「どうしてわたしにはプライドがないの!」「女優だもの」
マイケル・キートン主演「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見た。
素晴らしい。最高に面白い映画だった。作中で描かれるのは夢だ。作品全体に横たわる不穏な空気。今にも取り返しのつかない何かが起こってしまうのではないかという、漠然とした恐怖。空を飛び劇場へと帰ってくるシーンなど、まさにその象徴だった。明らかに異質。完璧に異常。だが、当人にとってはそうでない。リーガン・トムソンが見ている夢を、傍から除きこむような気分を味わった。これはシュールリアリズムそのものではないか。「意味不明」「不条理」の代名詞として濫用され、ぼやけてしまった単語としての「シュール」ではない。原義的なシュールリアリズム。僕は途中からただひたすら「はやく終わってくれ」と祈った。作品のつまらなさ故ではない。映像の薄皮一枚下に漂う、言語未満の感情を刺激する何か。もはや「空気」と呼ぶしかないようなその何かに、圧倒され続けていたからだ。
そして同時に、この映画はどこまでも演劇である。舞台である。どんな状況でもどこか、見ている人間を意識している、ことを伝えてくる。映画なら絶対にいれないようなところで笑いどころを持ってくる。「映画でしか出来ない」「芝居」。素晴らしい。片や「レ・ミゼラブル」がアカデミー賞作品賞ノミネートにとどまり、片やこの作品が受賞した理由もまた、ここではないだろうか? 「レ・ミゼラブル」は確かにすばらしい作品だった。こだわり抜かれた、美しいミュージカルだった。だが、それだけだった。映画でなかった。僕は映画を見に来ているのだ。小説は「小説にしか書けないもの」を。漫画は「漫画でしか描けないもの」を。そして映画には「映画でしか撮れないもの」を映し出してもらわなければ。そういう意味でも、この映画は完璧だった。
そんな「映画性」とでも言うべきものを生んでいるのは、異常な(良い意味で)カメラワークだ。長回し、ワンショットの中で行われる時間経過には本当に驚かされた。素晴らしい演出だ。
と、絶賛するに相応しい映画だが、一方で不満もある。批評家が劇中劇「愛について語るときに我々が語ること」に対して書いた批評と僕が「バードマン」を見ながら感じていた想いが余りにも重なっている事だ。 もしあの批評と僕の感想がまったく向きの異なるものであれば、素直に劇中劇への批評という映画のワンシーンとして見る事が出来ただろう。だが、そうではなかった。「超現実的」スーパーリアリズムという言葉。あの一言が、余りにも「バードマン」に対して客観的すぎた。それは僕の言葉だろう! 自分で言う事じゃなく!
だが、多少足が生えていようが蛇は蛇だ。魅力が損なわれるほどの事ではない。見事な映画だった。今年見た映画の中で、現時点トップと言って良い。
ラストシーンについても触れておこう。娘は窓の向こうに、一体何を見たのか。僕の答えは「バードマン」だ。この映画はリーガン・トムソンの夢だ。彼が望むものは全て手に入る。なら彼が「空を飛びたい」と願って、飛べないわけがない。リーガン・トムソンが鼻を吹き飛ばし、批評家からの絶賛を得、心身共にバードマンの影を捨てる事で、ようやく。バードマンは復活を果たしたのだ。