INTERSTELLAR

「TARS、お前の正直度は?」「90%。完璧な正直さは時に心ある生き物を傷つける」

 

クリストファー・ノーラン監督作品「インターステラー」を見た。

まずぶっ放しておこう。今年見た最も面白い映画だ。12月がまるまる残っているからめったなことは言えないが、しかし、言ってしまいたい。「今年一番面白い映画だ」と言ってしまいたい。ああ言ってしまった。

宇宙空間での演出――徹底した「無音の表現」や、星を配置する事によって人の遠近感を狂わせる撮り方――に海よりも深い「2001年宇宙の旅」へのリスペクトを感じた。「2001年」が好きなら、是が非でも、見るべきだろう。勿論劇場で!

美しい映像と、視聴者に噛み付かんばかりの音響。公開直後アメリカでは「音が大きすぎる」と苦情が続出したらしいが、これでいいのだ。この音の洪水が、僕を物語の中に飲み込んでくれた。

ストーリーは単純で、展開はかなり早い段階で透けて見える。だが、そんなことは何の問題にもならない。分かるからこそ、震える。読めるからこそ、奮える。予定調和の美しさがあり、見事に纏め上げるが故の感動がある。まさに王道。素晴らしきテンプレート。ここまで奇を衒わず、ただひたすらに面白い作品は中々無い。

TARSやCASEたち、人工知能ロボットも素晴らしい。人よりも更にユーモラスに描くことでAIの非人間性を強調するのはよくある手だが、これがまた良い味を出していて、言わさないのだ。AI達の発言はとても自然な不自然さを持っていたと言える。その構造(というべきか、機構というべきか?)がまた非常にユニークで、最初に見たときはなんじゃこのモノリスもどきは、と思ったが、歩行時の動きを見ているとスターウォーズのR2-D2を思い出した。そしてなにより、作中でのあの多彩な変化よ! 元の形から逸脱しすぎず、しかしこちらの想像を超えていく、絶妙なバランスを持った変形だった。最高だ。

僕はこの作品を「愛への賛美」だと読んだ。愛は正しかった。親と子の愛。男と女の愛。個と種の愛。自分自身への愛。どれも、かけがえの無い、大切なものだと、この作品は僕に投げかけてくる。「悪は人から生ずるものか?」というセリフがあったが、少なくとも愛に対しては、いやそんなことはないぞ、と。倫理的、法律的、常識的、ほかにもさまざまな考えから行いには正悪がつけられるが、それでも。「愛する事は悪いことじゃない」と、この作品は言っている。

また、この作品が僕の中で特別な位置に立ったのは、あらゆる「巻き込まれ型作品」が受け手に与えてしまう「何故彼(彼女)が主人公なのか?」という疑問に、完膚なきまでに答えを提示してくれたからだろう。こんなことは中々無い経験だった。

確かに、粗が無いかと言われればそんな事はない。兄妹の和解があまりにも唐突だし、あの海の星での出来事には心の中で「なんでだよ!」と突っ込みを入れた。しかし、そんなもんを吹き飛ばすぐらい面白かったのだ。そう思わされてしまったのだから、俺の勝ちなのだ。そして、つくった人たちの勝ちなのだ。作品なんてもんは土台、楽しんだものが勝つのだから。

 

2時間49分という上映時間はあなたに二の足を踏ませるかも知れないが、あと一歩、たったの半歩でも踏み込めば、そこには広大な宇宙が広がっている。そしてその片隅で人類を救った一組の親娘の、その愛が観測できるだろう。

THE TRUMAN SHOW

「ココアを飲まない? ニカラグア産のココアよ。人工甘味料ナシ」「何をしゃべってる? 誰に?」「このココア私は大好き」「なぜそんな意味のない話をするんだ?」

 

ジム・キャリー主演「トゥルーマン・ショー」を見た。初めてYoutubeでお金を使ってしまった。雨が降っていて外に出る気がしなかったからだが、驚いたのはその値段設定だ。48時間で300円。利便性の代償にしても、店舗に比べて高すぎる。次からはちゃんとレンタルビデオ屋で借りよう。

とは言え、この作品の面白さにはケチのつけようがない。僕は大満足だ。全編を通して、古ぼけて、典型的で、そして過剰なまでに芝居臭い劇中劇が繰り広げられる。世界でただ一人何も知らない男トゥルーマンへの、驚くほど大胆なメッセージ“IT COULD HAPPEN TO YOU!”(災難はあなたを狙っています)を掲げる旅行会社という矛盾しきった存在を見た時には、そのあまりの荒唐無稽さにTRPG「パラノイア」を連想した。番組制作者のクリフトフはトゥルーマン一人のために存在するハーバー島をユートピアと呼んだ。しかし、誰かのユートピアはいつだって別の誰かのディストピアだ。その場所でただ一人「俳優」でないトゥルーマンにとって、周囲すべての人間がひとつの意思を持って動き、誰もが自らを偽っているという状況はまさしくディストピアと言えるだろう。

そんな彼が一人の女性をきっかけに、最終的に自らを保護/生育/抑圧/管理/支配する存在の用意した「楽園」から抜け出すという事がエデンを追放されたアダムと一致しているということぐらい、いくら西洋文化圏からかけ離れた自分であっても気がつく。海から殻を破って外に出るというのは、孵化や出産をも暗示しているのかもしれない。考えただけでもおぞましく、しかし温く守られていた卵からようやく生まれてきたトゥルーマンに今後いったいどんな出来事が待っているのか。想像するだけでも背筋を冷たいものが走る。時にはかの楽園での暮らしを思い出し、帰りたいとすら思ってしまうかもしれない。クリフトフとて、トゥルーマンを愛していたのに違いはない。彼なりに、最高の条件を作っていたのだろう。それでも、子はいつか親離れをするものだ。誰が嫌がろうとも。

 

最後のセリフは、この作品中最強の切れ味を持っていた。「番組表はどこだ?」時間にして3秒のこのセリフはトゥルーマンの必死の航海、真実との対面、その選択をリアルタイムで目撃し、歓喜の声をあげる観客たちの喜びように同調して浮かれ気分になった僕にとって、バケツ一杯の氷水をお見舞いされたようなものだった。僕にはこう感じられたのだ。「これがお前だ」と。人の一生分の葛藤や苦悩と、そこから導き出される選択。それさえもエンターテイメントとして消費し、それが終わればすぐさま新しいエサを求めてさ迷い歩く、満ちることのない餓鬼。「それがお前だ」と。

柘榴坂の仇討

「姿形は変わっても、捨ててはならぬものもまた、文明ではありませぬか」

 

中村貴一主演「柘榴坂の仇討」を見てきた。原作は浅田次郎。と書いたは良いが、僕はこの二人の事をほとんど知らない。僕がこの映画に足を運んだ理由は主に阿部寛と中村吉右衛門である。

阿部寛が仇役だというのはCMやチラシから知っていたが、中村吉右衛門が井伊直弼役だというのはまったく思いもよらなかったのでまずそこで驚いた。何せ話の中心は桜田門外で主君を失った男とその仇なのだから、必定、井伊直弼は早々に死ぬ。彼の演技が少ししか見られないというのは、なんとも勿体無い事だ。(家に帰って調べてみたところ、なんと十九年ぶりの映画出演だったそうだ。ますます勿体無い)流石に七十歳ということもあり、「鬼平犯科帳」のころから比べれば明らかに老けていたが、流石は人間国宝。貫禄の立ち振る舞いだった。作品としても、製作側としても色々事情はあったのかもしれないが、もう少し見ていたかった。

内容としては、江戸時代から明治時代へと急速に移り変わる時流の中で、半ば置いていかれたものたち、即ち武士であったり、その武家社会に纏わる忠や義であったり、情であったり(……勿論こういったものは二十一世紀の現代にも息づいてはいる。が、しかし、大手を振って、世の中の真ん中に存在しているわけではない。そんな中途半端な状態であることを悪用する輩も大勢いる)、そういった、失われたものの美しさ、ひたむきさ……「懐古」「郷愁」とでも言おうか、とにかく、そういったものを上手く調理していると思う。金貸しの無法な行いに対してやあやあ我こそはと次々に名乗りを上げる元武士達のシーンは非常に象徴的だ。

 

 

だが、と僕のようなひねくれ者は思うのだ。だが、いや、だからこそ、その事をおおっぴらに、作ってる側が言うべきではないだろう。「日本のいい映画ができました」とかなんとかチラシに書くような、そんな映画ではないだろう。時代遅れと馬鹿にされたり、冷笑されても、それでも自分の中の何かを貫く。それが武士道だと言うのなら、その考えをこそ、身のうちに秘するべきではないだろうか。チラシやパンフレットに対して怒るというのは、それこそお門違いかもしれないが。

ブログ更新に関して

僕はインターネット上で同人活動として幾人かの友人達と動画を製作している。前月8月からまた新しく投稿を始めた。

一体なにがどう影響しているのかわからないが、その日からここ二週間ほど、まったくアニメやらなんやらを見ることができない。見たいな、とは思うのだが、見る事なく時間が過ぎていく。困ったことだが、原因がわからないので修正も難しい。

なので、しばらくこのブログがどうなるかわからない。

もしかしたら明日にもアニメを見て感想を書くかもしれないし、動画投稿が終わるまで一本も書かないかもしれない。

 

だから何と言われるとこれ以上ないほど何もないのだが、とにかく、しばらく更新してなかったので何か書いておきたかった。

スペース☆ダンディ第十九話

「あ、そうだ! クラウド星人! お前を捕まえに来たじゃんよ!」(ワハハ) 「捕まえる、この私を? それは雲を掴むような話ですね」(ワハハハハ)

 

今までで一番脈略がなかった。プロレスにもクラウド星人の性質にもスカーレットのハイミスっぷりにも、一切の必然性を感じない。いや、一要素一要素なら別に脈絡やら必然性などなくて一向に構わないのだが、その全てが他の要素と接続されていないため、完全に浮いている。この設定の数々は必要だったのだろうか、という疑問が見ていて沸いてくる。時間を埋めるためだけに用意されたようだった。

十分美人で(個人的には特に髪を下ろしてメガネを外した時)面倒見も悪くなく、仕事もキッチリしていてしかも戦闘能力も高いという、傍目にはかなりパーフェクトなスカーレットにモテない行き遅れをやらせても嫌味というか、見ている人間を置いてけぼりにするだけだと思うのだが、これはただ単に僕が今回の話でノリきれなかったから尚更目についただけかもしれない。全体を通して過剰なほど笑いどころを強調していたので、見ている側としては冷めてしまった。もちろん面白いな、と思うシーンもあるのだが、純粋に楽しめない。

「フルハウス」のような、ドラマ中に突然入ってくる笑い声――今調べたら「ラフトラック」という名前らしい――をフンイキ星人という名前で登場させていた。これがどうにもわからない。無論パロディだろうとは思うのだが、僕は元々からしてこのラフトラックというのが好きではない。笑いどころは僕が勝手に見つけて笑うもので、他人に決めてもらう類のものではない。「笑うだけで面白い人間」は確かに存在するが、そう多くはないのだ。まあとにかく、好きではないからこその困惑といえるかもしれない。製作陣があの類の笑い声が好きでそれをパロディしたのか、それとも嫌いだからあからさまにわかりやすい笑いどころを並べるだけの作品を作って挿入したのか、僕には今回の話がそのどちらかを識別することが出来なかった。

 

うーむ、謎めいた30分だ。わざとつまらなくしてる話なのか、それともただ単につまらないのか。こうやって考えている僕をフンイキ星人に笑ってもらえば、良い落ちになるかもしれない。