OCTOPATH TRAVELER

「プリムロゼ、参ります」

 

一言

クソ面白い。

概要

で終わってしまうとレビューにならないので、軽くこのゲームに関して。

まずこのオクトパストラベラーというのは、2018年7月13日にスクエアエニックスがNintendoSwitch向けに発売した2DRPG。生まれも育ちも特性も異なる8人の主人公の中から最大4人のパーティを作って、それぞれのストーリーを紐解いていくのが基本的な構造。

ストーリー

概要で書いたように、この作品には8人のキャラクターが登場する。この8人の話は2章終了時点ではほとんど絡み合う事無く独立した話になっている。しかもこの作品誰をどのような順番でパーティに入れるのか完全にユーザーの裁量に任されていて、8人全員集めた後一人一人同時進行でやっていくもよし、とりあえず4人集めてその話を終わらせるもよし、あるいは茨の道となろうともコレと決めた一人だけで彼らの物語に芯まで浸るもよし、と非常に自由度が高くなっている。一周で8人全員の物語を味わう事が出来るだけでなく、敢えてキャラクターを温存しておき二周三周と進めていく遊び方も選択出来るというのが嬉しい。

その自由度の代償として、メインストーリーに他キャラクターが絡んでくる事は(今のところ)なく、進めているとどうしても「主人公一人の物語」という感覚が強くなってしまうのは否めない事実だ。一応各イベントシーンの直後、パーティの中の対応するキャラクターと歓談を行うパーティチャット というシステムは存在するが、これ8人のどの組み合わせで話し始めるか全く予想がつかない上、次のパーティチャットのタイミングがやってきてしまうともうそれまでのパーティチャットは確認不可能になるので、初見プレイヤーが確認できるパーティチャットは恐らく半分以下になってしまう。これは「周回要素」としては面白いが、一周で全てのテキストを堪能したいというプレイヤーにとってはデメリットだろう。

それでも、8人の生まれも育ちも全く違うキャラクター達がそれぞれの目的の為に世界中を放浪する雰囲気は素晴らしいし、楽しい。それぞれ章毎に舞台となる町が変わっていくので、一つの町で二つの章が始まった時などは話が絡まないという要素が逆に「あのキャラクターがこんな事をしている裏側でこのキャラクターはそういう事をしていたのか」と群像劇じみた様相を滲ませ、世界観に厚みを持たせてくれる。キャラクターによって話しの重さが全く違うというのも、誰かが笑う時せかいのどこかでは当たり前のように悲劇が起きているんだなあという思いを沸かせてくれて良い。

戦闘

戦闘はキャラクター単位のターン制バトルになっている。その中で、このゲームの特色が二つある。

①ブレイク

敵キャラクターには通常1~5個ほどの「弱点属性」が設定されていて、その弱点属性を持った攻撃を一定回数受けると「ブレイク」する。ブレイクすると、このターンと次のターンの行動が全てキャンセルされ、防御力が下がり、攻撃が全てクリティカル判定になる(多分)。

②ブースト

1ターンに一度、味方キャラクターにはブーストポイントが配られる。ブーストポイントは一度に3つまで使用でき、通常攻撃の攻撃回数を増やしたり、技の威力を高めたり出来る。(関係ないけどこのシステム物凄くシルバーセカンドっていう同人サークルが出してるゲームの戦闘システム「WILL」を思い出して懐かしさに悶える)

この①と②の要素が合わさる事で、あらゆる戦闘がただのルーチン足りえないというのがこのゲームの非常に重要なポイントだ。

敵味方の動く順番は次のターンまで確認する事が出来るので、誰がどの武器で後何回殴れば敵はブレイクするのか。ブレイクさせてからブーストを吐き出して倒すのがいいのか、それとも相手のブレイクが解除された直後もう一度ブレイクするために残しておいた方がいいのか、常にそれを考える事が出来る。勿論敵とのレベル差が大きくなれば気にせずAボタン連打して通常攻撃振ってるだけでも倒せるが、適正レベルを少し超えた程度の状態でそれをやっても敵を倒すのに幾分か苦労する事になる、というバランスでゲームが形作られている。なので、Aボタン連打してただ無心にレベル上げをしたい、というようなRPGプレイヤーにとってはデメリットになるかもしれない。

フィールドコマンド

このゲームの最もゲーム的な要素であり、また逆に最もロールプレイ的な要素にもなり得る部分。総じて言えば、このゲームのRPG要素の核。それがフィールドコマンドだ。

フィールドコマンドというのはプレイヤーキャラクターからNPCへの直接的な干渉手段であり、

「NPCを倒す」

「NPCを連れて行く」

「NPCからアイテムを入手する」

「NPCから情報を引き出す」

の4種類に大別される。

それぞれが正道と邪道という二種類に分類され、8人のキャラクターの固有アクションとして割り振られている。正道は支払うべきコストが存在するが、100%成功する。邪道はコストを無視し誰にでも仕掛ける事が出来るが、失敗にはリスクがある。

これらは単純に欲しいアイテムを手に入れたり、あるいはストーリー上の演出として悪党NPCの妨害をしたり迷子を親元に届けたりといった行動のシステム的な回答でもあるのだが、それだけの要素ではない。

具体的な話をすると、キャラクターの装備が攻撃力+10のナイフだったりするタイミングで、攻撃力+80の斧を手に入れることが出来てしまうだとか、キャラクターがブーストをつぎ込んでも300ダメージしか与えないタイミングで、連れてきたNPCは2000ダメージ出してくれたりだとか、要するに「ゲームバランス」をぶっ壊すことが出来るのがこのフィールドコマンドだ。

ここで、プレイヤーは一つの岐路に立たされる。即ち、君は「ゲーマー」なのか、それとも「ロールプレイヤー」なのかという問いだ。その上でこの作品が面白いのは、「どちらかが正しい」という設計思想になっていない点だ。例えばあるゲーマーはただ強くなるために哀れな老人から強力な武器を盗み、家族のへそくりをチョロまかし、適正レベルのボスを虐殺するかもしれない。一方でそれは悪党ロールプレイという道を辿っても到達できる場所だし、逆に縛りプレイを好めばNPCから一切のアイテムを入手せず進むかも知れず、それは世捨て人や隠遁者のロールプレイによっても実現可能だ。

ストーリーの部分でも触れた、遊び方を選択出来るという自由度。その真髄を宿した傑作RPG、それがオクトパストラベラーである。

「私達はRPGを、ロールプレイングゲームを用意しました」

「さて、あなたがしたいのはロールプレイですか。ゲームですか」

「安心してください、どちらも楽しむ事が出来ますよ。何故ならこれは、ロールプレイングゲームなのですから」

そういうスタッフの自信に満ちた笑顔が透けて見えるような、素晴らしいタイトルだと思う。他にもなんかやたらとNPCの設定が作りこまれててNPCの話読んでるだけで面白かったり昔懐かしいドットキャラクターと今の派手なエフェクトの親和性が思っていた以上に高かったり音楽がマジで何時間でも聴いていられるぐらい心地よかったり(この文章書いてる間に流してたのは『踊子プリムロゼのテーマ』)出てくる女の子がPC、NPC問わずとにかく可愛かったり魅力は一杯あるのだけれど、とりあえずBUY NOW!! これ読んでもまだ買おうかどうしようか悩んじゃうって人は3時間遊べる体験版が無料公開されてるからそれやれ!

やればわかるから!

SUPER MARIO ODDESSY

「Take a turn, off the path Find a new addition to the cast, You know that any captain needs a crew」

 

世界で最も著名なゲームの一つ、「マリオ」シリーズ最新作。「スーパーマリオオデッセイ」を遊んだ。

僕は、あまりマリオを遊ばない。まあ一応遊んだ、と言っても許されそうなマリオシリーズは、「スーパーマリオRPG」と「スーパーマリオ64」の二本だけで、しかもカジオ―もクッパの三戦目も倒していない。今でもゲームはへたくそだが、当時はそれに輪をかけて、ドへたくそだったのだ。僕は人生において、マリオシリーズをクリアした事がなかった。

そんな惨状であるにも関わらず。或いは、そんな狭い世界で生きていたからこそかもしれないが。僕の中で上記の二作品は、新しいゲームに押されておもちゃ箱の奥に仕舞い込まれるのと同時に、思い出の中でも深く深く埋もれながら、しかし一方で、大地の圧力が時に宝石を生み出すがごとく。その輝きを刻一刻と強めていったのだった。

僕はある時期からかなり長い間、コンシューマ機でゲームを遊ぶことがなかった。そんな僕がコンシューマー機のゲームを見ても、その全ては色褪せていた。おもしろそうだな、と思ったソフトも、たのしそうだな、と思ったハードも。どうせ僕が手に取り、遊ぶ事はなかった。そんな環境では全てが、取るに足らない些細なものだった。思い出の中の宝石と比べれば、可哀想になるぐらいちっぽけなものだった。

一方で僕はその長い期間、パソコンを使って遊ぶオンラインゲームに浸っていた。様々な種類があり、いくつものタイトルを遊んだが、そのどれもが、上記の二タイトルとは、似ても似つかないものだった。僕にとってオンラインゲームの本質は画面の向こうの誰かとのコミュニケーションだった。極端な話、ゲームが詰まらなくても良い。そこに人がいて、くだらない話をしていられるなら、その場を提供しているゲームが素晴らしいものである必要はなかった。ゲーム体験の質が良い必要はなかった。そんなゲームを遊んでいて、思い出の宝石達に傷の一つだって入るはずがなかった。彼らはゲームとして素晴らしく、楽しく、僕が遊べて、そして何より、僕にとってはもはや思い出の中にしか存在しなかった。ゲーム、という観点において。オンラインゲームは端っから勝負にならなかった。

 

そんなゲーム体験を積み重ねていくうちに。僕の中で宝石は呪いと化した。最早、コンシューマゲームであろうとパソコンゲームであろうと、オンラインであろうとオフラインであろうと、僕にとっては関係なかった。全てが宝石と比べればくだらないゲームだった。美しく激しいアクションゲームを見るたび、僕は思った。「まあまあ面白そうだけど、マリオ64にはかなわない」壮大で痛快なRPGを見るたび、僕は思った。「なかなか楽しそうけど、マリオRPGにはかなわない」

これは、時が経ち、友人から中古の携帯ゲーム機を譲り受けてチョコチョコそれで遊び始めたり、Steamの存在を知って様々なゲームを開発するようになってからも変わることはなかった。

どんなゲームだって、完璧足り得はしない。粗いポリゴン。拙いプログラミング。ハードの限界。ズレた演出に穴のある筋、不自然なデザイン。そういったものは確かに存在していたはずだった。だが、そんな点は振り返らない。見返さない。美点だけが映し出され、長所だけが箇条書きされる。思い出は無敵の鉄壁となった。

それは、僕のデジタルゲーム人生を覆い、包み込んでしまう、偉大なる万里の長城だった。

 

そんな中。2016年10月下旬。

Nintendo Switchの第一報プロモーションビデオが公開された。カチン、という軽妙な音と共に組み合わされるJoyコンと、ノリの良い音楽は、実に僕の趣味と合っていた。興味が増して、見てみることにした。ゼルダ。カチン、スカイリム。カチン、なんか知らんバスケットボールのゲーム。カチン、僕のクソ苦手なマリオカート。「ふーん」と思いながら見ていた。面白そうだね。でも大丈夫。僕にはグレートウォールがあるから。そう思っていたら、カチン。そこにマリオがいた。三段ジャンプをしていた。僕の胸に沸いたのは、渇望だった。実に奇妙な感覚だった。僕には無敵の万里があるはずだった。サンシャインにもギャラクシーにも、あろうことかDSリメイクの64にさえ、その壁は一切揺るがなかった。なのに。どうしてか。ジャンプしてるマリオが、欲しくてたまらなかった。ビデオを見終わるころには、僕はSwitchの購入を決めていた(PV時点では、スプラトゥーンに対する印象は「ああ任天堂はやっと二画面とかいう遊びにくそうな方向性を一旦脇に置いたんだね」というのと「相当Esportsやりたいんだね」という程度しかなかった)。

 

僕は続報を待った。しばらくして、どうやらローンチでマリオは出ないらしいと聞いた。ガッカリしながら、それでもSwitchの大層な人気振り、売り切れの連続に慄き、マリオが出ても手に入らなかったら嫌だったので5月に入る前にSwitchを入手した。

また僕は待った。その間に12スイッチ、ゼルダの伝説BotW、ARMS、スプラトゥーン2と僕の人生の中でも一、二を争う頻度でコンシューマゲームを遊び、その面白さに童話酸っぱいぶどうを思い出しながらも、やっぱり3Dアクションゲームはマリオ64だよねという感は拭えないまま、数々の先行プレイ動画を見ながら首を長くして待ち、ようやく。2017年10月27日の午前0時過ぎ。僕はPUBGからログアウトして、マリオオデッセイを始めた。

マリオオデッセイは面白かった。でも64じゃなかった。楽しみながら、まだ僕は壁の中にいた。なんか違うんだよな。結局、64じゃないんだもん。マリオの声優は老けてるしさ。

そうこうしていると、64みたいな部分が見えてきた。64みたいなマップが出てきた。64みたいな演出が出てきた。

楽しいなあ。面白いなあ。しかも凄く64をリスペクトしてるなあ。僕はうれしくて、泣きそうになりながらも、でも64じゃないから壁の中にいた。ムーンを集めて、人生で初めて、3Dのクッパを倒した。ムーンを集めて、全マップを解放した(多分)。ああ、楽しい。まだまだムーンはある。取れるものも取れないものもあるだろうけど、まだしばらくこのゲームを楽しめるだろう。そう思いながら、しみじみこのゲームの主題歌を聞いた。僕は歌をただ聞くだけじゃなく、歌うのも大好きだから、歌詞を探してきて聞きながら一緒に歌った。

そしたら、僕の壁が砕け散った。

何故砕けたか、というのを語ることはまだ出来ない。この歌詞が、それだけ深く僕の心に刺さったからだろうとしか、今は思いつかない。ただ一つ確かなこと。この歌は、マリオオデッセイを曲がりなりにも遊んだ僕が歌って初めて、僕の中で完成した。

 

 

思い出は美しく、到底太刀打ちできない。マリオが生み出したそんなゲーム体験を打ち砕いたのは。結局のところマリオだったという、それだけの、とてもくだらない話。それでも、「Jump Up, Super Star!」を、歌詞ガン見しながらたどたどしく歌ってみて、僕の胸に突如溢れた感情は。どんな宝石の煌きよりも、輝いて見えたのでした。

BIOSHOCK INFINITE

「娘を連れてくれば、借金は帳消しだ」

 

BIOSHOCKは非常に有名な作品らしいのだが、昨日まで名前すら知らなかった。購入したのはSTEAMでシリーズ三作がまとめて15ドルと大安売りだったのと、某所で強烈にお勧めされたからだ。どんなゲームかもまったく知らないまま、意気揚々とBIOSHOCK1に挑戦した僕はそのホラーテイストに開始20分で完膚なきまでに叩き潰され、twitter上で弱音を吐いていたところを親切な人たちに「INFINITEは全然雰囲気違うからそっちからやるといいよ」とお勧めされて慌ててこちらをDLした次第。

まず彼らに感謝する。僕はあまりコンピューターゲームに慣れていないので死にまくったり迷いまくったりしてプレイ中はかなりイライラした場面もあったが、そんなものを吹っ飛ばすほどストーリーが面白かった。すばらしい。まさにドンデン返しという他ない。新たな情報が人物の立ち位置を変える。文章の読み方を変える。ゲーム中ずっと「ああこれ最後にエリザベス死にそうだなぁ」と思っていただけに、あのラストには一際驚かされた。二周目を強く勧める人が多いのも頷けるというものだ。きっと一周目は必死になっていて見落とした様々な真実の断片があることだろう。

また、キャラクターが非常に魅力的だった。ゲーム中、事あるごとに登場してまるで「アリス」の登場人物のように意味深で愉快な会話を繰り広げる二人のルーテスはこのゲームで最も好きなキャラクター達だ。囚われの少女エリザベスは髪をバッサリ切り落としてから馬鹿みたいに可愛くなり、敵に再び捕らえられ狂人が山のようにいる研究施設っぽいステージを一人で攻略しなければならなくなった時に「いやここでやめるわけにはいかないだろ! エリザベスが助けを待ってるぞ!」となけなしの勇気を振り絞る事ができた。

これだけ面白いとなると、BIOSHOCK1、2にも非常に期待できる。できるのだが……怖い。怖いのはどうにも苦手だ。だが面白そうだ。このせめぎ合いが僕をとても困らせている。いつかやろう。そのうちやろう。