Cyberpunk: Edgerunners

「俺には言ってくれないんだね。”できる”って」

 

 

CDプロジェクトの最新作「Cyberpunk 2077」を原作としたオリジナルアニメーション、「サイバーパンク:エッジランナーズ」を見た。監督は今石洋之、制作はトリガー。

 

正直な話、トリガーのアニメを見る気はなかった。サイバーパンクジャンルとなれば、なおさらだった。僕はいまだにニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨンのアニメの出来に対する怒りを抱えている。

だけれども、見た。そして、この作品は間違いなく面白かった。なので、そういう話をしていく。

また、僕は原作のサイバーパンク2077を知らない。このアニメを見て、購入したばかりだ。だから、原作の話はしない。

 

とは言うものの、僕はこの作品の面白さに言及しようとして、思わず臆してしまった。それは余りにもシンプルで、余りにも短文だった。一行で書いてしまえるようなことだった。

言ってみようか。

「ただ一人彼が特別だと知っていた女と、ただ一人彼が特別だと信じていた男」。

こうだ。これが、僕にとってのエッジランナーズの核。面白さの真髄。魅力の最たるものだと断言できる。

「こんな短い感想ならツイッターで呟いてろ」と、思う人もいるかもしれない。だが、この感想は余りにも作品内で描かれた文脈に丸乗りしていて、ただ一言ぽつりと呟いても、理解してもらえるかは非常に疑わしい。彼って誰? 女と男の具体名は? 特別ってどういうこと? まあこの辺は作品を見ていれば分かってもらえると思うが、重要なのは固有名詞じゃない。

“そうだとして、なんでそれが面白いの?”

この問いに答えられなければ、それは感想ではない。僕が何かを感じたとき、感じたものをただ己の情念のまま表現すると、時にそれは「ウオオォオー!!」や「グワアアァー!!」と言った絶叫になる。「なんでー!??」という驚愕になる。それは、反応ではある。だが、誰も理解できない。その作品に既にふれた人が仮に共感してくれたとしても、意味は分からない。どの部分に、どんな理由で叫んだのか? 何を、どうして驚いたのか? 作品の中からその具体的なポイントとして指摘し、その理由を伝えなければ、それは感想ではない。

なので、僕はこの場を使って、僕自身の思考を整理する。その上で、うまく僕の抱いた感想に着地させられそうな展望が見えたらそこにソフトランディングすれば良いわけだ。逆に、なにも思いつかなかったらただひたすら駄文を並べ立てた上で「それはそうとこの作品は○○が面白かったですね」と唐突に締めの言葉が入って終わる、どうしようもないものになるだろう。当然、前者は感想だが後者は感想ではない。

果たして、僕はエッジを超えられるだろうか?

 

さて、僕の思考の整理のために。「この作品は、どういうジャンルなのか?」を考えてみよう。ジャンルが分かるということは、その作品の目指した方向性が分かるということだ。過去に存在した数多の作品群は、必ずこの作品の作り手にも影響を与えている。そして、作り手は望むと望まないとに関わらず。必ずそれらの先行タイトルへの目配せを作品の中に仕込む。そう言った目配せが、僕にとってどう解釈されたのか。そこを、見ていこう。

エッジランナーズは、いくつものジャンルを兼ね備えた複雑な構造をしている。まずはタイトルにもあるようにサイバーパンクだ。機械化された人類、強大な力を持つ企業、そしてサイバー空間に有機的に接続され交わされるコミュニケーション。そういったSFガジェットが、しかしまだ“全てを覆ってはいない”時代。そうでなければ、サイバーとは言い難い。宇宙への植民が本格的に動いているとどうしても舞台が宇宙空間になってしまってスペースになるし、企業が個人を完全に屈服させてしまうとディストピア物や軍記、戦記物の色が強くなる。サイバー空間の取り扱いだって、その世界の中でも新参の技術として扱わなければ、受け手たる僕にとって魔法と変わらない存在として認識されファンタジーのように受容されてしまうのだ。

サイバーのサイバーたる所以。そこには僕たちと同じように人間が暮らし、僕たちが新しいPCやゲーム機、自動車にスマートフォンといったガジェットを手にする様にインプラントを入れ、データをダウンロードしているのだという、「ほどほどの未来」。そして、僕たちの世界でFAXが残り、レコードが売られ、石炭が発電所を動かすように、その世界でも僕たちの旧知の技術が現役で動いているという「ほどほどの地続き」。現代から、半歩はみ出す感覚……これこそ、サイバーだと言えるだろう。

そして、パンク。パンクってどういう意味だろうか? 検索すれば「反体制」や「攻撃的なファッション」みたいな言葉が出てくる。元々は「不良」という意味だったらしい。そう聞くと、映画版のAKIRAで金田が言う「デコ助野郎!」が、英語翻訳だと「Punk!」になっていたのを思い出す。まあ恐らくは、パンクロック、からの転用としてスチームパンクが生まれ、その後継というか別技術主体の派生ジャンルとしてサイバーパンクと呼称されるようになったのだろう。

この、パンクの部分が、エッジランナーズという作品を読み解くにあたって極めて重要であるように、僕には感じられる。とりわけ「攻撃的」って部分が。

確かに、サイバーパンクジャンルは大抵ろくでもない企業や、狡賢い統治者が登場する。奴等は時に緩やかに、時に苛烈に、様々な手段を使って民衆を、住民を、人間を締め上げる。支配し、屈服させ、コントロールしようとする。大抵の場合、主人公はそれに抗う側だ。(たとえ、主人公が体制側の組織に所属していたとしても)。理不尽な支配に抵抗し、自由を求める。

だが、一人で、ではない。皆で、支配を打倒するのだ。

サイバーパンクは、革命の文脈だ。自分だけ企業の支配に嫌気がさして外の世界に出ていってはいメデタシメデタシ、では納得しない。お前も、こんな支配にうんざりしてるはずだ。あいつらがのさばってることに、耐えられないはずだ。奴等にだけ都合のいい価値観や常識に、囚われてちゃいけないはずだ。その上でパンクは、時にそうでない者を攻撃する。「何故お前達は自分達の上に横たわる支配に目をつぶるんだ!」という怒りが、パンクの、パンクたる所以。このアニメが単なるサイバー物でなく、明確にサイバーパンクである理由。

その最初の一歩が、死別した母親の期待を背負い、退学させられてもなおアラサカ・アカデミーに心を囚われていたデイビッドへの、ルーシーの発言にある。

「それって他人の夢じゃん」

ドキッとする発言だ。ギョッとする発言でもある。片親で、貧困の中、苦労して子供を良い学校に行かせてその将来に幸あれと祈り続け、唐突に死んだ母の願い。それを普通、ここまでザックリと切り捨てられるものだろうか?

確かに子供には明らかに合ってなかった。学校では虐められ、生活は困窮し、二人が互いに満足にコミュニケーションを取る時間もない。この状況を変化させる最も手っ取り早い方法が、「学校をやめる」にあることはかなり明白だ。しかし、相手への同情が、教育された道徳が、培ってきた常識が、それをそのままに表現することを阻む。内心では「学校やめた方が良いんじゃね……?」と思っていても、こんなに苦労してまで息子を良い学校に行かせてる親御さんに、そこまで酷いことは掛けられないよな……とセーブする。それが、普通だ。

ただでさえ、僕達は見ている。洗濯機も停止するほどの困窮状態に、ベッドで眠る余裕もなくソファで仮眠をとっている母親。何もかもを犠牲にして子供のために生きているそんなグロリアの、涙ながらの言葉を聞いている。子供のうちは押しつけがましくも思える親の愛情の、その尊さを。得難さを。人生の中で知ってしまった僕達にとって。

「じゃあ、あたしは何のために働いてんのよ。あんたのためにと思って……」

という、彼女のセリフは余りにも重い。それを前に「テメーの自己満のためだよ!」と言えるほどの非情さを、僕は持たない。当然、デイビッドも持たない。それが、普通だ。

そんな普通を踏みつけにして、相手を閉じ込める檻をぶち壊す。これこそ、パンクの持つ「攻撃性」、その発露だ。常識、道徳、普通。そんなもんに遠慮して丸め込まれることを、断固として拒否する。トンガって、研ぎ澄ませて、相手に己の思想を、理想を、願望を共有させる。「俺とお前は違うが、俺は俺、お前はお前だよな」すら許さない。「お前は間違っている。お前も、俺のようになれ!」という、過激なメッセージ性。パンクというジャンルの持つ特徴が、このセリフには凝縮されている。

そして同時に、この攻撃性によってパンクは大いなる矛盾と直面する。相手を正し、自らに沿わせるその攻撃性は、とどのつまり、「社会性」や「道徳」、「常識」と同種の物なのだ。そんなもんくだらねーぜ! と相手を檻から解き放とうとする限り、パンクは「今まで培ってきた常識なんて捨てろ!」という「新たな常識」の、極めて熱心な教育者にならざるを得ない。

穏やかで緩やかな支配に対する極端で過激な抵抗は、大衆の支持を集めない。これは、恐らく過去も現在も未来も変わらない構図だろう。だから、サイバーパンクは敵を強大化させる。理不尽で、強引で、暴力的で、非人間的な「企業」を向こうに回し、「耐えられない」と思うに足る十分なシチュエーションを構築する。

今回であれば、それは母の死と、学校と言う名の社会からの追放だ。金銭的な問題を抱えつつも今の生活を保障していた存在と、多大なる苦痛を負わせながらも未来への希望を与えてくれる存在。現在と未来の拠り所を粉砕し、デイビッド——および、その背後にいる僕——を追い詰めた所に、極めて魅力的な美少女を登場させて鼻の下を伸ばさせ、間髪入れず「親の期待」、すなわち過去の拠り所へと強烈な蹴りをお見舞いする。そんなもん他人の夢だと切って捨てる。かくして、デイビッドは「過去」、「現在」、「未来」、全ての繋がりを断ち切られ、しがらみのない新しい世界へと踏み込んでいく……はずだった。

そうならなかったのは、作品を最後まで鑑賞した人間なら誰もが記憶しているだろう。デイビッドは最期まで、「親の期待」を手放さなかった。

ここでは、そのことを記憶しておいてほしい。

 

続いて、エッジランナーズの兼ね備えたジャンルの二層目。それはノワールだ。フランス語で「黒」を意味するこのジャンルは、ギャングや犯罪者といった社会の闇の部分を主に取り扱う。このアニメがノワールの文脈に即していることを、否定する人はいないだろう。社会に適応できなかったはみ出し者たちが集まり、暴力によっていくつもの成功を収め、やがて社会の狡猾さのなかで押し潰されていく。ご丁寧にファム・ファタールまで登場するのだから、どこまで教科書通りの物作りをするのだと感心させられたものだ。ノワールの魅力、それはやがて訪れる破局の面白さであり、それは同時に、手段を選ばずに何かを為そうとした者たちに訪れる勧善懲悪への、倒錯した快感でもある。

犯罪者は笑い、無辜の人々が苦しむ。そこには一見すると、正義などないように見える。しかし、報いはある。誰が、どのように報いを受けるのか、それがノワールの面白さである。

駆け上がる階段は死刑台であり、羽ばたき目指す先は翼を溶かす太陽だ。だから、僕たちは安心してその非道を鑑賞することができる。悪党が何かを得て喜ぶ時、共にそれを喜ぶ。そして、悪党が血に塗れて死ぬとき、やはり僕たちはそれを喜ぶのだ。現実では複雑すぎて観測できない因果応報が、単純化されたフィクション世界では明確に機能していることを確認して。

冴えた射撃と強靭な肉体を持ち、頼れる仲間たちと厚い信頼関係を構築しているメインは、まさにこの作品のノワール要素を凝縮した存在だ。夢の頂を目指し、彼はわき目もふらず走っていく。良い兄貴分でもあり、強いリーダーでもあるそのキャラクター造型は、見ている人間の心を掴む。誰もが、メインに好感を抱くだろう。

サンデヴィスタンに適応し、しっかりと使いこなせるようになっても、デイビッドはメインの足元にも及ばない。青二才。半人前。ルーキー。そう呼ばれるに足る、差があった。デイビッドは少しでもその差を埋めてメインに追いつこうとするが、彼はその追随を許さない。

メインの死ぬ、その時まで。その関係性は変わらなかった。決死の覚悟で、死地に臨むつもりで、震えるからだを抑えて銃を構えるデイビッドに、メインは告げる。「お前にはまだ無理だ」

余りにも、無情な言葉だ。愛しのルーシーを置き去りにして、メインの横で死にに来たデイビッドに。メインは「生きろ」と言うのだ。「走り抜けろ」と。

泣かせるじゃないか。狂人が死の間際、チームの新入りを逃がしてやるという、そういう感動的なシーン……だったならばな。ここは違う。いや、確かに強く、頼もしく、カッコいいメインが、狂気に陥り、全てを喪い、盛大に、惨ったらしく死ぬという、展開的に極めて重要な山場であり、絵的にもアクション的にも映える素晴らしいシーンではある。泣ける描写にもしてある。だが、このシーンの肝はそんなお涙頂戴ではない。

メインの発言は、「デイビッド君はまだマックスタックを倒せないから逃げなさい」などという気づかいではない。サイバーサイコシスの症状として、彼の幻視する風景。無限に続くかに思われた道路の上を、痩せた男が走り続ける光景。汗が吹き出し、息せき切って、走り続けたその男は。道路の終端を前にして、ついに立ち止まる。

要するに、彼は走り続けられなかったのだ。

どこまでも行けるつもりだった。なにものにも遮られず、無人の荒野を行くが如く、目的に向かって突き進んでいるはずだった。

だが、そこにガイドラインなどなかった。頼れるものなどなかった。何もない世界。ひたすらに広く、どこまでも続くその世界を、ただ己の目的意識だけを頼りにして走り続けられるほど彼は狂ってはいなかった。

「俺はここで死ぬ。お前は生きろ」というセリフは、肉体的な生死ではない。道路の上しか走れない、俺のような半端者にはなるなという狂気の焚き付けだ。メインの願い。それは、足場も、ラインもない、無限に広がる荒野を、俺の代わりに走って欲しいという最悪のバトンだった。そして、デイビッドは確かにそのバトンを受け取った。メインの目の前で、デイビッドはいともたやすく道路の切れ目を越えて。荒野を駆けていった。逃げるためか? マックスタックから?

違う。彼は逃げるために走ったのではない。

 

サイバーパンクのジャンル分け。三つめは、ボーイミーツガールだ。少年が少女に出会うことで、これまでの平凡で退屈な世界が壊れる。少年は少女に導かれるようにして、物語世界で波瀾万丈な体験をする。またほとんどの作品はその過程で少年が少女に惹かれていく様子を克明に映し出すし、大体は少女もその思いに応える。

そんなボーイミーツガールに対して、僕は常々思う所があった。その結末に関してだ。ボーイミーツガールのラストは、少年と少女の別れであってほしい。その方が美しいじゃないか?

出会いと共に始まった物語は、別れと共に終わるべきだ。

それが、僕の美的感性だ。別に少年と少女のイチャコラが嫌いなわけじゃない。好きな作品はキャラクターへの思い入れも強くなる。二人の幸せそうな顔が、永遠の離別によって断たれる様は、僕の心を揺さぶる。別れのシーンは見ていて辛い。しかし、だからこそ美しいんだ。

そんな観点から言うと、エッジランナーズは素晴らしかった。思いがけない縁をきっかけに出会い、求めあい、愛し合った二人が、お互いの愛ゆえに時にすれ違い、しかし支え合って、お互いに保身など一切考えず、相手の身の安全とその生涯の幸福だけを望んで、その結果として永遠に断絶する。

余りにも、美しい展開だ。ボーイミーツガールという点において、この作品は完璧だったと言ってもいいだろう。

だが一方で、シンプルに考えたとき。この結末にはモヤモヤしたものが残らないだろうか? 結局のところ、「敗北して終わってるじゃないか」と。

狡賢く悪辣なフィクサー、ファラデー。アラサカの用心棒、生ける伝説、アダム・スマッシャー。精神と肉体の両方から、二人を引きはがし、叩き潰そうとする強大な敵たちに、二人は翻弄され続ける。結果的にファラデーの方はぶっ殺すことが出来たものの、アダム・スマッシャーに関しては全く歯が立たなかったと言って良いだろう。そんな事でいいのだろうか? ビターなテイストはこの作品にはよく似合っているし、ノワールという観点からは極めて真っ当な落着だ。だが、ボーイミーツガールというジャンルでは、こういう奴はぶっ飛ばしてくれなきゃ困らないか? 僕は困る。ぶっ飛ばした上で、格の違いを見せつけた上で、あくまでも少年と少女の関係性の終着点としての二人の別れがあって欲しい。

無茶言うなよ、と思うだろうか。アダム・スマッシャーは原作に登場するキャラクターだ。しかも、どうやらかなり重要なポジションにいるらしい。そんな奴をスピンオフ作品でぶっ飛ばすなんて、メアリー・スー紛いのこと出来るわけないじゃないかと。そう思うだろうか。そうやって、理解ある大人の顔をして、デイビッドの健闘を称え、ルーシーが助かった点を喜び、心の中のモヤモヤに「我が儘」とレッテルを貼って蓋をして、仕舞い込んでみせるのか?

 

パンクじゃないだろ、そんな態度は。この作品は、見事にソレをやってのけたというのに。

 

確かに。確かに、アダム・スマッシャーはサイバースケルトン装備のデイビッドを粉砕した。それはもう、紛れもない事実だ。フィジカルにおいても、クローム耐性においても。デイビッドは完敗した。

だからどうした。アダムが為せず、得られず、デイビッドだけがモノにしたものが確かにある。アダム如きには到底手に入れられない「特別」を、デイビッドは確かに有している。

 

それが「夢を叶える」ことだ。しかも、デイビッドが叶えようとする夢は「他人の夢」である。狂気としか言いようがないが、この作品で望みを叶える人間は彼しかいないのだから、彼を「特別」と呼ぶにこれ以上の理由は必要ないだろう。誰もだ。他の誰も、夢を、望みを叶えるものはいない。

権謀術数を尽くしてアラサカに入り込もうとしたファラデーは搬送中に滑落して脳漿をぶちまけた。

仲間を売って悠々自適にドロップアウトすることを望んだキウイはゴミ箱の裏で事切れた。

サイバースケルトンのデータを取ろうとしていたアラサカの連中は「それどころではな」くなった。

いつ頃からかデイビッドに惚れていたレベッカも、その想いが届くことはなかった。

「アンタ自身が生きてくれていれば、それだけで良かったのに」と絞り出すルーシーの悲痛な願いも、世界が聞き届けることはない。

皆殺しを高らかに宣言したアダム・スマッシャーすら、ファルコとルーシーを討ち漏らした。

 

凡人共、道をあけろ。デイビッドの「特別」さなしに、この世界で願いを叶えられると思うな。

 

メインが果たせず、彼に託した「走り抜けろ」という言葉。エッジの向こう側まで駆け抜けたデイビッドを見てもなお、それが果たされてないなどと言える人間はいないだろう。

「月に行きたい」というルーシーの言葉は、「行くだけならでしょ」を引き合いに出すまでもなく、言葉通りの意味ではない。要するに彼女は、「この世界」から脱出したかったのだ。光の檻、ナイトシティ。アラサカの手で無茶苦茶にされた自身の人生。サイバーパンクとして、デイビッドを新しい世界に連れて行った彼女が、しかしより一層強固に囚われて出られなかった「この世界」から、デイビッドは確かに彼女を連れだした。そうでなくて、誰が月面旅行などするものか。人生の上がりをとうに迎えた老人ばかりを積んだ、いかにもつまらなさそうなあんなツアーに。

そして、憶えているだろうか。デイビッドは最期まで「親の期待」を手放さなかったという記述を。アラサカタワーのてっぺんに立った、なんていう話じゃない。

「見返してやりたい」。グロリアがこの作品で、唯一口にした、「彼女の言葉」だ。傭兵と救急隊員の二重生活、母としての責務と我が子への期待。誰かへの謝罪と金の支払い。決して多くはない彼女のセリフは。どれも必要性に駆られている。立場に囚われている。そんな中で、この一言だけは、彼女の願望が窺える。果たして、偶然か作為か。デイビッドの行動原理はいつもここにあった。

カツオに殴られれば殴り返した。世間知らずのガキを相手にするような態度だったルーシーは、気が付けばデイビッドにゾッコンだ。メインにどれだけ洟垂れ扱いされても、一人前だと認めさせようとした(サイバーサイコと化したメインを相手に、マックスタックを目前に控えてさえも)。動くサンデヴィスタン置き場扱いをしていたリパードクも、いつしか彼を立派なエッジランナーとして認めた。極めつけは、アダム・スマッシャーを相手に意趣返しをしてみせた。

こじつけだと思うか? メインやルーシーはともかく、グロリアにそこまでの意味は与えられてないと?

そうかもしれない。

ただ、僕が自身の親への思い入れを反映して、その比重を作品の想定以上に肥大させてるだけかもしれない。

 

それでも、デイビッドはこの作品の中で唯一望みを叶えることができる、「特別」な存在だったという結論が揺らぐことはない。そして、ようやく僕の感想に立ち返ることができる。

 

“グロリアはこの世界でただ一人、彼が「特別」だと知っていた。デイビッドは自分が「特別」だとは知らなかったが、この世界でただ一人、自分がそうであると信じた。”

ああ、そうとも。これに尽きる。他にこんなに痛烈で、面白い要素があるか? この作品で?

 

「お前は特別なんかじゃない」と、デイビッドは言われ続けた。敵にも、リパードクにも、仲間にすら言われた。

 

「サンデヴィスタンで人より速く走れるからってもう一人前ヅラか?」

「人よりいくらか耐性が強いかもしれない。でもあなたは普通の人よ」

「せいぜい伝説って奴にでもなりな。ありきたりのな」

「こんな反重力装置がないと、一人で自分の体重すら支えられない小僧が! この程度で何者かにでもなったつもりか!?」

 

 

ざまあみろ、節穴どもめ。彼は、確かに特別だった。

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