「コミュニティの一生」が指し示しているものはなんだったのか。

発祥がどこかは知らないが、とにかく2ちゃんねるやニコニコ、twitterなど日本のSNSを今も漂流している「コミュニティの一生」というコピペがある。

面白い人が面白いことをする
↓
面白いから凡人が集まってくる
↓
住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める
↓
面白い人が見切りをつけて居なくなる
↓
残った凡人が面白くないことをする
↓
面白くないので皆居なくなる

とまあ、委細に違いはあれど概ねこのような内容のテキストだ。このテキストを読んで尤もであると今を嘆く人がいれば、同じようにこのテキストを読んで新規を排斥すればそもそも誰もいなくなるだろと反発する人もいる。賛否両論数あれど、ともかくこの数行のテキストが、衆目に晒しても風化しないだけの強い力を持っていることは否定しがたい。

しかし、このテキストは余りにも刺々しい。「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」これらの言葉が具体的には誰に当てはまるのか。このテキストを読んだ自分――世の常として、必ずどこかしらのコミュニティに属している自分――は「面白い人」として評価されているのか、「凡人」として糾弾されているのか。それを判断するにはテキストがあまりにも曖昧で、読んだ人間の心にさざ波を立てずにはいられない。その刺々しさ、人に波を立てる鋭さこそが、このテキストの存在感を保ち続けたという功績は確かにある(かくいう僕も、その鋭さ故に、このように文章を書いているのだから)。それでも、この言葉の棘が読む人をただ通り魔的に傷つけて、まさにその傷によってコミュニティ内部に不和を生じてしまう事態に繋がっているのはなんとも悲しいので、僕はこの言葉を解きほぐしてやりたいと思う。すなわち、

「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」

とは一体、何を意味した言葉なのか。

それを理解するためには、まず「コミュニティ」とはなんなのかという所を決めておかねばならない。僕の定義はこうだ。

 

「コミュニティとは、集合である」

 

どのような種類のコミュニティであろうと、ただ一人の人間しかいない場所にコミュニティは形成されない。二人以上の人間が、何らかの目的をもって「重なり合った場所」こそがコミュニティである。ベン図を思い浮かべてもらうのが分かりやすいかと思う。複数の円が部分的に重なり合った領域。それこそがコミュニティである。この円は必ずしも個人である必要はなく、コミュニティ同士が重なり合った場所に新たなコミュニティが生まれるという事も当然あるだろう。

さて、コミュニティの黎明期。コミュニティを形成する円は少なく、当然コミュニティ自体も小さい。そんな中で、所属する人が活動をするとどうなるか。小さいコミュニティでは何をするにも、コミュニティの外から何かを持ち込むしかない。遊ぶとなったら外からゲームを持ってくるし、話すとなったら外の話題だ。つまり、黎明期のコミュニティは何かにつけて、所属者が持ち込む「未知」に晒され続ける。この「未知」の流入が継続的に行われるかどうか、そしてその「未知」がほかの所属者に受け入れられるかどうか。それが、コミュニティの発展を決定付ける。

ここに、「面白い人」と「面白いこと」と呼ばれるものが存在する。「未知」であり、なおかつコミュニティに所属する他者が受け入れられる何か……それが「面白いこと」と認識され、それを持ち込む人が「面白い人」と呼ばれる。

ここで「未知」と呼ばれるものは、コンテンツに限らず、人の場合もある。そして往々にして、これは雪だるまのように、他のものを連鎖的に連れてくる。新たな人をコミュニティへ招けば、その人が「未知」のコンテンツを提供してくれる事がある。新たなコンテンツがコミュニティに拓かれれば、そのコンテンツを求めて「未知」な人がコミュニティを訪れる事もある。このようにして、「面白い人」が「面白いこと」をすればするほどに、コミュニティは「面白い」という事になるわけだ。

しかし悲しいことだが、人には限界がある。一個人が知ることのできる情報は僅か。他人に伝達できる状態に変換できるものは更に少ない。多くの「面白い人」たちは遠くないうち、コミュニティに「未知」を持ち込むことが出来なくなっていく。

同様に、コンテンツにも限界がある。どれほど面白い遊びでも、100回遊び、1000回遊び、と回数を重ねていくうちに、段々と「未知」ではなくなってしまう。

一方で、「未知」としてコミュニティに流入した人たち全てが、今までいた「面白い人」と同じように「未知」を紹介できるわけではない。アニメでも映画でも小説でも構わないが、その道のファン10人でなら、ひとりひとり違う方法で作品の面白さを他人に伝えられるかもしれないが、10000人を集めて一人一本、10000種類の語り、コンテンツを作ることは至難だ。たとえ集まったとして、それらを一つ一つ判別できる形で拾い集める事も容易ではないだろう。

このように、どこかのタイミングで、コミュニティに「未知」を提供できない人というものが出てくる。正確には、顕在化する。最初のうちは気付かなかった、気にするまでもなかった存在が、次第に多く、目に付くようになってくる。

コミュニティに所属する者が受け入れられるような「未知」をコミュニティにもたらさない存在。それがこのコピペで言われるところの「凡人」であり、「主張」や「面白くないこと」とは「既知」であるものつまりすでに陳腐化したコンテンツや、あるいは「未知」ではあるがコミュニティ所属者の大多数にとって受け入れがたいコンテンツを意味している。

では、「面白い人」はどこに行ってしまったのだろう。「見切りをつけて居なくな」ってしまったのだろうか? そうとは限らない。

かつてコミュニティに「未知」を持ち込んでいた人が、コミュニティが拡大してもなお、同じように「未知」を持ち込めるなどというのは余りにも、人を過大評価している。そういった膨大なコンテンツにアクセスできる人は当然いる、その膨大なコンテンツを咀嚼し、僕たちにも理解できる形で授けてくれる存在は確かに地球に存在する。だが、人間というのはそんな逸材ばかりではない。いくつか面白いことを知っているだけの兄ちゃんや姉ちゃんだって、コミュニティはたくさんいるはずだ。そういった人たちが、自分の持つ「未知」をあらかた提供してしまったら。情報が、コンテンツが、陳腐化してしまったら。

そうなれば、彼ら彼女らは埋没する。コミュニティに内包され、「既知」の存在となる。つまり、「凡人」化する。コミュニティが拡大するに従って「面白い人」たちはそのコミュニティの中で段々と「凡人」になっていくのだ。

規模が大きくなれば、「未知」は減る。「未知」を提供できる人も減る。こうして、どこかのタイミングで遂に、コミュニティは停滞する。流入する「未知」こそが、コミュニティを拡大させていたのだから。

その後コミュニティが衰退していく事を、「人は『未知』が好きで、それを求めているから」という理由で説明することは難しい。「既知」の魅力を否定することは出来ないから。お約束、定番、王道、古典。そういったものにも面白さは明確に存在していて、なかなか消えてなくなることはない。それでもやはり、コミュニティの存続と発展には「未知」が必要不可欠なのだろう。コミュニティ内部のものにとってはとっくに「既知」の存在が当人にとっては「未知」であるからこそ、コミュニティ外部の存在が内部の存在に変化するのだから。

どうにも話が散らかってしまった印象はあるが、とりあえずこのコピペにおける「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」に関しては、少しは限定的な言葉に書き換えることが出来たように思う。

そしてそのうえで、僕は示したい。「凡人」が悪いのではない。「面白い人」が悪いのでもない。コミュニティはいつか飽和し、停滞し、衰退する。それは避けようのないことだ。「未知」を収集し、コミュニティに奉仕せよ、などとは誰にも命じることは出来ない。どこまで行っても。コミュニティは、人と人とが重なった集合に過ぎないのだから。それは人ではない。コミュニティはコンテンツではあっても、人ではない。大切なのは、人だ。人が苦痛を感じるようなことを、強いてはいけない。つまらないコミュニティになれば、新しいコミュニティにいけば良いのだ。

それでもなお。今所属しているコミュニティを盛り上げたいと思ったなら。そんなときは、持っている「未知」を一つ、コミュニティに提供してみたら良い。あなたにとってはありふれた、つまらない、誰でも思いつくような何かであっても。コミュニティの誰かにとってそうであるとは限らない。始まりからして、きっとそういうものだった。何気ない世間話で自分が全然知らない事を聞けたら、それはとっても「面白い」のだ。かつて僕も、その連鎖の果てに今いるコミュニティにたどり着いた。その連鎖の次の輪を、自らの手で作ってみるというのも、コミュニティから得られる「未知」であることは間違いのないことなのである。