スペース☆ダンディ第十二話

「一億ウーロンあったら何します? 僕もう働かないですね~。昼間っからビール飲んでゴロゴロ寝て暮らしますね」

 

どんなものにでも成り代わることができ、誰も本当の姿を見たことがないカメレオン星人。しかしその実、カメレオン星人本人すら本当の自分を失ってしまったのだった。

前回に引き続いてのSF的展開。とはいえ、「自分は本当に自分なのか?」という実に古典的な疑問であり、今までのスペースダンディと比べると些か大人しい印象。鏡に向かって「お前は誰だ?」というアレと、スワンプマンのない交ぜ。

そういう点よりも、今回はキャラクターがとても可愛らしかった。釣りに嵌ったQTが絵日記つけて専門用語バリバリで喋り出すのとか、ミャウの「怒られちった」とか。QTが最初右手でリール巻いてたのが途中から左手になってたのは何か意味があるんだろうか。後、会話のテンポがかなり向上されているように感じる。カメレオン星人が混じって四人になった後半は特に。

そう。キャラクターと小ネタが光る回だった。宇宙でラジカセ使ってカセットテープ聞いたり、「吉川じゃねぇ!」とか。前回の予告はこういう事だったのか。ダンディクイズとか。ダンディクイズで微妙に口角あげるQTがまた可愛い。

ダンディクイズでの問答を見る限り、カメレオン星人は人格ごと記憶をまるっとコピーしつつ、完全な同一化はしていないようだが、恐らく自分が取り込んだ他者の記憶と自分自身の記憶に明確な区別が出来ていないのかもしれない。9Sにそんな敵が居たような居なかったような。まあとにかく、自分が変身したカメレオン星人なのかそれとも変身された対象なのかがあやふやになっていくようだ。

 

しかし、偽者よりオリジナルの方が劣っているというのが真偽の決め手になる作品は数あれど、偽者を選ぼうとするのはちょっと見ないな。挙句「自分が二人居ても大して困らない」という結論にたどり着く作品は初めて見た。次で最終回とは名残惜しいが、分割2クールらしいのでまあ気長に待とう。

聲の形第三巻

“私”“声”“変”? 「うん・・・」

 

やっぱコイツの漫画の描き方おかしい(褒め言葉)。

植野が鞄から尻尾取り出したシーンでもう目が釘付けになってたのに、次のページ大写しでネコ耳装着とか、やばいよ。どういう発想だ。

昔仲良かった少女が仲違いして疎遠になってからもまだ少年の事が好きだった、って書くとすごいテンプレなのに、料理の仕方が違うのだろうか、ページをめくるたびに驚きがある。そうだな、むしろありふれた設定を使っているからこそ、違いが際立っているのだろう。

書いてて思ったが、これ構図としては「石田と西野」と「植野と石田」は同じなんだな。当人はまったく気づいてないけど。

昔一緒になって苛めてた仲間が、よりにもよって苛められっ子に奪われて泣いちゃう植野がとても可愛い。嫌いと明言されて、でも昔みたいにバカみたいな罵り合いが出来ただけで笑顔を取り戻してしまうのだ。いじらしすぎる。多分報われない。悲しい。

 

そして、三巻のトリを飾り、それまでの全てを吹っ飛ばした二十三話。

「うき」「ちゅき」を月だと認識するのは、まあ良い。ちょっと面白かったし、妥当な発想でもある。だが頭上の月を見て「ああ、キレイだね」は反則だろ。ずるい。ズレてるのに噛み合い過ぎている。しばらく笑いが止まらなかった。

SAVING MR.BANKS

「僕たちにはケルト人の魂がある。ここにあるものは全部幻だ」

 

「ウォルトディズニーの約束」を見た。映画「メリー・ポピンズ」の制作秘話。原作者P.L.トラヴァースとウォルト・ディズニーによる、許しの物語。

「メリー・ポピンズ」は僕の大好きな作品だ。これと「チキチキ・バンバン」、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」、「サウンド・オブ・ミュージック」が子供の僕にミュージカルの楽しさを教えてくれた。その「メリー・ポピンズ」にまつわる話となれば、何を差し置いてでも見に行かざるを得ない。

なにより、その大きな魅力である歌やアニメーションに対して原作者が否定的だという構図は興味をそそる。ウォルト・ディズニーがこの一見してわかるほど気難しそうな女性をどう説得するのか、実にワクワクしながら見に行った。

そして、衝撃である。結局、ウォルト・ディズニーは彼女を説得できなかった。同じ経験をした自分を「信じてくれ」と言う事しか出来なかったのだ。

そこに、この映画の妙がある。

P.L.トラヴァースは最後まで、映画「メリー・ポピンズ」に諸手を挙げて賛成する事はない。それでも、彼女はきっとこの映画を気に入ったのだろう。完成披露での涙は、決して「アニメが酷かったから」だけじゃないはずだ。まあ本当にそうも思っていたかも知れないが。皮肉屋で、傲慢で、素直じゃない。実に古き英国人らしい人物像だ。

そしてまたこの邦題が憎い。ウォルト・ディズニーの約束。ウォルト・ディズニーは何を「約束」したのか? その一つの答えが原題「Saving Mr.Banks」なのだ。邦題を誰がつけたか知らないが、良いセンスをしている。原題もとても素晴らしいが、日本人には「バンクス氏」と言われてもイマイチピンとこないだろうし、意訳にも限度がある。一方で、ウォルト・ディズニーを知らない日本人はほとんどいない。邦題で足を運び、作品を見て、そして原題に立ち返る。これならば、きっと「メリー・ポピンズ」を知らない人にだって、両作品の素晴らしさが伝わる事だろう。

 

「メリー・ポピンズ」を見た事がある人は、是非見に行くべきだ。「メリー・ポピンズ」を見た事がない人は、まず「メリー・ポピンズ」を見てから、見に行ってほしい。

そして、いずれにしてもこの映画を見終わった後は「メリー・ポピンズ」が見たくなるのだ。僕は雨が上がったらビデオ屋さんに行く。

スペース☆ダンディ第十一話

「箱の中身は、見た者の記憶を操作する禁断のビデオテープであり、この後禁断のカセットテープや、禁断のレーザーディスク、禁断のフロッピーディスクが入り乱れ、銀河系全体を巻き込む大戦争に発展するのだが、その記録は残念ながら残されていない」

 

人が情報を紡ぎ出すのではなく、情報が人を操作する。人は自ら望んで本を書くのではなく、本に望まれて筆を取るのだ、というお話。本を書かずには生きていけない類の作家らしい脚本だ。

この話、時間軸にミスリードが存在しているような気がするのだが、うまくまとめる事が出来なかった。まあ大まかに書くと、箱の中を時間順に並び替えると「紙」→「VHS」→「空」という風に流れているのではなかろうかというような話だ。

アレテイラ館長がDr.ゲルを利用して得た「知ると死んでしまう知識」に決して到達できない事がダンディの力の秘密なのだろうか。あるいはまったく別のものなのだろうか。

ゴーゴル帝国の監視カメラの映像が凄い好きだ。あの絵柄で三十分やってくれないだろうか。やってくれないだろうな。

 

何故感想がここまで散文的で纏まりがないのか自分で考えてみたが、恐らく「サルでも分かる宇宙の秘密」ちゃんが池波正太郎ファンだったという衝撃が強すぎたのではなかろうか。火付盗賊とか急ぎ働きとか完全に鬼平犯科帳じゃないか。何故鬼平をチョイスしたんだ。脚本書いてるとき手元にあったのか? もちろんこの十一話という作品自体も一番最初に述べたようなSF要素は面白いし、演出も気に入ってるのだが、もうその事が気になって気になって、ほかの事に意識があまり向けられなかった。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

「まだわからんかね? 救済はどこにもないのじゃ」「じゃ、これはなんのためなんだ? あんたはなんのためにいるんだ?」「あんたがたに示すためじゃよ。あんたがたが孤独でないことをな」

 

フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだ。ディックは昔何かを読んだ気もするのだが、何分僕の記憶というのは他人の五倍~十倍は当てにならないので信用ならない。この小説だって読んだ覚えがあったのにいざあけてみたらまったくそんな事はなかった。もしかすると春樹の「羊をめぐる冒険」と勘違いしてたのかも知れない。だとしたら重症だ。

 

話を戻そう。この小説を読んで、僕は謝らなけりゃいけない気がしている。この小説を好きな人間にだ。

確かにこの小説は面白かった。賞金稼ぎリック・デッカードとアンドロイドであるレイチェル・ローゼンの間に芽生える何がしかの感情にまつわる話でも、特殊者イジドアが三人のアンドロイドと交流しながら彼らを守り匿う話でも、共感ボックスによるウィルバー・マーサーとの融合の真相を巡る顛末でも、どれもが一級品の物語となるだけの強度を持ち合わせている。特に「マーサー教」の欺瞞を暴き喜ぶアンドロイドと、それでもなおマーサーを感じ、共感する人間という構図は、キリスト教に限らないのかも知れないが、とにかく生まれた時から宗教の中で生きてきた人間ならではのものを感じた。なんといえばよいのだろう。無数に繰り返される「奇跡の否定」を受けてなお、「神を信じ続ける」という選択を選ぶ理由のようなものが、少しだけわかったような、そんな気がする。

そして、この作品で僕の目に一番留まったのがガーランドのエピソードである。リック・デッカードとガーランド、果たしてアンドロイドはどちらなのか? 映画「トータル・リコール」にも似たようなシーンがあったのを記憶している。シュワルズネッガーが主演した方しか見ていないが。

さあ告白の時が来た。白状しよう。あのシーンを読みながら僕の脳みそは安部公房で埋め尽くされていた。

そこから先はある意味で地獄だ。もちろん別の意味では天国だが。この小説の素晴らしさを見出せば見出すほど、より一層、安部公房という小説家が、まるで地平に広がる山のように僕の心の中に聳え立つのだ。本を読んでいるとつくづく己の不完全さや傲慢さを思い知らされる。ああそうだ。僕は本を読むときは一事が万事安部公房だ。あの人の小説が好きで好きで仕方がないし、近いにおいを感じるともういても立ってもいられなくなって、トリュフを掘る豚さながらに必死になって似ている場所を探す。

いや、しかし似ているとは思わないだろうか。両者の本を読んだ人間ならこの感情がわかってもらえる気もするのだが、あるいはこれすらも僕の妄想なのかもしれない。だが、たとえ妄想だろうが思い込みだろうが浅慮と無知の結果であろうが関係ない。

とにかく、僕は「やっぱり安部公房ってすげーわ」という、小説家にも、この小説を好きな人間にも非常に失礼な感想を抱いてしまった。それをお詫びする。ごめんなさい。

その上で厚顔無恥にも言わせてもらうが、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで、「人間そっくり」を読んでいない人がいたら是が非でも読んでほしい。そして、もしも僕に感情移入してくれるのであれば、これ以上の事は無い。