Blade Runner 2049

「何度も言ったわ。あなたは特別だって」

 

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」の続編、「ブレードランナー2049」を観てきた。勿論、原作としてフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が存在することは言うまでもないが、文脈としては明確に「ブレードランナー」の続編として語るべきであろう。今調べて知ったのだが、なんと監督は「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴであった。

そうは言っても一方で僕の印象としては、この映画は「ブレードランナー」に限らず、多くのSF映画への愛をもって生み出された作品であるように感じた。「2001年宇宙の旅」を思わせるような演出もあれば、「スターウォーズ」もかくやというガジェットの挙動があり、なんともクリストファー・ノーランがやりそうな映像もある。そして当然、前作であるブレードランナーの要素も盛りだくさんだ。これが僕の見立てどおり、様々なSF映画へのオマージュとして肯定的に受け取るべきか、それとも見立てどおりではあれどオリジナリティの欠如として非難されるべきものなのか、それとも単に僕が知識不足見識不足故に目に入ったものを自分の知っている僅かな知識と引っ付き合わせて喜んでいるに過ぎないのかは、今は置こう。

この作品の中で僕が最も心惹かれたのは、この作品が描く「愛」の形である。作中に「JOI」と呼ばれる、恐らくはAIを搭載した拡張現実式仮想彼女――卑近な物言いをすれば、考えて喋るARラブプラス――が登場する。レプリカントである主人公は、JOIと共に暮らしている。そんなJOIとレプリカントの関係性。これはそっくりそのまま、レプリカントと人間に置き換えることが可能な、同じ構造を持っている。作中で大きな意味をもって語られるように、レプリカントは子を生すことが出来ない。性交渉は行えても、命を育むことは出来ない。大抵の人間が、望まないままにでも出来てしまうことを、レプリカントはどれほど渇望しても得ることが出来ない。その関係が、このJOIとレプリカントに当てはまる。互いの肌を寄せ合い、舌を絡ませ、セックスを行う事を、JOIはどう足掻いても行えない。JOIとレプリカントのカップルは、壊れ物よりもなお儚い、映像と物質という差をせめて束の間意識せぬように、互いに水面に波を起こさぬよう、注意深く相手の輪郭をなぞり合う事しか出来ないのである。その注意深い行為そのものが、互いの差異を何よりも明確に意識させると知りながら。

その悲哀を、この映画は見事に描いた。JOIが主人公のために、娼婦を雇うのである。そしてその娼婦に自分を投影した状態で、性行為を行うのだ。JOIは恐らく持ち前の高い性能を駆使し、瞬く間に娼婦の行動と同期して見せる。だが、主人公がJOIの貼りついた娼婦を引き寄せた瞬間、即ち、肉体的接触を持った瞬間に、その同期は乱れる。躊躇いもなく顔を両の手で包み、滑らかに口付けを交わす娼婦の動きに対して、JOIは哀しいほどに遅れて動く。彼女にとって、接触とは空気椅子に座るがごとき、薄皮の向こうにある行いなのだ。どれほど望み、どれほど求めても、彼女の存在そのものが、彼女を縛り付ける。それでいて、彼女は特等席に座り続ける。自分の男が、自分でない女を抱くその景色を。砂被りどころではない、文字通りのゼロ距離で見続ける。これほどの悲しみがあろうか。

そして同時に、このあまりにも悲しい行いそのものが、JOIが途方もない愛を主人公に寄せている事をも指し示すのだ。JOIでは肉体的に男を満たすことが出来ない。それでも、JOIは男に、何か特別な贈り物を与えたかったから。愛するが故に、愛する男に女をあてがう。主人公もそれが分かっているからこそ、娼婦を抱く。一夜を終えた後の二人の間でなされる実に些細なやり取りは、全てを変えかねないその出来事の後でも、二人の関係性は全く変化していない事を強く印象付けてくれる。

 

この映画は、見事に愛を描いた。そしてその事で、「ブレードランナー」の続編としての役目を完璧に果たした。JOIとレプリカントの関係は、レプリカントと人との関係を映す鏡である。ならば、JOIとレプリカントの間に愛があるならば、レプリカントと人の間に愛のなかろうはずもない。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」。ディックは見ないと書いた。スコットは見ると描いた。ヴィルヌーヴもまた、見ると描いた。だから、この映画は「ブレードランナー」の続編なのである。

SUPER MARIO ODDESSY

「Take a turn, off the path Find a new addition to the cast, You know that any captain needs a crew」

 

世界で最も著名なゲームの一つ、「マリオ」シリーズ最新作。「スーパーマリオオデッセイ」を遊んだ。

僕は、あまりマリオを遊ばない。まあ一応遊んだ、と言っても許されそうなマリオシリーズは、「スーパーマリオRPG」と「スーパーマリオ64」の二本だけで、しかもカジオ―もクッパの三戦目も倒していない。今でもゲームはへたくそだが、当時はそれに輪をかけて、ドへたくそだったのだ。僕は人生において、マリオシリーズをクリアした事がなかった。

そんな惨状であるにも関わらず。或いは、そんな狭い世界で生きていたからこそかもしれないが。僕の中で上記の二作品は、新しいゲームに押されておもちゃ箱の奥に仕舞い込まれるのと同時に、思い出の中でも深く深く埋もれながら、しかし一方で、大地の圧力が時に宝石を生み出すがごとく。その輝きを刻一刻と強めていったのだった。

僕はある時期からかなり長い間、コンシューマ機でゲームを遊ぶことがなかった。そんな僕がコンシューマー機のゲームを見ても、その全ては色褪せていた。おもしろそうだな、と思ったソフトも、たのしそうだな、と思ったハードも。どうせ僕が手に取り、遊ぶ事はなかった。そんな環境では全てが、取るに足らない些細なものだった。思い出の中の宝石と比べれば、可哀想になるぐらいちっぽけなものだった。

一方で僕はその長い期間、パソコンを使って遊ぶオンラインゲームに浸っていた。様々な種類があり、いくつものタイトルを遊んだが、そのどれもが、上記の二タイトルとは、似ても似つかないものだった。僕にとってオンラインゲームの本質は画面の向こうの誰かとのコミュニケーションだった。極端な話、ゲームが詰まらなくても良い。そこに人がいて、くだらない話をしていられるなら、その場を提供しているゲームが素晴らしいものである必要はなかった。ゲーム体験の質が良い必要はなかった。そんなゲームを遊んでいて、思い出の宝石達に傷の一つだって入るはずがなかった。彼らはゲームとして素晴らしく、楽しく、僕が遊べて、そして何より、僕にとってはもはや思い出の中にしか存在しなかった。ゲーム、という観点において。オンラインゲームは端っから勝負にならなかった。

 

そんなゲーム体験を積み重ねていくうちに。僕の中で宝石は呪いと化した。最早、コンシューマゲームであろうとパソコンゲームであろうと、オンラインであろうとオフラインであろうと、僕にとっては関係なかった。全てが宝石と比べればくだらないゲームだった。美しく激しいアクションゲームを見るたび、僕は思った。「まあまあ面白そうだけど、マリオ64にはかなわない」壮大で痛快なRPGを見るたび、僕は思った。「なかなか楽しそうけど、マリオRPGにはかなわない」

これは、時が経ち、友人から中古の携帯ゲーム機を譲り受けてチョコチョコそれで遊び始めたり、Steamの存在を知って様々なゲームを開発するようになってからも変わることはなかった。

どんなゲームだって、完璧足り得はしない。粗いポリゴン。拙いプログラミング。ハードの限界。ズレた演出に穴のある筋、不自然なデザイン。そういったものは確かに存在していたはずだった。だが、そんな点は振り返らない。見返さない。美点だけが映し出され、長所だけが箇条書きされる。思い出は無敵の鉄壁となった。

それは、僕のデジタルゲーム人生を覆い、包み込んでしまう、偉大なる万里の長城だった。

 

そんな中。2016年10月下旬。

Nintendo Switchの第一報プロモーションビデオが公開された。カチン、という軽妙な音と共に組み合わされるJoyコンと、ノリの良い音楽は、実に僕の趣味と合っていた。興味が増して、見てみることにした。ゼルダ。カチン、スカイリム。カチン、なんか知らんバスケットボールのゲーム。カチン、僕のクソ苦手なマリオカート。「ふーん」と思いながら見ていた。面白そうだね。でも大丈夫。僕にはグレートウォールがあるから。そう思っていたら、カチン。そこにマリオがいた。三段ジャンプをしていた。僕の胸に沸いたのは、渇望だった。実に奇妙な感覚だった。僕には無敵の万里があるはずだった。サンシャインにもギャラクシーにも、あろうことかDSリメイクの64にさえ、その壁は一切揺るがなかった。なのに。どうしてか。ジャンプしてるマリオが、欲しくてたまらなかった。ビデオを見終わるころには、僕はSwitchの購入を決めていた(PV時点では、スプラトゥーンに対する印象は「ああ任天堂はやっと二画面とかいう遊びにくそうな方向性を一旦脇に置いたんだね」というのと「相当Esportsやりたいんだね」という程度しかなかった)。

 

僕は続報を待った。しばらくして、どうやらローンチでマリオは出ないらしいと聞いた。ガッカリしながら、それでもSwitchの大層な人気振り、売り切れの連続に慄き、マリオが出ても手に入らなかったら嫌だったので5月に入る前にSwitchを入手した。

また僕は待った。その間に12スイッチ、ゼルダの伝説BotW、ARMS、スプラトゥーン2と僕の人生の中でも一、二を争う頻度でコンシューマゲームを遊び、その面白さに童話酸っぱいぶどうを思い出しながらも、やっぱり3Dアクションゲームはマリオ64だよねという感は拭えないまま、数々の先行プレイ動画を見ながら首を長くして待ち、ようやく。2017年10月27日の午前0時過ぎ。僕はPUBGからログアウトして、マリオオデッセイを始めた。

マリオオデッセイは面白かった。でも64じゃなかった。楽しみながら、まだ僕は壁の中にいた。なんか違うんだよな。結局、64じゃないんだもん。マリオの声優は老けてるしさ。

そうこうしていると、64みたいな部分が見えてきた。64みたいなマップが出てきた。64みたいな演出が出てきた。

楽しいなあ。面白いなあ。しかも凄く64をリスペクトしてるなあ。僕はうれしくて、泣きそうになりながらも、でも64じゃないから壁の中にいた。ムーンを集めて、人生で初めて、3Dのクッパを倒した。ムーンを集めて、全マップを解放した(多分)。ああ、楽しい。まだまだムーンはある。取れるものも取れないものもあるだろうけど、まだしばらくこのゲームを楽しめるだろう。そう思いながら、しみじみこのゲームの主題歌を聞いた。僕は歌をただ聞くだけじゃなく、歌うのも大好きだから、歌詞を探してきて聞きながら一緒に歌った。

そしたら、僕の壁が砕け散った。

何故砕けたか、というのを語ることはまだ出来ない。この歌詞が、それだけ深く僕の心に刺さったからだろうとしか、今は思いつかない。ただ一つ確かなこと。この歌は、マリオオデッセイを曲がりなりにも遊んだ僕が歌って初めて、僕の中で完成した。

 

 

思い出は美しく、到底太刀打ちできない。マリオが生み出したそんなゲーム体験を打ち砕いたのは。結局のところマリオだったという、それだけの、とてもくだらない話。それでも、「Jump Up, Super Star!」を、歌詞ガン見しながらたどたどしく歌ってみて、僕の胸に突如溢れた感情は。どんな宝石の煌きよりも、輝いて見えたのでした。