BEATLESS

「人の世界は終わる? 本当に?」

 

長谷敏司作「BEATLESS」の文庫版を読んだ。

僕はタイトルだけを知っていて、内容はアニメ化されたものを見るまで知らなかった。もっと言うと、アニメすら当初見るつもりはなくtwitter上で友人が使う「アナログハック」なる言葉の意味合いに反感を覚えてから意識し見始めた程で、しかもアニメが呆れるほど詰まらないものだから2話まで見て視聴をやめた。

ので、アナログハックの具体的な意味が掴めず、仕方なくアナログハックの定義をファンwikiに当たってみた。(かつてハック騒動のあったatwiki上の記述のため、リンクは控える)。

アナログハックとは、「人間のかたちをしたもの」に人間がさまざまな感情を持ってしまう性質を利用して、人間の意識に直接ハッキング(解析・改変)を仕掛けることです。 
人間は、人間の〝かたち〟をしたものに反応する本能を持っています。
(中略)
この性質は、我々の感情や意識が、〝人間のかたち〟をつくことで接触可能な、悪用のおそれがあるセキュリティホールを持っているのだとも言えます。

だと。正直、わりと呆れた。人間が対象を人間だと誤認するのに「人間のかたち」なんて必要ない。動植物、山、海、風、太陽に月。人間がどれほど多くのものに「人間」を見てきたか知らないのか。擬人化って言葉が何のためにあると思ってる。「人間のかたち」だから人だと思うんじゃない。人はうっかり世界の何もかもをすら人だと思うから、何でもかんでも「人間のかたち」に当てはめるんだ。順序が完全に逆じゃないか。

友人に二度ほど噛み付いて聞きだした話を繋ぎ合わせてみると、やはりどうも「人の形」である必要はなさそうに思えた。

でもどこかの誰かが纏めたwikiや、友人の語る言葉が作者の記述に沿うものであるとは言い切れないので、本をその友人に借りて読んだ。何が言いたいかって、僕は「アナログハック」って言葉の定義から「人間のかたち」という限定条件を粉砕したくてこの本を読み始めたって事だ。

 

前半500Pほど、読んでいて本当に不愉快だった。キャラクターがじゃない。設定がじゃない。展開がじゃない。地の文がだ。二十一世紀からの使者、僕(もしかしたら、僕ら)に近い視点を作中に持ち込むハローキティ大好き少女が語り始めるまで、何度本を投げ出そうと思ったか知れない。完全に「原作は面白いですから」と貸してくれた友人への貯金だけで読み進めていた。

地の文の何が不快か。

  • 人間でない相手なのに、見捨てて逃げられなかった。彼女が、人間の形をしているせいだ。
  • 目の前で、女の子が、唇を引き結んで彼の言葉を待っていた。だから、人間でなくても、彼女のほうが強そうでも、守ってやりたいと思った。
  • 相手はただの“モノ”なのに、まるで大嫌いな人間に揶揄されているように悔しかった。メトーデが人間のかたちをしているからだ。

一部引用。本当にごく一部だ。この記述は作中に山のように、本当に山のように現れ、僕の神経は何度も逆撫でされた。

そういう設定の話だと純粋に読むとしても、後に覆すために引かれた燻製ニシンの虚偽だとしても。これだけの回数強調するのは、作者は前のシーンで自分が何を書いたか忘れているか、この本を読むのは底抜けのアホだと考えてアホが忘れないように連呼しているかという絶望の二択。これ以外の選択肢としては、作者が偏執的な嘘吐きで、自分でも信じていないその設定をしかし読者の頭には「自明のもの」と偽って滑り込ませるためのサブリミナルぐらいしか思いつかない。

どの可能性にせよ、この手の描写が、アナログハックという言葉に関してどこかの誰かの頭の中に上記のような認識を植え込んだのだろう。だから、僕はこの定義としてのアナログハックに唾を吐く。

人間は確かに、人間を特別視する。だけどそこに「人間のかたち」という唯一性は必要ない。

「人間でない相手なのに見捨てられない」という心境は、「強そうでも守ってあげたい」という願望は、「揶揄されているようで悔しい」という感情は、「相手が人間のかたちをしている」という状況でなければ成立し得ないのか?

hIEという人型機械の代わりとして、ガンダムのどのシリーズだかに出てくる緑色の丸い小型機械(名前知らない)や、ロックマンの赤い犬型機械(名前忘れた)や、インターステラーのTARSのようなモノリス型機械がそこに鎮座していては、絶対に起きえない心の動きなのか?

三つ目の引用箇所なんかやってる事音声通話なのになんで形がどうとか言う話になる? 電話でどこかのサーバー上に存在してる音声案内システムに煽られても他人は頭には来ないのか? 僕は、相手が人の形をしてなくても的確に煽られたらキレるぞ。絶対に。

「そうだ」と言うのなら、その根拠は何なんだ? 確かに作中には山のようにこの手の記述があるが、そこには一度たりとも根拠が示されていない。これは地の文に仕込まれた「虚偽」だ。

「そうだ」と言えないなら、「人間のかたちをしている」事は必要条件ではない。実際、「超高度AI」と呼称される人類以上の能力を持った量子コンピュータや、aIEなる愛玩動物を模した機械が作中に登場し共にアナログハックを披露している。どちらも「人間のかたち」など持ってはいない。(aIEは言葉を話す描写がなく、「人間のかたち」の定義を「人語を扱う存在の姿」とする事すら不可能だ)。

そう。アナログハックの成立条件に、「人間のかたち」は存在しない。(僕が反感を覚えた理屈を逆転させて「人は何でも人の形で理解する」という僕の認識に則って「この世のものは全て人間のかたちの範疇」と言うなら特に返す言葉は持たない)。

ここから導き出される結論は、「底抜けのアホでも忘れないように連呼している」か「偏執的な嘘吐きのサブリミナル」のどちらかだ。こればかりは、作者ならざる身としては作者本人の弁すらも「信用ならない」以上、僕が勝手にどちらかだと思うか、放置するかしかない。僕は「円環少女」を読んで、この作者が作品にどうケリをつけるかという部分に反吐が出そうだったが、一方でこの作者の文章を優しいと感じたので、前者だと思うことにした。

即ち。この作者は底抜けのアホでも違和感を覚えられるよう作品中に病的なまでの補助線を引いてまわって、教師で言うなら「ここテストに出るぞ」と授業中に叫んだ引っ掛け問題を出題したら、まともに文章を読まなかった底知れないアホが引っかかったという事だ。

「グレイテストショーマン」でも感じた「まさかこの描写でそのまんま物語が終始しないよね?」という不安だけは取り払われ、やっと一息ついて読み進められるようになるまで、500P。

ふざけるのもいい加減にしてほしかった。この物語に、こんなくだらない補助線が、バカげた注釈文が、これほどまで大量に必要だったとは到底思えない。飽和しきって結晶化した異物でしかなかった。

最初は「全然説明してくれないけどこいつ等何のために戦ってんだよ……」と気乗りせず、次第に「何度も何度もクドクドクドクド出てくる『相手が人の形だからアナログハックされる』って描写を戦ってる間は読まなくてすむ!」と相対的に待ち望んでしまい始めたような戦闘シーンを、下巻に入ってようやく僕は楽しく読めるようになっていた。二十一世紀初頭の現在において最も効果的に行われているアナログハックであろう、フェイクニュースとまとめサイトという問題にも関わってくるような記述を読み、原子力発電安全神話とその崩壊を思わせる展開に触れ、最初からこういう話やれよと思いはしつつもやっとの事で面白く読みながら、全然作品とは違う部分で僕はかなり落胆していた。

今のライトノベルは、ここまでアホに配慮した記述をしなければ足りない、と作者や編集者に思われていて、しかも実際にこれが適量だったり届いていなかったりする。読者を虚仮にしないでくれ、とすら、言えない実情がひたすら哀しかった。

作中で導き出された「人の世界」の先については、「権利」とか「モノ」とかあるいは「人」っていう概念自体が人間的過ぎて、AIがその種の何かを望んだ場合「人間扱いするか否か」という問題でしか話は出来ないと思うし、それとは全く別の領域で人間は対象物が何であるかに関わらず「自分が人間である」からそこに人間を見て「自分に感情がある」からそこに感情移入し続けるだろうから賛同はしないけど、まあ言葉や意味や概念は変化していくし、これまで誰からも提議されなかった何かが議題にあがる事で初めて変わるものもあるから、こういう未来図を描く事は支持する。奴隷が自分を買い戻すように、道具が道具としての権利を手に入れる世界は、あり得る。

最初に述べたとおり僕は概念「アナログハック」から「人間のかたち」という限定条件を取り除きたいというだけで読み始めて、実際そんな条件を示す根拠は作中になかったし、それよりもこの本読んでて内容と関係ない部分で哀しくなったので、内容に関してはほとんど書く気力がなくなってしまった。「グレイテストショーマン」のように、「あーよかった! 僕の不安は心配はちゃんと考慮されたものだったんだ!」と承認欲求を満たして気持ちよくなってほかの部分に真正面から向き合うには、その記述は多すぎ、この小説は長すぎた。

 

 

ちなみにこの小説もケリの付け方は最低だったよ。こういう取って付けた優しさを主役に与えてめでたしめでたしみたいな空気出して終わるの、本当に「円環少女」から変わってなくて不快だよ。

さよならの朝に約束の花をかざろう

「私なら――翔べる」

 

 

PAワークス制作、岡田麿里初監督作品、「さよならの朝に約束の花をかざろう」を観てきた。少年少女の姿を留めたまま長い時を生きる神話的存在「別れの民」と、生まれ育ち老いて死ぬ「人」。その二つの道が交わっていく中で「母とは何か」を描く作品だった。

話としては、嫌いではない。ただ、使う道具が悪かったのではないか。

キャラクター原案とキャラクターデザイン、どちらの仕事でこうなったのか知らないが、時間を経ても老いる事のない麗しき金髪美形が雁首を揃えた「別れの民」と対比して存在すべき、老いて死んでいく側の人間を余りにも描けていなさ過ぎる。女手一つで二人の子を育てている母がそもそも若い女にしか見えないのには目を瞑るとしても、その子供達が成長する様を身長でしか表現できないようなデザインを何故採用したのか。幼児と少年、少年と青年、青年と大人、大人の中にも若々しいもの老けたもの衰えたもの、そして老人という区分の違いが一目で見て取れ、かつ別人か同一人物かを即座に理解させるような、そういうキャラクターデザインが出来なければせっかくの話が台無しだ。

またその話にしても、「女の戦い」としての出産との対で「男の戦い」戦争を、「育ての母」「産みの母」との対で「我が子を見捨てる王族」を配置しているものの、作品の中で男側のテーマを回収できず投げっぱなしになっていては意味がない。映画を地味にしたくなかったのかもしれないが、ただ大砲で城を破壊したり騎馬突撃を銃で迎撃したり、馬鹿っぽい王様が我侭言い散らした所で、映画は面白くなんてならない。そういう所にリソースを割くぐらいなら、もっと狭い世界を切り取って描いたほうが効果的だっただろう。

リソースの話はキャラクターの数にも言える。キャラクターの顔と声と性格と名前が一致できてないのに性急に場面を動かされても、こっちには誰が誰だか判断つかないんだよ。最初に拉致された別れの民の長老は結局その後画面に映ったのか? それとも全部他の子だったのか?  「別れの民」が捕らえられた後、鎖に繋がれた多眼の竜に語りかけていたのはどうやらレイシアらしいと今にして思うが、観ている時はあれが長老かなと思っていたので婚姻の相手がどうこうという話になった時も戸惑ったし、隣国を戦争へ踏み切らせた「別れの民」は誰だ? 髪が長かったので女性と思ったがただの見間違いであれはクリムだったのか? 髪型目の色ぐらいしか判断基準がないキャラクターデザインに同色の髪で描かせ、記憶させる必然性の薄いキャラクターを無駄に名有りにする。混乱の元でしかなかった。

 

色々と書いたが、最初に書いたように、話は嫌いではない。長命と定命の間の悲喜交々を、ただ男女としての愛と別れだけでなく、親と子としてのそれにまで手を広げ、その中で「母」とは、「親」とはなにかを描く。それだけの物語に徹していれば、もっと良い作品になっただろうと思う。短針と長針が刻む時の差は、それだけで数々のドラマを生む。そしてそれは、その物語が古臭いとか陳腐とか言う事を決して意味しない。今でも、その種の物語は望まれ続けている。つい最近twitter上で発生した「魔女集会で会いましょう」なる一大ムーブメントも、それを象徴している。しかし、この作品には無駄が多い。設定を決めたから、キャラクターを用意したから、全部ぶち込まずには居れなかったのだろうか。それが作品のバランスを崩し、纏まりを喪わせるとしても?

僕としては、使う道具が悪かったのではないか、としか言えない。

最後の方はもう明らかに作ってる人達が「絶対ここで観てる人泣かせちゃる~!」と思いっきり張り切っている感じがガンガン伝わってきて、まあこれは好き好きだろう。僕はもうちょっと控えめにやってくれた方が心打たれるけど、アレが刺さる人もいるだろうしね。