スペース☆ダンディ第十六話

「男の嫉妬、焼けぼっくいか・・・」

 

湯浅回。この人は俗なキャラクターを描くのが上手いのだろうか。思えばピンポンもそうだった。僕にとってのピンポンはどうも俗世離れしたというか、透明というか、欲とは一線を画した存在達の戦いであり、だからこそ、そこを一歩退いたアクマに彼女ができ、辞めたように見えてしかしその中に留まったペコはゲームセンターなどで戦い続けていたりという描写だと思っていたので、どうも湯浅監督のピンポンが醸し出すキャラクターの、よく言えば人間らしさというものになるのかもしれない、真田が顕著だが、まあそういったものに拒否感を覚えてしまったのだが、今回はその辺りも上手いことマッチしていたように見える。スニフの声のえらそうな魚とか、飯のことしか考えられないミャウとか、手伝ってもらったのにあっけなく「サヨナラ!」とか言ってダンディ達を置いていった挙句、彼女を寝取られて焼身自殺する魚とか。逆にダンディはいつもと比べると超然的というか、大物っぽいというか、なんとも落ち着いていた。こういう風にバランスを取っているのだろうか。

惑星ゴーインナカレーによって衛星にされた惑星カノジョーがその実、ゴーインナカレーに存在する水を引きずり回しているのは、名前も相まって男女の駆け引き的なものを感じた。水が何の比喩なのかまではいまいちピンと来なかったが。

そう、水。水といえばこの作画よ。飛沫、うねり、ボートにぶつかって割れ、スクリューに巻き込まれ押しやられる水の動き。なんといったらよいのか、良くもまあ描いたものだ。またロープを前ひれでのぼっていったり、ダンディとミャウがボーラのように飛んでいくのといい、本当に見ていて楽しい。転送ライトが電池切れで半分だけ地上に送ってしまい、半透明な船が二つできるというのは、昔どこかで見たような気がするが。

 

 

しかし終わってみれば初っ端の料理のシーンに出てくる焼き魚を巡り巡って結局食べるという、本当に回りくどい話だった。

思い出のマーニー

「お願い、許してくれるって言って!」

 

スタジオジブリ米林宏昌監督作品「思い出のマーニー」を見た。「借りぐらしのアリエッティ」は見ていないので、米林の作品はこれが初めてという事になる。

ジブリの鈴木プロデューサーが「男と女の話だとミヤさんがうるさいので女と女の話にしました」などと言っていたのでまたぞろ金儲けの権化がディズニーと手を組んで同性間の愛情でひと儲けしようとしているのかと――なにせ「アナ雪」、「マレフィセント」とそういった類の話が二本続いているので、まあ間違いなくそういう考えは持っているだろうから――なんとも嫌な予感を携えて行ったが、何の事はない。これはまったく「女と女の話」などではなかった。

なるほど確かに、形として見れば「女と女の話」だ。そうとしか言えないだろう。男なんてほとんど登場しないから。キャラクター達を並べれば女と女と女と女・・・と女ばっかりになってしまう。だが、この作品の肝である「マーニー」は完全にアンナの妄想であり、イマジナリー・フレンドであり、自己救済の手段である。この映画で描かれているのは要するに、アンナの独り相撲だ。この作品は「一人の女の話」と呼んだ方が良い。

アンナは明らかに嫌な人物である。人の親切を断る事も出来ず、身の内に鬱憤を溜め、しかもそれを留めておく事が出来ずに爆発させてしまう。このキャラクターの外見が信子と逆だったなら、絶対に好かれる事はないような、可愛いからまだ許されるような存在である。「可愛くないアンナ」はきっとそこら中にたくさんいるだろう。

そこに登場するのが「マーニー」だ。金髪碧眼、宮崎駿に「古い!」と言わしめた美少女の典型。そんな「マーニー」がアンナにとってとことん都合の良い存在であり、またその態度が明らかに男性性への働きかけを意識されていたのを見て、糞のようなアニメを見た時と同様の不快感を覚えた。何があっても主人公(=視聴者)を否定しない優しく美しい女性が存分に男性性を満たしてくれるようなアレだ。ついにジブリまで、このように視聴者の臆病な男性性を満たすだけの作品を作るようになってしまったのか、とも思った。どうか違ってくれと思いながら視聴し、その祈りは無事通じた。「マーニー」が男性性への働きかけを行っていたのはその妄想が元々「男と女の話」に基づいていたからであり、アンナは過去聞かされた物語を自らの妄想の中で追体験することで、自分が捨てられた子供、厄介ものであるという認識を取り除いたのだ。

 

この映画は自己救済の物語である。働きかけが相互するのでなく、自身の中で完結している。これはこれまでのジブリ作品にはなかった事だ。「男と女の話」と鈴木が述べたように、今までの作品は必ず「他人に変えられる」あるいは「他人を変える」物語だった。この変化を僕はあまり好ましく思えない。「人生で大切なのは、ただ生きたという事ではない。自分の人生を通じて、他の人々の人生をいかに変える事が出来たか、それが重要なのだ」とはネルソン・マンデラの言。他人と交わり、お互いに変化してこそではないのか。この作品はそうなっていない。主人公はマーニーに何の変化も与える事は出来ない。当然だ、「マーニー」は幻灯機に映し出された妄想であり、意識も人格も持ち合わせてはいないのだから。

あるいは、ここからもう一歩踏み出し、「妄想の中の人間」と「周囲の人間」の何が違うのかというところまで切り込んでいけば、面白いものになったかもしれない。もしくは時空が歪んで実際にマーニーとアンナが出会っていても良かっただろう。この映画は浅い。映画を見ていて常に次の展開が読めてしまうし、その想定からはみ出さない。それは監督の若さゆえだろうか。それとも。

 

だがまあ、不快感は理解によって取り除かれ、作品として「救済の物語」の体はなんとか整えられている。作画は流石のジブリだ。というわけで、思ったほど、悪くはなかった。米林の今後の仕事に期待する。

超高速! 参勤交代

「鯛は返して食う二日目が旨い」「鯛は旨いところが少ないのぉ」

 

先輩に勧められ、「超高速! 参勤交代」を見た。「女がいなければ・・・」と映画が終わってから一人呟いてしまった。乱暴な言い方になるがこの映画に女が出演していなかったら僕の評価はずっと高かったろう。女が、というのは正確ではないか。正しく言うならば「恋愛要素がなければ」ずっと高かったろう。僕はコメディと恋愛は噛み合わせが悪いと思っている。茶化すなら色恋沙汰ごと茶化す方が面白かろうが、どうもつまらん恋愛をさせたがるのが多い。そういうのが苦手だ。コメディキャラクターが真剣になる部分はコメディ映画の常として必ず存在する。時代物なら尚更だ。だからこそ、他の部分では目一杯馬鹿でいて欲しい。その緩急、空気の揺れ幅こそが、場を引き締める。更に言うならあの側室になった女郎と上地にゾッコンの妹君が作品において一体どんな要素を果たしたと言うのか。藩主は女郎に出会う前から土地を愛し、民を愛していたし、不正不義を憎んでいた。また上地がハメを外したのにも妹君はなんら関与していない。見ていて面白くもないし、何らかの文法的意味も感じられない。あの映画に恋愛要素を入れる必要はあるのか。僕はいらないと思うが。「パシフィック・リム」の時にも強く思った疑問だ。

笑えるシーンがいくつも存在する。コメディとして非常に良い事だ。だが、なんといっても主演の佐々木蔵之介がちょっと面白すぎる。顔の造形は知らないが、彼の出す表情が読売巨人軍監督の原辰徳にそっくりなのだ。驚く顔、目を剥く顔、事あるごとに原の顔芸が思い出され、映画的にはマジメ寄りのシーンでも顔を伏せて笑ってしまったので周りの客には悪い事をした。

先輩からこれはと薦められた殺陣は中々良かった。特に忍者たちが回避やダメージ表現のために空中でクルクルと回転するのが良い。あのような派手な動きは見ていて楽しい。最後にわらわらと人が出てきて大立回りを演じるのも往年の時代物らしくて良かった。ワイヤーを使っているシーンは流石に慣れていないのか違和感が凄かったが。

 

主役はともかく脇を固める役者の演技、特に若い家臣達はそう上手いとも思わなかったが、脚本のお陰かそこそこ見れるものにもなっていた。総合的に考えるなら面白い映画という事になるだろう。ああ、口惜しい。糞ほどの魅力もない恋愛要素が無ければ太鼓判を押せたものを。

スペース☆ダンディ第十五話

「どういう意味?」

 

これまで程ぶっ飛んでいるわけでもぶん投げているわけでもない、整っているというか纏まっているというか、そんな回だった。

今まででも屈指の仲間思いなダンディだったのではないだろうか。今までは助かる見込みがある間は一応頑張るが、ダメだと判ったら即気持ちを切り替えて自らの生存に必死だったが、今回は死んでもなお助けようと頑張っていた。目の前に犯人と死体があったという特殊な状況がそうさせたのだろうか。

また、ループ構造にもなっているようだ。最初の方でダンディがミャウと言い争っていた「すげー最近聞いたシャカタク」というのが、時の川のポロロッカ中にウクレレ男に釣りあげられて聞いたウクレレの音色なのだろう。後これは誰が言っていたのだったか、「勘違いグランプリ」のエピソードでダンディの欠点として印象付け、表情の誤解という形でプラスとして回収するというのも面白い。時の川に入れた物が過去のものにすり替わって飛び出してくる演出も楽しい。

 

 

と、部分部分を見ればどれも面白いのだが、全体を通して考えると地味にも思える。これは多分今までのエピソードが強烈すぎたのだろう。ぼくはこういうダンディも好きだが、物足りないという気持ちも頷ける。ベクトルが違うので同じ物差しでは測れないのだが。

スペース☆ダンディ第十四話

「もしかしたら、元に戻ってオンリーワンになれるかもしれねぇ」「本当ですかね」「もし戻れなくて大変なことになったらどうするんですか?」「この俺がいざと言うときの事なんて、考えてると思うか?」

 

怪作アニメ「スペース☆ダンディ」の2クール目第一話。公開されていたPVのほとんどが一話で使われてしまった。今後どうなるんだ。しかも2クール目だというのに驚く事にOPもEDも変更が無かった。また内容的にも構成的にも完全にダンディを1クール見た人、更に言うと楽しんだ人しか相手にしていない。素晴しい。

これが「展開」の面白さだと、大音声で突きつけられるかのような作品だった。お話としては、粗筋なんてものを書くほどのものは無い。完全にキャラクターと彼らが存在することによるその場その場の展開だけで作品を構築している。それも、徹頭徹尾頭のおかしい内容をやるのでなく、まず温く緩やかなネタで見ている人間を安心あるいは油断させておいて突如フルスロットルでその緩んだ心を刈り取るような、あるいはゆっくりと毒を蓄積させていき気付かない間に致死量を盛るかのような、アニメに狩りという言葉をつけるならまさにこれという組み立てで、僕はその術中にまんまとはめられて最後5分ほど頭の血管が切れるかと思うほど笑った。後、「大魔王のイトコのハトコのマタイトコ」がSWリプレイでのスイフリーとパラサの「イトコの孫」などのやり取りを思い出して懐かしかった。また読みたい。

このアニメは本当に声優に「演技」を求めているように感じる。1クール目から、ベッタベタな急展開を演出と声優の技量でなぜか感動できるような空気に構築したり、くっだらない展開をなんとなく笑えるようにしたりとその気はあったが、この十四話は更にその色が強かった。メインの声優達にこれほど複数の演じ分けを求めるなんて、なかなか無い事だ。僕はエンディングのテロップが流れるまで各キャラクターがそれぞれ同じ声優だったとは露ほども思わなかったので、そこでも驚かされた。

 

 

ああ、ダンディだ。紛れも無くダンディだ。これは1クール、さまざまな意味で楽しめそうだ。