕はこの作品にブチのめされていて、満足に立つ事も出来ない。何も手につかない。体が麻痺してる。それでも、僕は立って、踏み出さなければならない。この作品は素晴らしかったんだと、心に刻んでおくために。この作品は無駄でなかったと、僕自身に示すために。

そのために、まず。この文章を書き上げようと思う。

「宇宙よりも遠い場所」は、オリジナル作品だ。それも頭から終わりまで、1クールのテレビアニメとして設計され構築された、「13話完結の連続テレビアニメでなければならなかった」物語だ。その練りこみは凄まじいものがあった。「毎話盛り上がりがある」「始めた話はその尺の中でケリをつける」だけじゃない。そんなものなら、一話完結の物語を作れば良いという事になってしまう。この作品は歯切れの良さを残しながら一つの大きな物語を描くにあたり、1話1話のエピソードの繋ぎ目を、大胆にも作中に放置した。

コンビニ店員としての三宅日向。

資金集めの手段としての白石親子。

まず姿を描かず声だけが登場し、次の話では逆に顔だけ出して喋らない藤堂吟。

非常に明確な導線。カメラが追いかける少女たちの物語とは別の場所、別の位相でも、確かに事態は同時進行している事の示唆。(余談になるが、「外を懸命に覗く」「ひっそりと同じ車両に乗り合わせて様子を窺う」「意を決して車から降りる」と、誰もがその登場シーンで「外」にアプローチしているというのも、この物語を貫く大きなテーマ、「踏み出す」への帰結を感じさせる演出だ。)「おや、誰か出てきたね。話は一旦ここで終わるけど、次どうなると思う?」と、見ている人間に投げかけ、考えさせ、次の物語を待ち望ませる。これは本編中に存在するパターンだけでなく、本編終了後、ほんの数秒のティザームービーを使ってやっている事もある。単話としての完結感を強く残した話、本編の独立性が高い話で特に顕著に、思いがけない人物や描写が登場しているように思う。ここの配分まで計算してあるのかどうか、そこまでは分からないが、ともかく。これは映像を垂れ流し、内容を大まかに伝えてしまう「次回予告」を本編直後に流してしまっては果たせなかった事だ。そして、非常に大切な事。この物語の製作陣は、絶対に翌週、その期待に応える。「続きはまた来週」と締めておいて、いつまで待っても続きを話してくれないようでは誰もついて行くことはできない。期待させ、応える。それを繰り返す事で、信頼が生まれる。(えげつないのはそのやり口で、このアニメは一週間かけてこっちが想像した「次回」を放送前日に予告を流す事で軌道修正させ、受け入れ態勢を整えさせた上でぶち込んで来るのだ。ナレーションが最終回以外ふざけまくっていたのはそこで得られる情報さえ可能な限り制限しようとしていたに違いないと僕は今でも思っているし、最終回だけ真面目なトーンだったのは最後の落ちを隠蔽するためだったと確信している)

語り部と聞き手の原始的で刺激的な信頼関係を、この作品は意識的に作っている。これは、第一話最後で為されるキマリと報瀬の会話「どうやって行くつもり?」「知りたい?」という会話からも明らかだ。どうやって行くのか。それはまさに僕の側、見ている人間の側の問い掛けであり、このアニメはその問い掛けにニヤリと笑いながら、種明かしを翌週に回す。期待と不安に包まれながら聞かされたその作戦は余りにも杜撰で、当然成功するわけもなく。その上でなお少女たちはあくまでもポジティブに前へ進もうと動き続け、何よりもその「前へ進む」という行為そのものによって、失敗の中で目的を果たす。

 

当たり前の話をするが、この作品はフィクションだ。別にこの当たり前の前提は、「現実はそんなに甘くない」という批判への盾じゃない。「そんな事分かってる、でも一旦忘れようよ」という現実逃避の御題目じゃない。ではフィクションが意味することは何か。

フィクションである事の本質的な意味。それは、端的に言うならば「キャラクターのために雨を降らせる事が出来る」というものだ。

現実世界において、天候はとてもとても、人と連動しているとは言えない。僕が泣こうが笑おうが、空はいつだって自由気ままだ。

しかしフィクションでなら、出来る。「キャラクターの感情」を表現するために、作者は空から雨を降らせたり、逆に嫌味なほどの快晴を用意できる。老いた魔道士のために、再び見られないと思った恐るべき力で応える事ができる。

これがフィクションだ。空だけじゃない。すべての事象を操作できる。それこそが、フィクションという前提が持つ本質的な意味であり、フィクションへの「リアリティ」という評価がチェックする領域だ。何故全てが自由で、槍でも火の玉でもピラミッドでも自在に降らせる事が出来るフィクション世界において、「リアリティ」が言及されるのか。それは、その全能の力がなんの意志も矜持もなくただ混沌に渦巻いているのではなく、明確なる作者の想いを乗せて、何らかの「テーマ」を表現するために振るわれるはずだと、他ならぬ僕が信じるからだ。「因果応報」。余りに膨大で複雑に絡み合った現実世界では確認しきれないこのルールが、物語の世界では観測できるはずだと、誰あろう僕が願うからだ。

 

前置きが長くなった。ともかく、画の積み重ね、音の調べ、それによって紡がれる話、そのすべてを撚り合わせた物語の中から、「テーマ」という背骨を見出す。物語が現実の物理法則を無視しようが法道徳を犯そうが、絶対不可侵を貫くもの。物語世界の内容物全てが、そのもののために存在していると呼べるもの。それが「テーマ」だ。

この作品のテーマは、「踏み出す」。この世界では、人が踏み出せば、絶対に状況が変わる。

台詞によって、ストーリーによって、背景によって。明に暗に、徹底的に突き詰めて描かれるこの「踏み出す」は、この作品を通して、世界をぐるぐると廻し、少女たちを次のステップへと誘う。その足取りが余りに軽やかで、その結果が余りにも美しくて、ともすれば、「踏み出せば上手くいく」というメッセージとして、受け取ってしまうかもしれない。

しかし、そうではない。そうであれば、この物語はそもそも成立しない。この作品において「踏み出す」事は絶対に無為にならないが、その踏み出した先、足の踏み場は保証されていない。

報瀬の母小淵沢貴子は、自身と仲間たちの夢に向かって進み始め、何かを掴もうとした矢先、ブリザードに飲まれてそのままあっけなく逝ってしまった。

日向との間に断絶を作った陸上部の少女たちは、どのような意図か明確にはされていないものの、ともかくその断絶を修復しにきたが、日向の親友の手で断ち切られた。

この二つの滑落は、第八話の「大時化の船外」と、第五話の「絶交」という、それぞれに対応して存在する「成功例」によって大きく浮き彫りにされる。しかしそのレリーフは、彼女たちのうち誰が正しくて、誰が間違っているのかなんてことを、描き出したりはしない。誰かを断罪したりはしない。

夢を追う事が即ち成功を意味する世界なら、貴子が死ぬ事はなかっただろう。夢を追う時少しでも躓けば死ぬ世界なら、少女たちは波に飲まれてその姿を消しただろう。

人を傷つける事が取り返しのつかない事と等しいなら、「絶交」は果たされていただろう。右手で頬を打ちながらでも差し出した左手が必ず握り返されるなら、少女たちは許されていただろう。

この世界はどれでもない。何故だ。簡単だろう、そうする事なんて。貴子が実は生きてた。日向が同級生を許す。怒るキマリの後ろで崩れ落ちるめぐみ。報瀬の啖呵に醜く狼狽する様。わかりやすい「勧善懲悪」「めでたしめでたし」に落とし込む事なんて、楽勝だろう。何故そうしない。

それは、この作品に登場するキャラクター全員を、見ている側、作っている側と同じ人間として描いているからだ。

吹雪に飲まれて死んだ人も、高波を被って笑う人も。泣きながら断絶を望む人も、笑いながら復縁を求める人も。

そのどれもが、人を映す鏡だからだ。

これこそが、この作品の端倪すべからざる部分である。この作品は断罪しない。「あいつが悪い」「お前は正しい」なんて事は描かない。踏み出した足が地面を掴めるかどうかは、この世界の関知することでない。あくまでも各キャラクターの、あるいは見ている側個人の「私」によってしか判別されない。相手が何を思っているかなんてことは、「思い込み」に過ぎないと、描写でも、台詞でも、全力で伝えている。それほどまでに、この作品における「他者」の扱いは重い。

第一話、上級生に絡まれた報瀬に対しキマリの送る合図は、「わかるわけないでしょ」と切って捨てられる。

第三話、「友達を作りたい」と言う結月にハグをしながらキマリの発した「わかるよ」という共感は、「わからないですよ」と撥ね除けられる。

第五話、己の行為を懺悔するめぐみにキマリはただ「なんで?」と問い続け、その答えはめぐみ自身「知らねえよ」としか言いようがない。

第六話、パスポートを無くした日向に便を遅らせようと提案する報瀬の言葉は「気ぃ遣われるの嫌なんだよね」と拒絶される。「気なんか遣ってない」という否定すら、日向にとっては気遣いでしかない。

具体例を挙げ始めれば、キリがないほどに。この作品は何度も何度も、「他者」の独立性、人と人の間の断絶を強調する。「手を伸ばせば繋がれる」なんて楽観主義の絵空事は通用しないと断言する。でもそれは、「所詮人間は他人を理解する事が出来ない」というような虚無主義ゆえじゃない。それを理解した上で、それでもなお自分は相手を理解していると「思い込む」事。絶交を告げて去ろうとする相手をそれでも抱きしめる事。自らへの制止を全力で拒否し、それでも握られた腕を振り払わない事。送ったメッセージが既読スルーされてさえ「わかるんだよ、どんな顔してるか」と言ってのける事。掴めないと、出来るわけがないと、「行けるわけないじゃん」と言われてもなお、「踏み出す」事。それこそが、相互理解である。楽観でも虚無でもない。なんて実践的な理想だろうか。

そこまでやった上で、この作品は、なんとまだ終わらなかった。「残念だったな」。これほどまでに的確なワードが存在するなんて。そうだ。結局「わかる」なんて思い込みでしかない。人の想像力なんて、現実を覆いつくすには貧弱すぎる。どれだけ思い込んでも、他者はその壁をぶち壊して思いもよらない事をやってのける。だからこそ他人と通じ合うのは面白く、大切で、尊いんだ。「なんでー!」と言える事こそが、人間が誰かと関係を持つ事の意味なんだ。

このアニメが、人間関係の再接続という行為に対し成功と失敗という異なる二つの結果を描くのは、そこに普遍さを映し出すためだ。僕たち自身も、いつ取り返しのつかない失敗をしてしまうか知れない。その失敗が余りに痛くて。その失敗が余りに辛くて。「怖くて、辞めちゃいたい」と、そう思ってしまっても。それでも、「踏み出す」べきなんだ。その一歩こそが、君を「宇宙よりも遠い場所」に連れて行ってくれるんだ。