人知れず傷ついた、己を守るため嘘をついた、そしていつしか音楽に辿りついた、全ての人に。『ふつうの軽音部』感想

「ももちゃん 私……軽音部に入るよ!」「うん しってる」

 

『ふつうの軽音部』は、2024年1月に少年ジャンプ+で連載を開始したマンガ作品だ。

僕は連載開始の直後からこの作品のことをいたく気に入っており、折に触れて面白い面白いと言ってきた。どうやらそう思っていたのは僕だけではなかったらしく、「次に来るマンガ大賞2024」ではWebマンガ部門1位を受賞。「このマンガがすごい!2025」ではオトコ編2位に入賞と、2024年のマンガ賞レースを賑わせ続けた。最近では伊集院光がラジオでこの作品に言及するなど、世間的な注目度も増してきているようだ。伊集院光が何者なのかはよく知らないが、多分有名な人なんだろう。

このマンガで描かれるのは、大阪の高校へ進学した少女・鳩野ちひろが一念発起してギターを購入し、軽音部でバンドを組んで演奏に明け暮れる青春模様だ。

こんなあらすじを聞かされると「なんてありきたりで面白くなさそうなあらすじなんだ」と思う向きもあるだろう。僕がそうだ。他人にこの作品の概要を伝えようとしたとき、自分の口から出る言葉があまりにもつまらなさそうで喋りながらビックリしたことがある。

だが、この作品は面白い。「要約」をすると漏れてしまう部分に、この作品の面白さが詰まっている。ということで、ここでは「このマンガは面白いのか?」という話はしない。それは読めばわかることだ。ここでは、「このマンガはなぜ面白いのか?」という話をする。これは、非常に難しい。なぜ面白いのかをかいつまんで説明しようとすれば、それは作品の要約となってしまう。そして、どれだけ狙いを定めて要約しようとしても、この作品全体に揺蕩うように存在する面白さを大きく毀損してしまうのは明白だ。

とは言え、「要約できない」というその構造自体がこの作品の面白さを理解する助けとなる。結論から言ってしまえば、以下にあげるような面白さを、何十ページも掛けて、何週にも渡って、いくつものコマにまたがって断続的に描いているからこそ、この作品は面白いのだということになる。これは絵解きの面白さであり、ある種のミステリ的な楽しみ方でもある。

この記事では「『ふつうの軽音部』はなぜ面白いのか?」の答えそのものを取り上げることはできないかもしれない。しかし、そのヒントにはなるのではないかと思っている。

『ふつうの軽音部』をまだ読んだことがないよ、と言う人は、ジャンプ+にて冒頭8話が無料公開されているので、一度そこまで読んでみてほしい。8話まで読んで面白く感じなかったら、この記事に戻ってくるのも良いだろう。僕がこの作品をどう楽しんでいるのかというのを知った上で読めば、また感想も変わってくるかもしれないから。

ではさっそく、本作がなぜ面白いのかについて言及していこう。

キーワードは「見えない傷」「気付かない嘘」そして「暴き立てる音楽」だ。

 

①見えない傷

 

現実の僕たちがそうであるように、この作品のキャラクターたちはみな傷ついている。誰も理想の人生を歩んではおらず、挫折や屈折を抱えて生きている。

しかし、キャラクターたちはその傷をおいそれと他人には見せない。それどころか、他者に対してはまるで自らに傷などないように振る舞う。たとえば、主人公である鳩野ちひろは中学時代に両親が離婚し、母親とともに大阪へとやってきた。そのうえ、転入した中学校でカラオケ中に披露した歌声を笑われ、深く傷ついた。だが、1話~7話までの鳩野は、そのようなそぶりをほとんど見せない。自らを「陰キャ」と称し、活発でフレンドリーな同級生・内田桃を「陽キャ」と称する、他人にも自分にも類型的な判断をおこなう鳩野を見て、当然のように読者もそう認識するだろう。「ああ、“陰キャ女子”がバンドを始める系の作品なのね」と。「“アレ”と“ソレ”を混ぜたようなマンガなのね」と。

だからこそ、読者はこのマンガのキャラクターたちがその内に隠す、人知れぬ傷の生々しさに驚かされることになる。その傷は、たとえば一族郎党を皆殺しにされたというようなものではない。たとえば幼い頃に育った村を焼かれたというようなものではない。そんなドラマチックな悲劇ではない。地に足の着いた、日常の中でいくらでも起こりうる、お茶の間レベルの傷だ。だからこそ、読み手にはその痛みが分かる。まるで我がことのように、キャラクターの痛みに共感することができる。

僕たちは生きながら、人知れず傷ついている。それは、他の誰かから見れば些細な問題かも知れない。それは、他の誰かから見れば贅沢な悩みかも知れない。主観的に見ても、この世の終わりのように嘆き散らすものでは到底ない。そんな傷は、誰にだってあるのだから。誰だってそんな傷を抱えて生きているのだから。だが、たとえ誰しもが傷ついているからと言って、傷つくことの痛みが消えるわけではない。その傷が、蔑ろにされていいわけではない。

同病相憐れむという言葉が示すように。僕は人知れず傷ついているからこそ、この作品の中でキャラクターたちが垣間見せる傷に心を打たれるのかもしれない。その傷が癒されて欲しいと願う。いつか、自分自身の傷が癒える未来を重ねるようにして。

 

②気付かない嘘

 

現実の僕たちがそうであるように、本作の登場人物たちは嘘をつく。しかも、ただの嘘ではない。彼ら彼女らはモノローグを通して、読者もろとも自分自身をも欺こうとするのである。

軽音部の部活紹介中、ボーカル志望の青年が楽器をやりたくないという理由で部室を後にする場面がある。その場で鳩野の発するモノローグは「ボーカルなんて私は絶対やだけどなぁ…」というものだが、この発言が嘘であったことは、後に鳩野自身が「私はずっと自分にも嘘をついていました」というセリフとともに明言される。

鳩野の同級生であり作中内バンド「Sound Sleep」のドラムを務める内田桃は、自身のバンドメンバーとの間で恋愛にまつわるいざこざを引き起こした少女・藤井彩目と遭遇した際「藤井さんに対して恨みとかモヤる気持ちとかそういうのは一切ないからなあ…」というモノローグを発する。明らかに嘘である。これもまた、後に軽音部を退部しようとする彩目を止める相談の中で「私も前は思うところあってんけど…」と前言を翻している。桃はほかの場面でも読んでいて明らかに無理のあるモノローグを発することで自らにその内容を言い聞かせている節があり、文化祭後のエピソードではまさにその「自分に言い聞かせて気持ちをごまかす」という行動が、単に問題へと蓋をして先送りにしているだけなのだということを自覚してしまう展開が存在している。

そうかと思えば、モノローグすらない無表情の一コマが後に効いてくることもある。代表例は彩目が桃にバンドへと誘われるワンシーンで、リアルタイムで読んでいた時にはどういう感情なのかを汲み取ることがなかなかに難しい場面だったのだが、先の展開を知った状態で読めば彼女が何を思ったのかは手に取るようにわかるはずだ。

記事の冒頭でこの作品の面白さについて「ある種ミステリ的な楽しみ方」が存在すると語った。そのもっとも分かりやすい形が、この「気付かない嘘」にあると言える。ミステリの序盤で、キャラクターたちがおこなう一見すると何気ない会話。さりげない行動。読者はその裏に存在する真意やひっそりと進行する事態に気付くこともなく、突如として破局が訪れる。そして、絵解き役たる探偵が事件の裏側と真相を詳らかにして初めて、序盤におこなわれたやりとりの本当の中身を理解することができるようになる。

幸か不幸か、本作に名探偵はいない。話の流れを整理し、どこに不整合が存在するのかを提示してくれる助手もいない。作者の用意したミスリードを丁寧に踏み抜き、「絵解きを間違えた時どうなるか」を実演してくれる警部もいない。それゆえに読者の認識が統一されない。これは特に恋愛関係の描写において顕著である。

「鳩野と水尾春一は恋仲になりえるのか、なりえないのか?」

「桃はまだ初恋に至っていないだけなのか、それとも恋愛感情を持たないアロマンティックなのか?」

SNSを見れば、この作品に登場するキャラクターたちの「将来の恋愛」に対して、読者があれこれと妄想をたくましくしている様子を見ることができる。だが、各々「こうであろう」と判断をしているものの、作品に対してそういった要素の正誤を確定させる存在はいまのところ居ない。キャラクターを安易に記号化することなく、複雑で判然としない一個の人格として扱い続けている。このスタンスが、作品を読んでいる間の心地よさと、物語が進んでから再読した時に「この描写こういう意味だったのか!」という思いがけない驚きを生み出すのだ。そのお陰で、僕は何度も何度もこの作品を読み返している。

本項で取り扱っている「気付かない嘘」とは、人格が持つ底知れなさの象徴なのかもしれない。

 

③暴き立てる音楽

 

そしていよいよ、この作品の目玉であるところの音楽が登場する。

当たり前の話だが、隠された傷に人は無頓着だ。気付けない嘘は真実と見分けがつかない。その傷がそのまま隠されていては、その嘘に誰も気付けなければ。物語は始まらない。誰もが傷つき、誰もが嘘をつきながら、表面を取り繕ってふつうの人生を歩むだけだ。

この作品を現実から飛翔させ、物語として成立させる最大のコア。それが音楽である。音楽を聴いた時、人は自らの傷と向き合う。自分自身の嘘に気付く。

そして、音楽の演奏・歌唱やその詩の力によって、自らの傷を少しだけ癒す。自らの嘘による呪縛から少しだけ抜け出す。

無傷になるわけではない。あらゆる嘘が拭い去られるわけではない。理想の世界が到来するわけではない。

それでも、ほんのわずかでも。傷が癒え、素直になり、世界とポジティブな関係を結べるようになる。

これは作品として非常に強調されてはいる。鳩野が演奏や歌唱を始めるたび、聞き手であるキャラクターたちが揃って回想を始める様は、読み手によっては違和感や笑いを誘発する部分かも知れない。しかしそこで描かれているものはまさに僕が、そして恐らくは多くの人が体験したであろう、音楽の効能ではないだろうか。時に「救い」と表現されるような、芸術の持つパワーではないだろうか。

音楽の持つパワーと、そのパワーによって少しだけ救われる人間の姿が、この作品には溢れている。僕はこの作品に登場する邦楽のほとんどを聞いたことが無かったが、その体験に覚えがあるからこそ、全く知らない音楽であっても、誰かの傷を癒し、誰かの心を軽くして、誰かの背中を押すのだということに強い説得力を感じるし、そのちいさな救いを描き取ろうというこの作品の真摯な歩みに感激してしまった。

 

これら3つの要素が入り混じることで、『ふつうの軽音部』は一言では言い表せないキャラクターたちと、先を知ってから読み返すことで意味合いの変化する複雑かつ芳醇な内容、それでありながらも多くの読者を混乱させすぎず、その心を打つ普遍性を備えているのではないかと僕は考えている。今後、この作品がどのように進行していくのか、また「マンガ賞の選考者受け」という範疇を越えて大きく広がっていくのか。それは分からないが、僕は2024年の間ずっとこの作品に夢中だったし、これから先も目が離せない。

もちろんキャラクターたちのやりとりの面白さやとにかくコロコロと変わる表情の可愛らしさなど、今回取り上げなかった要素もふんだんに詰まっているので、そういった部分にも注目しながらこの作品を読んでみてほしい。

この世界の片隅に

「あの頃は平和の軍縮じゃー言うてお父さんも周りの人も大勢失業して大ごとじゃったよ。大ごとじゃ思うとった……大ごとじゃ思えた頃が懐かしいわ」

 

こうの史代原作、片渕須直監督、のん主演「この世界の片隅に」を見てきた。クラウドファンディングで資金を集め、6年かけて製作されたアニメーション映画である。

僕がこの作品の存在を意識したのは、実に最近の事だ。何せ「映画のPV」から知ったのだから。だけど、触れた瞬間にもう、この作品は僕の脳を握り締め、その存在を刻み込んでいった。僕は即座に――なにせコミックスが売り切れていたために電子書籍で入手したので、文字通り即座だ――原作を買って読み、確信を得た。この作品を、全編に渡ってPVの濃度で描いたならば。それは傑作でしかあり得ない。

果たして。その確信を、うず高く積まれた僕の期待を、この映画は遥かに飛び越していった。

この作品は、第二次世界大戦末期、広島から呉へ嫁に貰われた少女すずが、如何にして生きたかという日々の生活を描く。そう、この作品は「日常もの」アニメである。

この評価に、違和感を覚えるだろうか? 他の「日常もの」作品と比べて、何かが違うと感じるだろうか?

ではここで、「日常」について考えてみよう。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。しかし、当たり前の話だが今日と昨日は同じものではない。昨日があるから今日があるのであって、今日があるから昨日があるわけではない。ならば「昨日と同じ今日」とはなにか。それは「今日を今日と意識しない」状態である。今日を今日と意識しない状態は、当たり前だが今日を今日と意識しない限り、意識されない。当事者の日常は「喪われることで初めて」その存在が確かにそこにあった事を示すのだ。その日常を喪わせる出来事は何でも良い。それが何であれ日常でないならば、それらは常に唐突に、今日を今日にする。日常が破られ、そして、驚くべき速さで「それら」を取り込んで、今日は霞んでいく。人が知らぬ間に眠りにつくように、日常は知らぬ間に帰ってくる。いつかまた、他の何かに破られるその日まで。

そう。「日常」を描くためには。「破られる前の日常があり、それを破る出来事があり、そしてその出来事を取り込んだ、新たなる日常がある」という、日常の破壊と再生というサイクルそのものを描かなくてはならない。破られない日常は、描く事ができない。光のない世界で闇を描くことが出来ないように。

作中で、すずという少女の日常は、事あるごとに破られる。そしてすずは、その破られた日常を時には縫い直し、時には布を当て、また時には穴の開いたまま、新たな日常として受け入れる。日常の、破壊と再生。何が起きても日常は変わる。その一方で、「日常が変化し続ける」ということは、変わらない。数多の作品が、描かなかったもの。あるいは描かんとして成し得なかったもの。「破られない日常」だけだったり、「破られた日常」だけだったり、という片手落ちでない、「積み重ねる」という行為そのもの。これこそが、「日常もの」と呼ばれるに相応しい作品だ。

 

ここまでは、「原作」の評価だといえるかもしれない。アニメとして、映画としての良さ。それはしかし、やはり「日常を描いている」というものだ。このアニメ映画は、原作と分離独立して存在するものではない。だが、原作ありきでなければ味わう事の出来ないものでもない。原作を内包し、その描写表現を色彩と、動きと、そして何よりも時間の不可逆性を以って増幅している。アンプのついたギターが奏でる音のような存在なのだ。ギターから発された音が、電気信号に変換され、その信号に基づいてスピーカーから振動が放たれる。その一連の流れこそがこのアニメ映画だ。一方で、僕が受け取るのはやはり、「大きな音」であり「ギターと同じ音」でしかなく、しかしそれは単に「音が大きかった」とか「ギターと同じ音だった」とか、そういった言葉で到底言い尽くせる物ではない。その表現で間違っているわけではないが、明らかに不足しているというこの感覚を説明するには、こう考えるのが一番なように思える。即ち。この映画は、体験であった。

逆流主婦ワイフ

「大事なものはちゃんと」「戻ってくるから大丈夫」

 

イシデ電「逆流主婦ワイフ」(全二巻)を読んだ。素晴らしい。話の性質上、そして漫画本としての性質上、中身や登場人物について語る事は避けるが、ただ明るいだけでなく、ただ悪いだけでなく、ただ高慢なだけでなく、ただ馬鹿なだけでなく。二面性(というか、多面性)というものは決して特別なものなどではなく、何処にでもそして誰にでも存在するのだという、ともすれば蔑ろにされがちな、また時に「闇」などという漠然としたレッテルの中に押し込まれてしまうような、ある種アタリマエでありフヘンであろう事を描いている。表現として語弊がある事を承知で書くが、僕にとってはこのような漫画こそ、王道的な短編漫画であると言えるだろう。

この漫画が打ち切られてしまったというのはとても残念だ。後書きにも構想として触れられていたが、せめてもう一冊、この空気に触れていたかった。だけど、気に病むことはない。僕は作品を作者で読む。良い作品を見つけたのだから、次はこの周辺を掘っていけば良い。幸か不幸か、単行本としてはあまり冊数もないらしい。まあ、noteなるサイトで見た「私という猫 第三部」から噴き出すように漂っている、不穏な空気、不安な感じがなんとも(テーマが野良猫である分特に)腰が引けてしまうので、凍った湖の上を歩くように少しずつ少しずつ、足の踏み場を確かめながら、この作家の作品に触れていこうと思う。

 

 

聲の形第三巻

“私”“声”“変”? 「うん・・・」

 

やっぱコイツの漫画の描き方おかしい(褒め言葉)。

植野が鞄から尻尾取り出したシーンでもう目が釘付けになってたのに、次のページ大写しでネコ耳装着とか、やばいよ。どういう発想だ。

昔仲良かった少女が仲違いして疎遠になってからもまだ少年の事が好きだった、って書くとすごいテンプレなのに、料理の仕方が違うのだろうか、ページをめくるたびに驚きがある。そうだな、むしろありふれた設定を使っているからこそ、違いが際立っているのだろう。

書いてて思ったが、これ構図としては「石田と西野」と「植野と石田」は同じなんだな。当人はまったく気づいてないけど。

昔一緒になって苛めてた仲間が、よりにもよって苛められっ子に奪われて泣いちゃう植野がとても可愛い。嫌いと明言されて、でも昔みたいにバカみたいな罵り合いが出来ただけで笑顔を取り戻してしまうのだ。いじらしすぎる。多分報われない。悲しい。

 

そして、三巻のトリを飾り、それまでの全てを吹っ飛ばした二十三話。

「うき」「ちゅき」を月だと認識するのは、まあ良い。ちょっと面白かったし、妥当な発想でもある。だが頭上の月を見て「ああ、キレイだね」は反則だろ。ずるい。ズレてるのに噛み合い過ぎている。しばらく笑いが止まらなかった。

聲の形第二巻

「死ぬために稼いだお金なんて使いたくないもの」

 

「マルドゥック・スクランブル」のコミカライズでデビューした大今良時の初オリジナル作品。

一巻を通して描かれた、リアル感のあるいじめ描写。障碍者がいじめられる、という点よりも、いじめっ子が一転していじめられるようになり、友達だと思っていた連中が態度を一変する流れがとても印象的だった。

死のうとする主人公も、結果は想像できるが過程を思い描くほどのリアリティはない、ふわふわとした現実認識が実に現代の若者らしくて良かった。

二巻では、西宮と再会した石田が、その再会を機に再び変わっていく様子が描かれている。

彼を取り巻く人間関係も、それと同期して変わっていく。

いじめていた相手とその身内。母親。新しくできた友達。

そして主人公は死のうという決意から、生きている限り西宮のために命を使う、と決意を新たにする。ここも実に自分主体で、命の価値に対する葛藤がない。若者らしくて素晴らしい。若者なんて考えなしで、無鉄砲で、行き当たりばったりで、何かしては後悔して、なにもしなくても後悔して、きっとそれで良いのだと僕は思うから。

 

この漫画の特筆すべき点は親の存在だろう。

昨今に限らず、やはり少年漫画というものに親は不在がちだ。少年のアバターたる主人公にフォーカスを当て、その一挙手一投足を世界に影響を与えるレベルに肥大化させる。そのためには少年の支配者であり保護者であり指導者たる親の存在は邪魔になりがちだ。親は往々にして仲間や逆に庇護を受ける存在に落とし込まれる。良くて、主人公の成長を遠くから見守る程度だ。

だが、この作品は違う。息子のいじめが原因で二百万円近い賠償をさせられてなお、息子が文字通り死ぬ気で稼いだ金に火をつける母親からは息子に対する溢れんばかりの愛が感じられるし、娘への独善(なのかどうかはコミックス二巻の時点ではまだ描かれていないが、現時点での解釈で書いている)が一方的かつあまり適切でない過保護へとつながっている西宮の母親も、その行動が愛ゆえである事は察せられる。

だが一方で、この作品には父親が驚くほど登場しない。リアルな母と登場しない父。この辺りは、作者が女性であることと、この漫画の執筆に手話通訳者の母親が協力している事などが関係しているのだろうか。

 

僕がこの漫画を読んでいて好ましく思うのは、その展開の意外性だ。この二巻でも、西宮の妹が「自分は西宮と付き合っている」と主人公に告げたり、ネット記事を捏造して主人公を停学処分にしたり、あまつさえその直後遭遇して自分がやったと告白したりする。これが数話の間に詰め込まれているのだ。この怒涛の展開と、それをほとんど葛藤なく許容する主人公という存在が違和感なく描けている。僕はこれをとてもすばらしいと思う。

今後、石田を取り巻く人間関係がどう変化していくのか。この物語がどういう着地を見せるのか。続きがとても気になる作品だ。