人というもの

人というもの

 

人というものがいつ頃この星に現れたのか、正確なことはとんと分からない。かつては猿として木の上で暮らしていたというがともかく、ある時どこかの森林で、猿と人とは道を違えた。

それから長い歳月が流れた。人は大変に怠惰なものであったので、多くのものを捨てた。人は大変に勤勉なものであったので、多くのものを得た。そして人は大変に強欲な生き物であったので、更に多くのものを望んだ。

体毛を捨てたのに毛皮を着た。森林を捨てたのに実りを採った。爪牙を捨てたのに武器を作った。

そんな具合であったので、人の生活は実に良く発展した。その怠惰さ故に時に後戻りし、その勤勉さ故に時に足跡を消し去る事もあったが、その強欲さ故にその後戻りを補って余りあるほど進歩した。世界という言葉が生まれ、その言葉は人の進歩と共に一つの島から海を越え山を越えどんどんと広くなった。

そうして進歩を続ける人が、望み続け願い続け求め続け、なお得られぬものがあった。そのものの名を不死という。死なず。火を以って夜を切り裂き、剣を以って地を引き裂き、筆を以ってものを八つ裂いた、どこまでも、どこまでも変わることを望む、そんな人というものが、なお変えられぬものであった。

人はまず血によって不死たらんとした。子を自らの名で呼び習わせ、自らの生き様を模範とさせ、綿々とつながる血の流れを以って不死たらんとした。

しかし、子が父母の生き写しであることをやめてしまうという、人というものの怠惰さによってこの道は瓦解した。

人は次に群によって不死たらんとした。個という軛を捨て、群に奉仕させ、総体として代謝する命の流れを以って不死たらんとした。

しかし、どれだけ研磨され抑圧されても個が決して我を捨てきらない、人というもののその強欲さによってこの道も瓦解した。

人は今度は思想によって不死たらんとした。遺伝子交配による紛い物でなく、ただ生まれた場所が同じであったなどという弱いつながりでなく、同じ思いを抱き同じ考えを持つ同志達の、滔々と受け継がれる知見の流れを以って不死たらんとした。

しかし、同じ考え同じ志を持って集まっても更に個々が考えを先に進めてしまう、人というものの勤勉さによってこの道も瓦解した。

人のもつその怠惰さ勤勉さ強欲さ。それこそが人を飽くなき不死への求道へ駆り立てたが、しかし一方でその怠惰さ勤勉さ強欲さ。それそのものが人を不死へ至らせる道を閉ざしていた。

だが人は諦めなかった。人は遂に技術によって不死たらんとした。人の怠惰さが望み、人の勤勉さが生み出し、人の強欲さが洗練させてきた、着々と積みあがる科学の流れを以って不死たらんとした。

この道には無数の失敗があった。無数の敗北があった。無数の徒労があり、無数の損失があった。しかし、この道は瓦解しなかった。いや、瓦解しても、崩壊しても、人はこの道を歩み続けることが出来た。失敗も敗北も徒労も損失も、この道においては全てが糧であった。

何故ならば人は勤勉であったから。何故ならば人は怠惰であったから。そして何故ならば、人は強欲であったから。

そして農学、医学、化学、工学……その他無数の学問に分岐した科学が生み出す発見は、血によって育まれる群の中で、群の中で伝えられる思想によって、人と言うものそのものが受け皿となって、ただ一つの哲学――即ち、世界とは何ぞやという問いと、それに対する回答――の中で積みあげられた。

はたしていつ頃か。長い長い科学と哲学の道の中で、とうとう人は不死にたどり着いた。それは普く人がたどり着ける場所ではなかったが、やがて不死にたどり着けなかった人は全て死に絶え、不死の人だけが残った。人の人たる所以その全てが、ついに人を殺した瞬間であった。

そして永い歳月が流れた。あまりにも長い時が経ち、かつて猿というものが存在したことも、そこから道を違えた人というものが存在したことも、そんな人から道を違えて不死人というものが存在することも、不死人は忘れてしまった。更に時が経ち、住まいとしていた星が死んでしまっても、不死人は不死なので死ぬことはなかった。死ぬことがないので、不死人は星さえも越えてどこまでも広がった。世界という言葉が、宇宙という言葉と同義になり、やがてそれを超えていった。死ぬことがないので、対義語であった生きるという言葉が意味を失った。死ぬことがないので、否定形であった不死という言葉の意味が不明になった。こうして生きるでなく、死なずでなく、ただ、そこに在るうちに。不死人は段々と、不死というものに飽きはじめた。不死というものを疎みはじめた。不死というものが忌まわしくなった。

不死人は、死を探しはじめた。その姿はかつて人が不死を求めはじめた様と酷似していたが、そのことに気づくものも、そのことを不死人に伝えるものも、この世界にはどこにもいなかった。

不死人は、いつか人が不死にたどり着いたのと同じように、死にたどり着くのだろうか。それとも人と違って、未来永劫にわたって道を違えることが出来ないのだろうか。

その答えは、不死人でなければ知ることはできない。

その答えは、不死人であるかぎり知ることはない。

Sing

「僕が言ったことを思い出すんだ。歌い始めてしまえば、恐れる事なんて何もない。……さあ、歌って」

 

「ミニオンズ」で有名な3DCGアニメーション制作会社、Illuminationの最新作、「シング」を見てきた。とはいえミニオンズは見たことが無い。多分この会社の映画自体初めてだろう。そもそも僕自身が3DCG自体への好き嫌いが結構激しい性質であり、例えば「ベイマックス」や「ズートピア」などの超ビッグタイトルでさえ最近ようやく見たぐらいだし、その上で大して評価してない。そんな僕が何故この映画を見るに至ったか。理由は至極単純である。

僕は、音楽映画が好きなのだ。敢えて「ミュージカル」であるかどうかなどという区分けは握りつぶそう。正直なところ違いがよく分からんし。メリーポピンズ、チキチキバンバン、サウンドオブミュージック等々の傑作映画を与えられ、101匹わんちゃんやアラジンといったディズニー「二つの黄金期」を摘み食い、そしてブルースブラザーズに脳天をぶち抜かれた僕のような人間。毎週日曜日にビートルズやニールヤングやといった両親の趣味全開のCDやレコードを目覚まし代わりに布団を這い出していた僕のような人間にとって。この手の音楽映画というのはそれだけで飛びついてしまう存在なのだ。「なんか最近のディズニー映画より3DCGがちょっと受け入れやすい感じだった」という第一観すら、これが制作会社の違いを的確に見抜いていたのか、それとも単にCMの頭に流れた「Gimme Some Lovin’」のハロウ効果にヤラれていたのかも定かではない。ともかく、僕はこの映画を非常に好意的に受け止め、ワクワクしながら見に行った。4月5日の事だ。そして、とても、とても満足した。大満足の僕はゆったりとスクリーンを出て、パンフレットとサントラを買うために物販の列に並んだ。そのついでに、携帯電話の電源をつけた。長い起動画面の後、前触れなく待ち受け画面が表示された。その待ち受けに父親からの着信履歴が残っているのを見て、僕はとても嫌な予感を覚えながら、リダイアルした。そして、そこで半日の遅れをようやく取り戻した。

 

2017年4月5日。

加川良が死んだ。

 

素晴らしい音楽映画と出会ったその日、素晴らしい音楽家の死を知った。どうにも悲しくて、数日の間は暇さえあれば彼のうたを聞いていた。

Big Hero 6

「“オタクの巣”へようこそ」

 

友人の薦めで「ベイマックス」を見た。マーベルコミック「ビッグヒーロー6」にディズニーが手を加えて作られたとか。

 

「面白かったか?」という問い掛けには、「面白かった」と答えるだろう。「楽しかったか?」という問い掛けには、「楽しかった」と答えるだろう。だが「どう面白かった/楽しかったか?」という問い掛けに返す言葉は無いし、「良かったか?」と聞かれたならば僕は断固、「良くない」と答える。この映画は、楽しいし面白いが、「つまらない」。

これはおそらく、という話で確信があるわけではないのだが、僕はあらゆる作品を「何か」と比較しながら見ている。その「何か」というのは似たジャンルの別の作品だったり、全然違うジャンルだけど見ながら似たような事を考える作品だったり、あるいは同じ作品の異なるシーンだったりもする。だからだろうか。僕はこの映画に対して、語る言葉を持たない。CGは(キャラクターデザインが僕の好みとずれているという最近のディズニーやらピクサーやらの3DCG大体に当てはまる極端に個人的な点には目を瞑って)とてつもなく凄いし、音楽でワクワクもする。どこかワンシーンを切り取って見せられたなら、僕はとても喜んだだろう。ブリザードやライオットが時折公開するシネマティックトレイラーは大好きだし、この作品のシーンがそれを超えるレベルの高さを持っているという事は確かなものだから。しかし、外に持ち出せばどことでも戦えるその高い高いレベルを誇るシーン達も、同レベルのシーンが淡々と100分間続くこの作品の中では、心を躍らせるには余りにも平凡だ。綺麗で、纏まっている。「悪い意味で」。尖っている部分、棘になっている部分、取っ掛かりになる部分。そういう場所を、僕はさっぱり見つけることが出来なかった。勿論、物語としての起伏は立派に存在している。実力はあるのに燻っていた少年が目的を得て、それを達成し、浮かれ上がっているところで大切なものを喪い、失意の中から新たな目標を定めて突き進む。喜びあり、憂いあり、笑いあり涙あり、説教あり。最後はハッピーエンド。見事なものだ。だがその全てが、僕には同じものに見える。同じ匂いは、嗅ぎ続けると匂わなくなる。匂いが消えるのではなく、その匂いに慣れてしまって、意識されなくなる。僕にとってこの映画は、そんな感じだ。どのシーンも、同じ。平凡。恐ろしいほどの均質。

 

不思議だ。何なんだろうこの映画。誰かが棘も窪みも何もかも、ヤスリで慣らしてしまったんじゃないのか。

 

もしかしたら、これが正しいのかもしれない。高いレベルを安定して維持し続ける。この映画を見ていて実感はなくても、言葉としてのその「難しさ」そして「凄さ」は分かる。だからそれが出来ているこの作品こそが凄くて、出来てない作品がダメなのかもしれない。本来全ての作品が目指すべき場所、正しいあり方なのかもしれない。それでも。相対としての価値でしか判断を行えない僕にとって、この平坦さは何よりもまず、つまらないものだった。

この世界の片隅に

「あの頃は平和の軍縮じゃー言うてお父さんも周りの人も大勢失業して大ごとじゃったよ。大ごとじゃ思うとった……大ごとじゃ思えた頃が懐かしいわ」

 

こうの史代原作、片渕須直監督、のん主演「この世界の片隅に」を見てきた。クラウドファンディングで資金を集め、6年かけて製作されたアニメーション映画である。

僕がこの作品の存在を意識したのは、実に最近の事だ。何せ「映画のPV」から知ったのだから。だけど、触れた瞬間にもう、この作品は僕の脳を握り締め、その存在を刻み込んでいった。僕は即座に――なにせコミックスが売り切れていたために電子書籍で入手したので、文字通り即座だ――原作を買って読み、確信を得た。この作品を、全編に渡ってPVの濃度で描いたならば。それは傑作でしかあり得ない。

果たして。その確信を、うず高く積まれた僕の期待を、この映画は遥かに飛び越していった。

この作品は、第二次世界大戦末期、広島から呉へ嫁に貰われた少女すずが、如何にして生きたかという日々の生活を描く。そう、この作品は「日常もの」アニメである。

この評価に、違和感を覚えるだろうか? 他の「日常もの」作品と比べて、何かが違うと感じるだろうか?

ではここで、「日常」について考えてみよう。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。しかし、当たり前の話だが今日と昨日は同じものではない。昨日があるから今日があるのであって、今日があるから昨日があるわけではない。ならば「昨日と同じ今日」とはなにか。それは「今日を今日と意識しない」状態である。今日を今日と意識しない状態は、当たり前だが今日を今日と意識しない限り、意識されない。当事者の日常は「喪われることで初めて」その存在が確かにそこにあった事を示すのだ。その日常を喪わせる出来事は何でも良い。それが何であれ日常でないならば、それらは常に唐突に、今日を今日にする。日常が破られ、そして、驚くべき速さで「それら」を取り込んで、今日は霞んでいく。人が知らぬ間に眠りにつくように、日常は知らぬ間に帰ってくる。いつかまた、他の何かに破られるその日まで。

そう。「日常」を描くためには。「破られる前の日常があり、それを破る出来事があり、そしてその出来事を取り込んだ、新たなる日常がある」という、日常の破壊と再生というサイクルそのものを描かなくてはならない。破られない日常は、描く事ができない。光のない世界で闇を描くことが出来ないように。

作中で、すずという少女の日常は、事あるごとに破られる。そしてすずは、その破られた日常を時には縫い直し、時には布を当て、また時には穴の開いたまま、新たな日常として受け入れる。日常の、破壊と再生。何が起きても日常は変わる。その一方で、「日常が変化し続ける」ということは、変わらない。数多の作品が、描かなかったもの。あるいは描かんとして成し得なかったもの。「破られない日常」だけだったり、「破られた日常」だけだったり、という片手落ちでない、「積み重ねる」という行為そのもの。これこそが、「日常もの」と呼ばれるに相応しい作品だ。

 

ここまでは、「原作」の評価だといえるかもしれない。アニメとして、映画としての良さ。それはしかし、やはり「日常を描いている」というものだ。このアニメ映画は、原作と分離独立して存在するものではない。だが、原作ありきでなければ味わう事の出来ないものでもない。原作を内包し、その描写表現を色彩と、動きと、そして何よりも時間の不可逆性を以って増幅している。アンプのついたギターが奏でる音のような存在なのだ。ギターから発された音が、電気信号に変換され、その信号に基づいてスピーカーから振動が放たれる。その一連の流れこそがこのアニメ映画だ。一方で、僕が受け取るのはやはり、「大きな音」であり「ギターと同じ音」でしかなく、しかしそれは単に「音が大きかった」とか「ギターと同じ音だった」とか、そういった言葉で到底言い尽くせる物ではない。その表現で間違っているわけではないが、明らかに不足しているというこの感覚を説明するには、こう考えるのが一番なように思える。即ち。この映画は、体験であった。

聲の形

「ちゅき!」「え、ああ……月? 綺麗だよね」

 

大今良時原作、京都アニメーション製作のアニメ映画「聲の形」を見てきた。

とても綺麗な映画だった。そしてなによりも、耳に訴えかける映画だった。テーマとして、そして映画として、それが良いことだったのか、それとも皮肉になってしまったのかどうかは一介の視聴者である僕には定かではなく、また僕個人は見ていてとても楽しかったのだけど、そういうのとは一段違う場所で。どうにも気になってしまった。

耳に訴えかけるという言葉の意味は、いくつかのシーンで、絵と音の主従関係が逆転していたように思えたという事だ。映画のBGMというよりも、ミュージックビデオというような。映像のための音でなく、「音のための映像」になっていたような。これが意図しての演出なのか、結果としてただそうなっただけなのか。そこのところが気になって気になって仕方がない。スタッフトークで監督への質疑応答があるかと思ってドキドキワクワク待っていたのだが、残念ながらそんなものは無く、聞くことが出来なかった。

内容を考えると、よくぞあの漫画をこのように纏め上げてくれたという喜びと、これ漫画読んでない人付いて行けるのかな?という不安がないまぜになる。映画「予告犯」にも感じ、レベルは違うが「スターウォーズ フォースの覚醒」にも存在した不安。「話を進める上でどうしても必要だけれども尺を取れない」という部分を、既読者への目配せによって済ませてしまう事による温度差だ。これに関しては漫画を読んでいない状態で映画を見た方に聞くほかないのだが、この映画は、未読者を置いていってしまう映画ではなかっただろうか。

 

と、見方によっては不平か不満のようにも聞こえかねない事ばかり書いてきたが、しかし楽しく、美しく、そして原作同様に心に爪痕を残す映画だったのは確かだ。マンションから花火が見えるシーンの湛えている情感は恐ろしいものがあった。永束くんは独りで「日常」をやっていて面白かったし、声優の演技も目を見張るものがあった。入野自由の特に驚いた時の素っ頓狂なイントネーションは聞いていて心地よかったし、結弦の声優が悠木碧である事など、スタッフロールで見るまで意識しなかった。いくつもの「気になる」を残したと言うのにしたって、僕は不満を抱いているわけではない。ただ、気になる。誰かに聞きたい。とても、気になるのだ。