ローリング☆ガールズ 第七話

「お迎えが来たみてえだ。帰りな」「でぇ? 結局何ィ、歌わせたかっただけ?」「清水寺ロックエクスプロージョン。俺も盛り上げてやるよ」

 

京都編。なんだ今回。なんだ。可愛い。可愛いしか感想がない。

まずアバンが目ん玉飛び出るほど可愛かった。何故京都を目指して十津川に着く。本編も特にストレスになるところも感じず、バトルでのキレッキレの動きや、めちゃくちゃキャラの立ってるご当地モサ(可愛い)を見てるだけで楽しかった。1話を思い出す感じだったな。

 

ちょっと考えたけど可愛い以外感想がない。今迄で一番可愛い。これがこれまでの6話という積み立てによって辿り着いた感情なのか、それとも単体で見ても戦えるレベルのものなのか、そこは杳として知れないが、とにかく、可愛かった。

ローリング☆ガールズ 第六話

「ゆきっぺ!」「千綾ちゃん!……良かったぁ……」「ほら見ろ、ちゃんと帰ってきたじゃん」「はい、私、方向音痴とかじゃないんで」

 

今回は今までに増してベタにベタを塗りたくったような話だった。だが分かっていても笑ってしまう事もある。この辺のさじ加減が何で決まっているのかはさっぱり見当がつかないが。

というか石、鈴鹿も持ってたのか。先週ちょっと考えたのがご破算である。幼いころ石を交換した男女が年頃になって再会……しかも片方は敵国のリーダー、とかここだけ切り取ったらそれだけでメロドラマにできそうだな。その辺をあくまでもゆるく、ほんわかと、それでいて毒気のないわけじゃない状態で使う。このバランス感覚はとても気に入っている。

驚いたのが「このアニメ三重の事悪く言いすぎ」みたいな意見がtwitterで見られた事だ。思い返せば3話4話のオールウェイズ・コミマの回も異様なほど双塔騎士団の団長が叩かれていたな。確かに良い人のとる行動じゃないし、短絡的でもあるが、あそこまでクズだの胸糞悪いだの書かれるほど悪逆な行為をしているようにも思えなかった。今回もそうだ。アニメは別に三重の事を悪くなど言ってない。ただ、三重と愛知が争っていて、カメラ(主人公)が愛知側にあるから、愛知側の意見が前に出ているだけだ。キャラクターの発言であり、当然その物言いも自分本位なものになっている。まさに1話のナレーションで言われていた「身勝手な利欲」がむき出しになっているに過ぎない。という事にすら気づいてないとは思えないので(その穴だらけな理屈で批判されている事に気分を害しているのだろうし)、もしかするとその身勝手さが「意図されたもの」であるという受け取り方をしていないの知れない。

 

そんな事より。挿入歌にTRAIN-TRAINが流れたのである。「TRAIN-TRAIN」「青空」「情熱の薔薇」の三択で最終話に流れる曲を予想している人がどこかにいて、僕もありえるなぁと思っていたが、まさかTRAINをバイクレース中に流してくるとは。思ってもみなかった。勿論、ワンフレーズ目が入った瞬間テンションがバコーンとあがった。だが正直、二人目が歌い始めた時はおいおい、とブレーキがかかったのも確かだ。ソロパートを順繰りに回していくのでちょっと誰なのかはわからないが、あまりにも「声優っぽい」歌の歌い方だった。やめていただきたい。そして、三人目。めっちゃくちゃ舌足らずに歌う所で、なぜか僕は「よし! オッケー!」とまるっと許容出来る心持ちになった。なってしまった。自分でもまったく理由がわからない。本当に気分ひとつの部分だと思う。ちょっと見方が違ってたら「何あざとい歌い方してんだよボケが」となっていただろう事は想像に難くない。だが、受け入れてしまったから仕方ない。ああ、早くカバーアルバムが欲しい。でも欲を言うなら、やっぱりあの声優声優した歌い方じゃない、もうちょっと別の歌い方をしてくれないかなぁ。

SNATCH

「あいつに弾丸をぶち込んでこいよトミー。……銃を投げたほうが効くかもな」「オレには撃てないと言うのか?」「“撃てない”と言おうが言うまいが撃てないだろ」

 

ジェイソン・ステイサム主演「スナッチ」を見た。友達に「バッカーノが好きなら絶対楽しめるから見ろ」と薦められ、ドンピシャリ。めちゃくちゃ楽しい映画だった。

86カラット(だか84カラットだか。何故か途中で縮んだ)のダイアモンドを巡る……ヤクザもんというか、悪人というか、うぅむ、言葉にすると実に陳腐になってしまうが、とにかく真っ当ではない連中の群像劇である。アホくさく、小気味よく、そして適度に刺激的な会話は実に僕の好みにマッチしていた。

演出が素晴らしい。カメラをくるくる回転させながら強盗達の顔をかわるがわる見せていくあのシーンだけでもう引き込まれた。物が登場人物たちの間を流れていくOPは見ていて楽しいだけでなく、見事にこの映画自体を現していたし、またあの短い時間でしっかりと人物たちの特徴を描いている。そんな中でも僕が好きな演出は、兎狩りと逃がし屋タイロンの追跡を合致させたシーンだ。二匹の犬に追われる獲物。無理なく、同じ構図を両立している。そして何より、片方の展開がもう片方の展開を予想させる。本当に素晴らしい演出だった。

シナリオとしては若干えげつない所もあるが、そういうシーンをちょくちょく挟みながらも全体としてはコメディーに仕上げている。登場人物の多さに見始めは面食らい、多少の混乱を生むかもしれない――ちなみに僕はフランキー(ベニチオ・デル・トロ)の変装した顔がブラッド・ピッドにしか見えず、そのせいで多少以上の混乱が生まれた――が、皆個性的なので、直ぐに見分けられるようになるはずだ。

ローリング☆ガールズ 第五話

「だってほら、シャチホコって変じゃない。ブサイクだしさ。可愛くないよ。えびぞってる意味もわかんない」

 

4話でうえええーとなっていた僕を爆笑させてくれるとは思っていなかったので、物凄く驚いた。やれば出来るじゃねぇか! こんな感じの空気、ノリ、テンションで是非最後までお願いしたい。

今回のバランスは良い。2話に近い。どこを切ってもコミカルで、笑いながら見ていられるため話がゆったりと進んでもあまり気にならない。一喝とともに爆発する町中のシャチホコとか笑わずに居られるか? まあ、爆発ネタが二回続くのはちょっと問題かも知れないが、いっそ全国各地で巻き起こる爆発事件とかだと面白いか、とも思った(これはないだろうけど)。笑いどころで笑って楽しんだ分、感想が書きにくくなるのは……それはそれで困るのだが……楽しめたから良しとしよう。毎回怒りのブログ更新をしていると疲れる。

タイトルも、今までで一番嵌っている。勿論、これまでも沿ってはいたのだが、むしろタイトルに負けていた。今回はピシャリ、と話に合っている。「期待はずれの人」抗争を望む両団員にとっての団長であり、そして魚虎姫子の自分自身に対する評価でもある。

「サーキットの星」の持ち主は名前的にも因縁的にも三重モーターズ団長の持ち物だろうか。石が人に力を授けるのは確かだと思うが、その力を受けられる範囲が具体的にどのようなものなのかがまだ見えてこないな。所持している間、なのか、「その人間のもの」である間なのか。

千綾がタコになったのはくたびれた事のアニメ的表現かと思ったが、冷蔵庫に入れておけ、とか作中でも異物として扱われているのを見ると何らかの意味があるのだろう。これでタコ焼きが好きな女の子がタコになる、というだけのギャグ表現だったら驚くぞ。

EXODUS GOD AND KING

“Who are you?” “I am.”

 

リドリー・スコット監督の「エクソダス 神と王」を見た。旧約聖書に記された出エジプト記。紅海を割り、イスラエルの民を約束の地へと連れて行った預言者モーゼの物語。

 

この映画は、余りにも「今」に酷似している。

映画の中でモーゼはヘブライ人に説く。「数が多ければ、軍を一つにまとめ、敵の心臓を食らえ」「数が少なければ脇から相手の補給路を叩き、血液を止めろ」これにヘブライ人が問う。「補給路とは兵糧の事か」モーゼの答えは、「財産。食糧。そして安全だ」相手の民を動かすことで為政者を止める。まさに、ここ50年間、世界各地で発生している戦争だ。大国は常に圧倒的火力で以って敵の心臓を叩こうとするが、ゲリラの心臓は未だに見つからない。そして、いつしか戦争継続が困難な状況が、大国内部で生まれる。

「戦争は変わった」。正しく、戦争は変化した。軍事力の増強と経済的結びつきが行きすぎ、もはや大国同士では武器を持ち出す事が出来ない。今の流行りは「テロとの戦い」という奴だ。この映画で描かれるのは、まさにこれである。圧倒的優位に立ち、モーゼという心臓を狙うエジプトと、奴隷としてひたすらにゲリラ作戦、テロ行為を繰り返し、血液を止めようとするヘブライ。その争いは苛烈を極めたが、複数の天災に見舞われたエジプトが遂に折れる。テロリストが勝利を収めたのである。

結果、どうなったか。彼らはエジプトを支配したか? エジプト人を奴隷にしたか?

否。ヘブライ人が得たのは自由。約束の地に向かう事が出来るようになっただけだ。「退く余地が出来た」というにすぎない。逆にエジプトが勝利を収めていたなら、何を得ただろうか? 答えは、「ヘブライ人からの攻撃で失われていた安全」だ。これなら出て行ってもらっても得られる。しかも、四十万の奴隷を失う事に変わりは無い。

戦争は変わった。Exactly。戦争は変わったのだ。「テロとの戦い」は土地の奪い合いではない。大国とテロリストでは、勝利や敗北の定義も、その際に得るもの失うものも、何もかもが違う。

僕はあらゆるテロ行為を肯定しない。だが、テロ行為を行う人間を否定出来ない。碌な理由もなく武器を使い、大した意味もなく他者を殺める。そんな事をするのは得てして余裕のある者だ。余裕のない者が武器を持つ。余裕のない者が他者を殺す。それは、もはや彼らが「限界」に辿りついたと言う事だ。それ以上退く余地が、何処にも残されていないと言う事だ。

強い者と弱い者が戦えば、前者が勝つ。しかし、退く余地のある者と退く余地のない者が戦えば、後者が勝つだろう。何故か。この闘いの結末は前者が退くか、後者が滅びるしかなく、世界各地の先進国がその身を以って証明してくれているように、敵を滅ぼすのは困難を極めるからだ。

「テロには屈しない」9・11からこちら、この言葉を聞かない年はない。だが、この考え方は危うい。大抵のテロリストには、とっくに退く余地なんてない。あれば自爆テロなどしないだろう。だから、僕は主張する。「強者が退くべきだ」と。屈服しろとは言わないが、譲歩した方が良い。相手が弱者であるうちは押せば押すだけ旨みがあってよかろうが、それがいつ退く余地のない者になるかはわからない。そんな連中を相手に泥沼の戦いをするのが為政者にとってどのぐらい魅力的なのか知ったこっちゃないが、そんなもんに巻き込まれるのは御免蒙る。僕は殺す者にも殺される者にも、絶対になりたくない。

 

 

しかし、3000年の長きに渡り虐げられてきたイスラエルが、立場が変わればあっさりパレスチナ人に同じことをやるのだから人間と言う生き物は業が深いものだ。