「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」
伊藤 計劃「ハーモニー」を読んだ。伊藤計劃の小説は初めて読んだが、この小説は二十一世紀のSF、二十一世紀の小説の、ひとつのモデルケースであろう。いや、勿論今後百年間で小説界に何が起こるかなぞわかりはしないので滅多な事は言うものではない。より厳密に言うならば、現代文学の子供、そのモデルケースである。
この小説には様々な小説の痕跡がある。それでいて、そこに他意がない。負い目がない。気負いがない。必要だったから。あるいは手頃だったから。まるでそんな感じに、様々な小説の要素が埋め込まれている。これが、この小説の最も突出している点だ。
影響を受けた作品に対して、人は何らかの感情を抱かずには居られない。それは尊敬や羨望かもしれないし、嫉妬かもしれない。あるいは憎悪とか、軽蔑とか、それはわからないが、人は必ず何らかの感情を抱くし、その感情がその作品への態度を決定付ける。だが、この作品にはそれがない。
何故か。
それは、作者が作品に変えられたのでなく、作品によって育まれたからだ。
自分が今まで積み立てて来た常識や見地、認識が揺らぎ、変容する。それは小説の持つ大きな力のひとつだ。いわゆるセンス・オブ・ワンダーという奴である。このセンス・オブ・ワンダーによって今までの価値観が変質した人間は、そのギャップをどう解消するかという問題に取り組む事になる。例えば「この考え方はAという場合には間違っていてもBという場合には正しい」という限定的な肯定だったり、「今までなんて愚かな考えをしていたんだ」と自分やその価値観を責めたり、「いいや、この本に書いてある考え方は間違っている」と手に入れた新たな価値観を否定したり、まあ方法は様々だが、いずれにしても「新たな考え方」との関係を構築する。そして、自らの既存の価値観を揺るがし、新しい価値観をもたらしたものへの何らかの感情を獲得する。
だが、そうならない人間が居る。土台となる価値観自体を、それらの小説によって培った人間である。作中に登場した手話で会話する民族のようなもので、誰かの脳を揺さぶるモノを子守唄代わりに育つ人間がいるのだ。そんな人間にとっては「手話こそが基本」であり、音声会話者が手話を習得するための苦労や手話特有のメリットやデメリットを実感する事もない。
この伊藤計劃という小説家は、きっとそんな人間だ。安部公房やジョージオーウェルを子守唄として育った人間だ。彼らが社会にもたらしたセンス・オブ・ワンダーを用いて、土台の価値観を培った人間だ。
何故作品内容も書かずにこんな事を書いたかと言えば、僕にはこの小説が作者の悲鳴に思えたからだ。
ある価値観が支配した世界に、別の価値観だけを持って降り立つとどうなるか。当然、非常に激しいストレスを受ける。ミァハの自傷行為や、二人の同志を唆して死のうとした事も、結局腑分けするならばストレスによるものだ。大本からして、ミァハの人格自体がストレスによって生み出されたのだ。これは小説だけの話じゃない。明文化されていないが、しかし逆らいがたき「空気」。これは日本のあらゆる場所で散見されるし、勿論日本のみならず世界中に存在する。この作者もまた、そのストレスに苛まれただろう事が容易に想像できる。そしてきっと、作者は現代社会を支配する「空気」を、最後まで肯定できなかったのだ。
だって挙句の果てに人類がたどり着くのが「意志の放棄」だなんて、あまりにも絶望的な救いじゃないか。
考えるのすら嫌になって、でも、そこまで行っても自分を否定する事も、周囲を肯定することも出来ない。
そして、その救いすらミァハ自身の手で為す事は出来なかったし、ミァハ自身にその救いが訪れる事もなかった。
どこまでも変われない自分自身を、自嘲し自傷するような小説だった。