ヒッキーヒッキーシェイク

「俺さ、言葉が嫌いなんだよ。だから言葉のない世界にすこしでも身を置いときたいわけ。ピカソの絵とか見て、これはナントカ主義のナントカでとか、莫迦だと思わね? ただの乾いた絵具じゃん。見てたいか、見たくないかだけじゃん」

 

津原泰水の「ヒッキーヒッキーシェイク」を読んだ。怪しげな自称カウンセラーJJによって引き合わされたヒキコモリ達のアンサンブル。

御多分に漏れず、僕がこの作家を知ったのはごく最近のことだ。1か月も経っていない。百田尚樹の「日本国紀」におけるコピペ騒動と、津原泰水による指摘。そこからひっそりと発生していた文庫本発刊の取り止めの、他ならぬ作家本人からの告発。出るはずの本が出るはずのタイミングで出なかった、というだけで終わっていたかもしれない話は、あれよあれよと言う間に燃え広がり、幻冬舎社長の見城徹を引きずり出し、彼はその筆禍によって自身のツイッターアカウントを焼き、AbemaTVの冠番組を潰した。

随分と回りくどい話だが、僕はこの一連の騒動の後半部分がネット上で話題になる頃にようやく津原泰水という作家を知り、ツイッターアカウントを覗いた。そこにはまず告発があった。告発は僕にとってニュースでしかなかったのでツイートを辿った。次に、戦いがあった。戦いは僕にとって暇つぶしでしかなかったのでさらにツイートを辿った。そして、僕は宣伝を見つけた

不定期連載の長編小説。小難しい言葉遣いの、良く言えば洒落た、悪く言えば気取ったような文章を、僕は貪るように読み、あっというまに掲載分を読み終えてしまった。

面白い。そう思った。だが、最後の更新は3月末。二か月近く放置されている一方で、明らかにこの物語は始まったばかり。

お預けを食らった犬の気分で、僕は渦中の「ヒッキーヒッキーシェイク」を予約し、ついでにやたら評判の良かった「11」という短編集を注文した。ほどなく届いた「11」を読み終えてみて。正直なところ僕は拍子抜けしていた。確かに面白い。文章も好きだ。「五色の舟」と「クラーケン」に関しては、特に気に入った。しかしいくつかの作品に関しては尻切れトンボというか、座りが悪いというか。どうにも、僕の趣味にはあまりあっていないようで。正直、失敗したかもな。そう思いながら、それでも何かの縁よと「ヒッキーヒッキーシェイク」の予約は継続し、やがて発売日が訪れて。読み始めてすぐに気付いた。この小説はべらぼうに面白い。30Pも読まないうちに、僕はコロッとこの作品にやられてしまった。あれこれ考えたのも、今にしてみればただの杞憂だったわけだ。

浮世離れした(ヒキコモリだけに)キャラクター達が織りなす出来事は、現実の色濃い地続きの舞台で藻掻くが故に一層空想の色を帯び、まるで風船さながらに世界を転がり回る。軽妙な会話の中で誰もが煙に巻かれながら、風に流されながら。突然二つの足で大地を踏みしめるようになどならず、ただ流されるままに海の向こうへと消えていきもせず。ただ、精一杯に伸ばしあった手を取りあって、世界と紐付けされる。

そこにある問題を隠蔽せず。安易な解決策など提示せず。それでいて、世界が目指すべき方向を描く。これもまた、実践的な作品だと言えるだろう。

この小説が、2016年5月の段階で出版されていたというのは、希望だ。

この小説が、2019年6月の段階まで“誰にも”読まれていなかったというのは、悲劇だ。

いくつもの事件が脳裏をよぎる。いくつものニュースが思い起こされる。彼らは、彼女らは、この小説を知っていただろうか。他ならぬ幻冬舎社長が暴露した単行本の売り上げ冊数を考えるに、恐らくは知るまい。目にしたこともなく、存在自体認識してはおるまい。

そのうちのいくつかは、ここ一か月に起きた事だった。それがなによりも辛く、悲しい。

僕だって、この騒動が無ければこの作家を知ることはなかった。小説を読むことはなかった。逆に言えば、何かがあれば誰だって、この小説を読み得たということだ。

もしも彼ら彼女らが、この作品を知っていたならば。手に取って読んでいたならば。

全てと言わずとも、いくつかの悲劇は未然に防がれたのではないか。そんな考えばかりが胸に溢れる。

Mary Poppins Returns

「忘れないよ、メリーポピンズ」

 

「メリーポピンズ リターンズ」を見た。1965年に公開された傑作ミュージカル映画「メリーポピンズ」が、50年の時を超えて新作映画になる。それを知った時、勘の良い僕はピンと来ていた。

今(と限定するまでもなく)、世界中でリメイクが流行だ。リブートを繰り返す各種ヒーロー映画に擬えるまでもない。「パディントン」「ピーターラビット」「美女と野獣」「くるみ割り人形」など、ディズニーでも他の会社でも、日本のアニメ業界でだって。ちょっと思い返せばいくつも出てくる。何も「リメイクは商業的に堅い」なんて擦れただけの考えでもないだろう。名だたる過去の傑作を見て育ってきた世代が造り手となり、それらを自分たちの手でもう一度やってやろうじゃないかと思うのは実に自然なことだ。それは、この「メリーポピンズ」という怪物を前にしてすらも同じことだろう。むしろメリーポピンズには最強の音楽がついている事だし、組み立てを多少いじってそれを流すだけでも戦えるものは出来てしまいかねない。言われてみれば良いチョイスだ。

などと。

今にして思えば赤面するより他にない、愚鈍にして蒙昧な考えを抱いて。それ以上の何を知ることもなく、僕は劇場にやってきた。スクリーンに入り、周りが暗くなっても。公開前に外の屋台で買ったまっずいお握りの事を思い出していたほどだった。

そして、映画が始まり、ほどなく。僕は己の勘違いに気付いた。ガス灯。車いすに乗った提督。優し気な父親。快活な伯母。3人兄妹。

これは、リメイクではなく続編だった。「メリーポピンズ リターンズ」。読んで字のごとく。この映画は、かつてメリーポピンズに子守をされたバンクス姉弟が成長した時代にメリーポピンズが帰ってくるという物語だったのだ。つまり、「プーと大人になった僕」が近いわけだ。(こうやって並べると、一層「ウォルトディズニーの約束」で原作者がプーさんに話し掛けるシーンの重みが増す気がしないでもない)

という事に遅まきながら気付き、大きく納得をして、しかし僕は正直なところ、(こんなもんか)と思いながら見ていた。懐かしいメロディーは聞こえてくるものの、目玉となるミュージカル部分は新曲、新曲、新曲。どれも愉快な出来だがいくらなんでも相手が悪い。俳優陣を見渡せば、脇役や子役の芝居などは流石に時代とともに上がってきた全体としてのレベルの高さを感じさせるものの、あの主演二人に匹敵するほどの華を備えた俳優など、おいそれと見つけ出せるものではなく、前作が大好きな人間の贔屓目という点を考慮してもなお、追いつけてはいない。音楽や舞台は徹底的に「メリーポピンズ」を踏襲し、常に一目で「ああ、これあのシーンだ」と気付けてしまう。となれば最後の頼みは映像部分だが、ふんだんに使われるCGは余りにも幻想的、夢想的すぎ、実写であるキャラクター達が「浮いて」しまっていて。今映し出されている光景はメリーポピンズの操る魔法などではなく、夢とカリスマを備えたナニーの生み出す虚構に過ぎないのだと思わされてしまう。まあ、このように作中に現れる「非現実的事象」とキャラクターがそれを想像しているに過ぎない「虚構」の境界を「虚構」側に思い切りズラして描くのは最近とてもよく見るので(「プーと大人になった僕」や「エクソダス:神と王」などがパッと思い浮かぶ)、その流れを汲んでいるのだろう。

要するに。よくあるリバイバルの一環。それに過ぎない映画なんだ。それが、序盤を見ていての僕の感想だった。やがて2Dアニメーションのパートが現れ、久々に、本当に久々にディズニーの2Dアニメを見ることが出来て、それだけでも結構胸に来るものがあったが、映される群衆の中に微動だにしない個体を見つけるたび、規則的に同じ動きを繰り返している様に気付くたび。「衰えたな、ディズニー!」と。言いたくなる自分が居た。

潮目が変わったのは、終盤。本当に終盤だった。意地悪な銀行頭取の手で、バンクス一家は家を失いつつあった。そこに、かつての頭取が姿を現した。その姿。見紛うはずもない。ディック・ヴァン・ダイク。あの名優が、50年の月日を経て、あの時の姿でそこにいた。そして彼は、あまりにも鮮やかにすべての問題を解決してみせた。

2ペンス。

たったの2ペンス。マイケルが老婆から鳩の餌を買うために取り出した2ペンスを、父親が「未来のために」銀行に預けさせた明るくコミカルでしかし間違いなく暴力的なあのシーンを、この映画は見事に昇華させた。この上なく美しく、そして何よりも相応しい。まさに絶妙な脚本だった。あの1シーンで、この映画はどこに出しても恥ずかしくない、堂々たる「メリーポピンズ」の続編となった。

この映画は、とても完璧な映画ではない。シーンはどこも「メリーポピンズ」の焼き直しだし、音楽も俳優陣も映像効果すら、とてもとても勝ってるとは言えない。所詮一山いくらのリバイバル、と舐め腐った僕をぶちのめしたその1シーンの後だって、わざわざ必要か? と思ってしまう描写が挟まり、感極まっていた僕としてはどうも興が削がれたような感じを受けた箇所もあった。何より、この映画は「メリーポピンズ」を見てない人には多分付いていけないだろう。

それでも、この映画は「メリーポピンズ」でしか出来ないことをやったし、「メリーポピンズ」がやらなかったこと、やり残したことをやり遂げた。何より、「メリーポピンズ」を見ていて出てくる動物たちや奇人変人がだれもかれも「やあメリー・ポピンズ! お会いできてうれしいよ!」みたいな知人同士の挨拶をしていて若干の疎外感を感じていた僕としては、今度は逆に彼らと一緒に「久しぶり! 待ってたよ!」という心境で見ることが出来るというのは本当に嬉しかった。余りにも僕が感動した部分を有体に書いてしまったので、その手でこのような事を記すのはどうかと自分でも思うのだが、もし幼いころに「メリーポピンズ」を楽しんだ過去を持っているなら、この映画は間違いなくお勧めできる。

この作品は、メリーポピンズの宿題をやってのけた。

「コミュニティの一生」が指し示しているものはなんだったのか。

発祥がどこかは知らないが、とにかく2ちゃんねるやニコニコ、twitterなど日本のSNSを今も漂流している「コミュニティの一生」というコピペがある。

面白い人が面白いことをする
↓
面白いから凡人が集まってくる
↓
住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める
↓
面白い人が見切りをつけて居なくなる
↓
残った凡人が面白くないことをする
↓
面白くないので皆居なくなる

とまあ、委細に違いはあれど概ねこのような内容のテキストだ。このテキストを読んで尤もであると今を嘆く人がいれば、同じようにこのテキストを読んで新規を排斥すればそもそも誰もいなくなるだろと反発する人もいる。賛否両論数あれど、ともかくこの数行のテキストが、衆目に晒しても風化しないだけの強い力を持っていることは否定しがたい。

しかし、このテキストは余りにも刺々しい。「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」これらの言葉が具体的には誰に当てはまるのか。このテキストを読んだ自分――世の常として、必ずどこかしらのコミュニティに属している自分――は「面白い人」として評価されているのか、「凡人」として糾弾されているのか。それを判断するにはテキストがあまりにも曖昧で、読んだ人間の心にさざ波を立てずにはいられない。その刺々しさ、人に波を立てる鋭さこそが、このテキストの存在感を保ち続けたという功績は確かにある(かくいう僕も、その鋭さ故に、このように文章を書いているのだから)。それでも、この言葉の棘が読む人をただ通り魔的に傷つけて、まさにその傷によってコミュニティ内部に不和を生じてしまう事態に繋がっているのはなんとも悲しいので、僕はこの言葉を解きほぐしてやりたいと思う。すなわち、

「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」

とは一体、何を意味した言葉なのか。

それを理解するためには、まず「コミュニティ」とはなんなのかという所を決めておかねばならない。僕の定義はこうだ。

 

「コミュニティとは、集合である」

 

どのような種類のコミュニティであろうと、ただ一人の人間しかいない場所にコミュニティは形成されない。二人以上の人間が、何らかの目的をもって「重なり合った場所」こそがコミュニティである。ベン図を思い浮かべてもらうのが分かりやすいかと思う。複数の円が部分的に重なり合った領域。それこそがコミュニティである。この円は必ずしも個人である必要はなく、コミュニティ同士が重なり合った場所に新たなコミュニティが生まれるという事も当然あるだろう。

さて、コミュニティの黎明期。コミュニティを形成する円は少なく、当然コミュニティ自体も小さい。そんな中で、所属する人が活動をするとどうなるか。小さいコミュニティでは何をするにも、コミュニティの外から何かを持ち込むしかない。遊ぶとなったら外からゲームを持ってくるし、話すとなったら外の話題だ。つまり、黎明期のコミュニティは何かにつけて、所属者が持ち込む「未知」に晒され続ける。この「未知」の流入が継続的に行われるかどうか、そしてその「未知」がほかの所属者に受け入れられるかどうか。それが、コミュニティの発展を決定付ける。

ここに、「面白い人」と「面白いこと」と呼ばれるものが存在する。「未知」であり、なおかつコミュニティに所属する他者が受け入れられる何か……それが「面白いこと」と認識され、それを持ち込む人が「面白い人」と呼ばれる。

ここで「未知」と呼ばれるものは、コンテンツに限らず、人の場合もある。そして往々にして、これは雪だるまのように、他のものを連鎖的に連れてくる。新たな人をコミュニティへ招けば、その人が「未知」のコンテンツを提供してくれる事がある。新たなコンテンツがコミュニティに拓かれれば、そのコンテンツを求めて「未知」な人がコミュニティを訪れる事もある。このようにして、「面白い人」が「面白いこと」をすればするほどに、コミュニティは「面白い」という事になるわけだ。

しかし悲しいことだが、人には限界がある。一個人が知ることのできる情報は僅か。他人に伝達できる状態に変換できるものは更に少ない。多くの「面白い人」たちは遠くないうち、コミュニティに「未知」を持ち込むことが出来なくなっていく。

同様に、コンテンツにも限界がある。どれほど面白い遊びでも、100回遊び、1000回遊び、と回数を重ねていくうちに、段々と「未知」ではなくなってしまう。

一方で、「未知」としてコミュニティに流入した人たち全てが、今までいた「面白い人」と同じように「未知」を紹介できるわけではない。アニメでも映画でも小説でも構わないが、その道のファン10人でなら、ひとりひとり違う方法で作品の面白さを他人に伝えられるかもしれないが、10000人を集めて一人一本、10000種類の語り、コンテンツを作ることは至難だ。たとえ集まったとして、それらを一つ一つ判別できる形で拾い集める事も容易ではないだろう。

このように、どこかのタイミングで、コミュニティに「未知」を提供できない人というものが出てくる。正確には、顕在化する。最初のうちは気付かなかった、気にするまでもなかった存在が、次第に多く、目に付くようになってくる。

コミュニティに所属する者が受け入れられるような「未知」をコミュニティにもたらさない存在。それがこのコピペで言われるところの「凡人」であり、「主張」や「面白くないこと」とは「既知」であるものつまりすでに陳腐化したコンテンツや、あるいは「未知」ではあるがコミュニティ所属者の大多数にとって受け入れがたいコンテンツを意味している。

では、「面白い人」はどこに行ってしまったのだろう。「見切りをつけて居なくな」ってしまったのだろうか? そうとは限らない。

かつてコミュニティに「未知」を持ち込んでいた人が、コミュニティが拡大してもなお、同じように「未知」を持ち込めるなどというのは余りにも、人を過大評価している。そういった膨大なコンテンツにアクセスできる人は当然いる、その膨大なコンテンツを咀嚼し、僕たちにも理解できる形で授けてくれる存在は確かに地球に存在する。だが、人間というのはそんな逸材ばかりではない。いくつか面白いことを知っているだけの兄ちゃんや姉ちゃんだって、コミュニティはたくさんいるはずだ。そういった人たちが、自分の持つ「未知」をあらかた提供してしまったら。情報が、コンテンツが、陳腐化してしまったら。

そうなれば、彼ら彼女らは埋没する。コミュニティに内包され、「既知」の存在となる。つまり、「凡人」化する。コミュニティが拡大するに従って「面白い人」たちはそのコミュニティの中で段々と「凡人」になっていくのだ。

規模が大きくなれば、「未知」は減る。「未知」を提供できる人も減る。こうして、どこかのタイミングで遂に、コミュニティは停滞する。流入する「未知」こそが、コミュニティを拡大させていたのだから。

その後コミュニティが衰退していく事を、「人は『未知』が好きで、それを求めているから」という理由で説明することは難しい。「既知」の魅力を否定することは出来ないから。お約束、定番、王道、古典。そういったものにも面白さは明確に存在していて、なかなか消えてなくなることはない。それでもやはり、コミュニティの存続と発展には「未知」が必要不可欠なのだろう。コミュニティ内部のものにとってはとっくに「既知」の存在が当人にとっては「未知」であるからこそ、コミュニティ外部の存在が内部の存在に変化するのだから。

どうにも話が散らかってしまった印象はあるが、とりあえずこのコピペにおける「面白い人」「面白いこと」「凡人」「面白くないこと」に関しては、少しは限定的な言葉に書き換えることが出来たように思う。

そしてそのうえで、僕は示したい。「凡人」が悪いのではない。「面白い人」が悪いのでもない。コミュニティはいつか飽和し、停滞し、衰退する。それは避けようのないことだ。「未知」を収集し、コミュニティに奉仕せよ、などとは誰にも命じることは出来ない。どこまで行っても。コミュニティは、人と人とが重なった集合に過ぎないのだから。それは人ではない。コミュニティはコンテンツではあっても、人ではない。大切なのは、人だ。人が苦痛を感じるようなことを、強いてはいけない。つまらないコミュニティになれば、新しいコミュニティにいけば良いのだ。

それでもなお。今所属しているコミュニティを盛り上げたいと思ったなら。そんなときは、持っている「未知」を一つ、コミュニティに提供してみたら良い。あなたにとってはありふれた、つまらない、誰でも思いつくような何かであっても。コミュニティの誰かにとってそうであるとは限らない。始まりからして、きっとそういうものだった。何気ない世間話で自分が全然知らない事を聞けたら、それはとっても「面白い」のだ。かつて僕も、その連鎖の果てに今いるコミュニティにたどり着いた。その連鎖の次の輪を、自らの手で作ってみるというのも、コミュニティから得られる「未知」であることは間違いのないことなのである。

フリクリ オルタナ

「たとえ明日が 昨日の寄せ集めでも わたしは」

 

「フリクリ オルタナ」を見た。2000年、ガイナックスとProduction I.Gによって制作されたOVA「FLCL」、その続編の片割れである。

愚にもつかない話を軽く書く予定なので、先に映画の感想を言っておく。

「予想していたFLCLの新エピソード」でも、「期待していたFLCLの続編」でもなく、しかしフリクリ オルタナは飛び切り面白いアニメだった。

初報は2015年だったと言う。ガイナックスが、FLCLの権利をProduction I.Gに譲渡したというニュースが流れた。僕は確かにこれを耳にしたはずだが、あまりその時のことを覚えていない。多分、本当に作られるのかどうか、実感がなかったのだろう。

そのまま権利関係のニュースの事も頭から過ぎ去った2016年、鶴巻和哉をスーパーバイザーに据えて続編を制作する事が決定という報に、僕は動揺した。

僕は「宝くじを当てたら実現したい事リスト」を持っている。ちょっとしたあぶく銭でできる事から、一等一本じゃ足りないような事まで、大小いろいろと欲望をそのままぶちこけたリストだが、2016年は「ウォークラフト」の公開が発表され、そのリストから「Blizzardに映画を作ってもらう」という項目が消えた年だった。そんな最中、「鶴巻和哉にFLCLみたいなアニメを作ってもらう」まで消えたのだから、動揺しない方がおかしい。

ダサくカッコつけてないように装う斜に構えたカッコよさ。アニメーターの悪ふざけの如く目まぐるしく変化し続ける映像。よくわかんないんだけどなんとなくわかる気がする演出。おちゃらけと猥雑の中に太い芯を感じさせる物語。

あのFLCLの新作がやってくる。

2017年、FLCL2と3が制作されるというティザームービーを見た頃には、僕の期待はとんでもない事になっていた。

2018年になり、オルタナとプログレというタイトルまで公開され、それぞれのPVを見てちょっと引っかかるものを感じたり(ハル子の声優がプログレだけ違うとかその辺)、海外では6月にプログレ公開(日本では両方9月に公開)という情報にモヤモヤしたりしながらも、僕は大層ワクワクして公開を待った。

そうして、とうとうオルタナを見た。

あんまり面白くない。

それが、第一章が終わり、「NEXT EPISODE」の表記を見ながら抱いた最初の印象だ。

「FLCL」的演出……というか、「FLCL」オマージュは確かにある。見たら誰にだって分かるだろう。しかし、あまりにもセリフや展開が、仕上がってないのではないか。

そんな印象は、第二章になってもより強くなるばかり。FLCLのハル子なら、もっとウィットに富んだ軽口を挟むんじゃないか。FLCLなら、もうちょっと巧妙に描くのではないか。

そういう、なかなか退屈な映像とお話が、ただピロウズの曲を背に流れている。

第二章が終わったあたりで、僕は既に自分を慰めるフェイズに入っていた。ここ数年、FLCLの、あのFLCLの続編をやるという話に、舞い上がり過ぎていたんだよ。

考えてみれば、あれほどのイカれたクオリティを保った作品に比肩するクオリティを、このご時世のアニメがそう易々と出せるはずもなかったのだ。

FLCLの表面だけをなぞった、ダラダラとつまらないアニメが流れる。そんな可能性だって、十分にあったじゃないか。

 

そんな思いが反転したのは、第四章。このエピソードを見ながら、僕はようやく自分の思い違いに気づいた。

このアニメは、日常アニメだったのだ。

ここで言う「日常アニメ」とは、だらだらとしょうもないイベントを垂れ流して女の子を愛でる作品の事ではない。「日常を描く」とは、僕の中ではそういう事ではない。

かつて「この世界の片隅に」において明確に意識したように、僕にとって「日常」とは「単体では語り得ぬもの」である。日常は常にそこに存在していて、「非日常」なしには認識できない。故に、日常を描くためにはその日常を破る「非日常」が必要であり、そしてまたその非日常が「日常」に飲み込まれる帰結こそが日常を描き切るために求められる。

その文脈における、「日常アニメ」こそが、「フリクリ オルタナ」だったのだと、僕は第四章にしてようやく気付いた。

一章から三章は「つまらない」。その認識を変えるつもりはない。

しかし、「日常」とは面白くないものだ。呼吸する面白さ、足を前に出す面白さ。そんなものを意識する事は、「日常」においてはない。面白さを感じるほどの事態はそれそのものがもはや非日常なのだから。

そんな中で、主人公の逃避と、懐の深い友達によって、「ハルハラハル子」と「N.O.」という意味も正体も不明な非日常はいともたやすくつまらない日常に溶け込んでいく。それこそが、この作品において重要だったのだ。面白可笑しくては、印象的であっては、刺激的であっては困るのだ。何故ならば、この作品は主人公の「日常」を描く作品だから。

一章では、キャラクターの紹介を。二章と三章では友達の「思わぬ一面」という非日常を追いつつ、ここでシッカリと、ガッツリと、それらを「日常」として飲み込んだからこそ、主人公にフォーカスの当たり否応なく非日常に直面する四章が生き、非日常を受け止めてきた日常そのものが瓦解する五章が映え、そして物語を終わらせる六章が輝く。非日常がいともたやすく日常を切り裂き、しかし裂かれた日常は平然とその非日常をすら日常化する。日常は変化し、しかし変わらず訪れる。

そして、それは紛れもなく、「FLCL」が描いた事ではなかっただろうか。少年の日常に突如現れた「青春の幻影」。だがその女神は少年を一足飛びに大人へなんかしやしない。少年は少年のまま、しかし明確に変化する。「酸っぱいのは嫌いなんだけど」。ナオタに訪れた、小さく、しかし決定的な変化。それを捉えなおそうという、明確な意志。それは、成功しているように僕の目からは見えた。

 

この作品の前半部分のつまらなさは、意図されたものだ。そしてそれは非常に効果的で、「面白い」。

もはや何の憂いもない。何の恐れもない。「フリクリ プログレ」の公開が、今から待ちきれない。

OCTOPATH TRAVELER

「プリムロゼ、参ります」

 

一言

クソ面白い。

概要

で終わってしまうとレビューにならないので、軽くこのゲームに関して。

まずこのオクトパストラベラーというのは、2018年7月13日にスクエアエニックスがNintendoSwitch向けに発売した2DRPG。生まれも育ちも特性も異なる8人の主人公の中から最大4人のパーティを作って、それぞれのストーリーを紐解いていくのが基本的な構造。

ストーリー

概要で書いたように、この作品には8人のキャラクターが登場する。この8人の話は2章終了時点ではほとんど絡み合う事無く独立した話になっている。しかもこの作品誰をどのような順番でパーティに入れるのか完全にユーザーの裁量に任されていて、8人全員集めた後一人一人同時進行でやっていくもよし、とりあえず4人集めてその話を終わらせるもよし、あるいは茨の道となろうともコレと決めた一人だけで彼らの物語に芯まで浸るもよし、と非常に自由度が高くなっている。一周で8人全員の物語を味わう事が出来るだけでなく、敢えてキャラクターを温存しておき二周三周と進めていく遊び方も選択出来るというのが嬉しい。

その自由度の代償として、メインストーリーに他キャラクターが絡んでくる事は(今のところ)なく、進めているとどうしても「主人公一人の物語」という感覚が強くなってしまうのは否めない事実だ。一応各イベントシーンの直後、パーティの中の対応するキャラクターと歓談を行うパーティチャット というシステムは存在するが、これ8人のどの組み合わせで話し始めるか全く予想がつかない上、次のパーティチャットのタイミングがやってきてしまうともうそれまでのパーティチャットは確認不可能になるので、初見プレイヤーが確認できるパーティチャットは恐らく半分以下になってしまう。これは「周回要素」としては面白いが、一周で全てのテキストを堪能したいというプレイヤーにとってはデメリットだろう。

それでも、8人の生まれも育ちも全く違うキャラクター達がそれぞれの目的の為に世界中を放浪する雰囲気は素晴らしいし、楽しい。それぞれ章毎に舞台となる町が変わっていくので、一つの町で二つの章が始まった時などは話が絡まないという要素が逆に「あのキャラクターがこんな事をしている裏側でこのキャラクターはそういう事をしていたのか」と群像劇じみた様相を滲ませ、世界観に厚みを持たせてくれる。キャラクターによって話しの重さが全く違うというのも、誰かが笑う時せかいのどこかでは当たり前のように悲劇が起きているんだなあという思いを沸かせてくれて良い。

戦闘

戦闘はキャラクター単位のターン制バトルになっている。その中で、このゲームの特色が二つある。

①ブレイク

敵キャラクターには通常1~5個ほどの「弱点属性」が設定されていて、その弱点属性を持った攻撃を一定回数受けると「ブレイク」する。ブレイクすると、このターンと次のターンの行動が全てキャンセルされ、防御力が下がり、攻撃が全てクリティカル判定になる(多分)。

②ブースト

1ターンに一度、味方キャラクターにはブーストポイントが配られる。ブーストポイントは一度に3つまで使用でき、通常攻撃の攻撃回数を増やしたり、技の威力を高めたり出来る。(関係ないけどこのシステム物凄くシルバーセカンドっていう同人サークルが出してるゲームの戦闘システム「WILL」を思い出して懐かしさに悶える)

この①と②の要素が合わさる事で、あらゆる戦闘がただのルーチン足りえないというのがこのゲームの非常に重要なポイントだ。

敵味方の動く順番は次のターンまで確認する事が出来るので、誰がどの武器で後何回殴れば敵はブレイクするのか。ブレイクさせてからブーストを吐き出して倒すのがいいのか、それとも相手のブレイクが解除された直後もう一度ブレイクするために残しておいた方がいいのか、常にそれを考える事が出来る。勿論敵とのレベル差が大きくなれば気にせずAボタン連打して通常攻撃振ってるだけでも倒せるが、適正レベルを少し超えた程度の状態でそれをやっても敵を倒すのに幾分か苦労する事になる、というバランスでゲームが形作られている。なので、Aボタン連打してただ無心にレベル上げをしたい、というようなRPGプレイヤーにとってはデメリットになるかもしれない。

フィールドコマンド

このゲームの最もゲーム的な要素であり、また逆に最もロールプレイ的な要素にもなり得る部分。総じて言えば、このゲームのRPG要素の核。それがフィールドコマンドだ。

フィールドコマンドというのはプレイヤーキャラクターからNPCへの直接的な干渉手段であり、

「NPCを倒す」

「NPCを連れて行く」

「NPCからアイテムを入手する」

「NPCから情報を引き出す」

の4種類に大別される。

それぞれが正道と邪道という二種類に分類され、8人のキャラクターの固有アクションとして割り振られている。正道は支払うべきコストが存在するが、100%成功する。邪道はコストを無視し誰にでも仕掛ける事が出来るが、失敗にはリスクがある。

これらは単純に欲しいアイテムを手に入れたり、あるいはストーリー上の演出として悪党NPCの妨害をしたり迷子を親元に届けたりといった行動のシステム的な回答でもあるのだが、それだけの要素ではない。

具体的な話をすると、キャラクターの装備が攻撃力+10のナイフだったりするタイミングで、攻撃力+80の斧を手に入れることが出来てしまうだとか、キャラクターがブーストをつぎ込んでも300ダメージしか与えないタイミングで、連れてきたNPCは2000ダメージ出してくれたりだとか、要するに「ゲームバランス」をぶっ壊すことが出来るのがこのフィールドコマンドだ。

ここで、プレイヤーは一つの岐路に立たされる。即ち、君は「ゲーマー」なのか、それとも「ロールプレイヤー」なのかという問いだ。その上でこの作品が面白いのは、「どちらかが正しい」という設計思想になっていない点だ。例えばあるゲーマーはただ強くなるために哀れな老人から強力な武器を盗み、家族のへそくりをチョロまかし、適正レベルのボスを虐殺するかもしれない。一方でそれは悪党ロールプレイという道を辿っても到達できる場所だし、逆に縛りプレイを好めばNPCから一切のアイテムを入手せず進むかも知れず、それは世捨て人や隠遁者のロールプレイによっても実現可能だ。

ストーリーの部分でも触れた、遊び方を選択出来るという自由度。その真髄を宿した傑作RPG、それがオクトパストラベラーである。

「私達はRPGを、ロールプレイングゲームを用意しました」

「さて、あなたがしたいのはロールプレイですか。ゲームですか」

「安心してください、どちらも楽しむ事が出来ますよ。何故ならこれは、ロールプレイングゲームなのですから」

そういうスタッフの自信に満ちた笑顔が透けて見えるような、素晴らしいタイトルだと思う。他にもなんかやたらとNPCの設定が作りこまれててNPCの話読んでるだけで面白かったり昔懐かしいドットキャラクターと今の派手なエフェクトの親和性が思っていた以上に高かったり音楽がマジで何時間でも聴いていられるぐらい心地よかったり(この文章書いてる間に流してたのは『踊子プリムロゼのテーマ』)出てくる女の子がPC、NPC問わずとにかく可愛かったり魅力は一杯あるのだけれど、とりあえずBUY NOW!! これ読んでもまだ買おうかどうしようか悩んじゃうって人は3時間遊べる体験版が無料公開されてるからそれやれ!

やればわかるから!