アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

「まだわからんかね? 救済はどこにもないのじゃ」「じゃ、これはなんのためなんだ? あんたはなんのためにいるんだ?」「あんたがたに示すためじゃよ。あんたがたが孤独でないことをな」

 

フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだ。ディックは昔何かを読んだ気もするのだが、何分僕の記憶というのは他人の五倍~十倍は当てにならないので信用ならない。この小説だって読んだ覚えがあったのにいざあけてみたらまったくそんな事はなかった。もしかすると春樹の「羊をめぐる冒険」と勘違いしてたのかも知れない。だとしたら重症だ。

 

話を戻そう。この小説を読んで、僕は謝らなけりゃいけない気がしている。この小説を好きな人間にだ。

確かにこの小説は面白かった。賞金稼ぎリック・デッカードとアンドロイドであるレイチェル・ローゼンの間に芽生える何がしかの感情にまつわる話でも、特殊者イジドアが三人のアンドロイドと交流しながら彼らを守り匿う話でも、共感ボックスによるウィルバー・マーサーとの融合の真相を巡る顛末でも、どれもが一級品の物語となるだけの強度を持ち合わせている。特に「マーサー教」の欺瞞を暴き喜ぶアンドロイドと、それでもなおマーサーを感じ、共感する人間という構図は、キリスト教に限らないのかも知れないが、とにかく生まれた時から宗教の中で生きてきた人間ならではのものを感じた。なんといえばよいのだろう。無数に繰り返される「奇跡の否定」を受けてなお、「神を信じ続ける」という選択を選ぶ理由のようなものが、少しだけわかったような、そんな気がする。

そして、この作品で僕の目に一番留まったのがガーランドのエピソードである。リック・デッカードとガーランド、果たしてアンドロイドはどちらなのか? 映画「トータル・リコール」にも似たようなシーンがあったのを記憶している。シュワルズネッガーが主演した方しか見ていないが。

さあ告白の時が来た。白状しよう。あのシーンを読みながら僕の脳みそは安部公房で埋め尽くされていた。

そこから先はある意味で地獄だ。もちろん別の意味では天国だが。この小説の素晴らしさを見出せば見出すほど、より一層、安部公房という小説家が、まるで地平に広がる山のように僕の心の中に聳え立つのだ。本を読んでいるとつくづく己の不完全さや傲慢さを思い知らされる。ああそうだ。僕は本を読むときは一事が万事安部公房だ。あの人の小説が好きで好きで仕方がないし、近いにおいを感じるともういても立ってもいられなくなって、トリュフを掘る豚さながらに必死になって似ている場所を探す。

いや、しかし似ているとは思わないだろうか。両者の本を読んだ人間ならこの感情がわかってもらえる気もするのだが、あるいはこれすらも僕の妄想なのかもしれない。だが、たとえ妄想だろうが思い込みだろうが浅慮と無知の結果であろうが関係ない。

とにかく、僕は「やっぱり安部公房ってすげーわ」という、小説家にも、この小説を好きな人間にも非常に失礼な感想を抱いてしまった。それをお詫びする。ごめんなさい。

その上で厚顔無恥にも言わせてもらうが、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで、「人間そっくり」を読んでいない人がいたら是が非でも読んでほしい。そして、もしも僕に感情移入してくれるのであれば、これ以上の事は無い。

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