「俺さ、言葉が嫌いなんだよ。だから言葉のない世界にすこしでも身を置いときたいわけ。ピカソの絵とか見て、これはナントカ主義のナントカでとか、莫迦だと思わね? ただの乾いた絵具じゃん。見てたいか、見たくないかだけじゃん」
津原泰水の「ヒッキーヒッキーシェイク」を読んだ。怪しげな自称カウンセラーJJによって引き合わされたヒキコモリ達のアンサンブル。
御多分に漏れず、僕がこの作家を知ったのはごく最近のことだ。1か月も経っていない。百田尚樹の「日本国紀」におけるコピペ騒動と、津原泰水による指摘。そこからひっそりと発生していた文庫本発刊の取り止めの、他ならぬ作家本人からの告発。出るはずの本が出るはずのタイミングで出なかった、というだけで終わっていたかもしれない話は、あれよあれよと言う間に燃え広がり、幻冬舎社長の見城徹を引きずり出し、彼はその筆禍によって自身のツイッターアカウントを焼き、AbemaTVの冠番組を潰した。
随分と回りくどい話だが、僕はこの一連の騒動の後半部分がネット上で話題になる頃にようやく津原泰水という作家を知り、ツイッターアカウントを覗いた。そこにはまず告発があった。告発は僕にとってニュースでしかなかったのでツイートを辿った。次に、戦いがあった。戦いは僕にとって暇つぶしでしかなかったのでさらにツイートを辿った。そして、僕は宣伝を見つけた。
不定期連載の長編小説。小難しい言葉遣いの、良く言えば洒落た、悪く言えば気取ったような文章を、僕は貪るように読み、あっというまに掲載分を読み終えてしまった。
面白い。そう思った。だが、最後の更新は3月末。二か月近く放置されている一方で、明らかにこの物語は始まったばかり。
お預けを食らった犬の気分で、僕は渦中の「ヒッキーヒッキーシェイク」を予約し、ついでにやたら評判の良かった「11」という短編集を注文した。ほどなく届いた「11」を読み終えてみて。正直なところ僕は拍子抜けしていた。確かに面白い。文章も好きだ。「五色の舟」と「クラーケン」に関しては、特に気に入った。しかしいくつかの作品に関しては尻切れトンボというか、座りが悪いというか。どうにも、僕の趣味にはあまりあっていないようで。正直、失敗したかもな。そう思いながら、それでも何かの縁よと「ヒッキーヒッキーシェイク」の予約は継続し、やがて発売日が訪れて。読み始めてすぐに気付いた。この小説はべらぼうに面白い。30Pも読まないうちに、僕はコロッとこの作品にやられてしまった。あれこれ考えたのも、今にしてみればただの杞憂だったわけだ。
浮世離れした(ヒキコモリだけに)キャラクター達が織りなす出来事は、現実の色濃い地続きの舞台で藻掻くが故に一層空想の色を帯び、まるで風船さながらに世界を転がり回る。軽妙な会話の中で誰もが煙に巻かれながら、風に流されながら。突然二つの足で大地を踏みしめるようになどならず、ただ流されるままに海の向こうへと消えていきもせず。ただ、精一杯に伸ばしあった手を取りあって、世界と紐付けされる。
そこにある問題を隠蔽せず。安易な解決策など提示せず。それでいて、世界が目指すべき方向を描く。これもまた、実践的な作品だと言えるだろう。
この小説が、2016年5月の段階で出版されていたというのは、希望だ。
この小説が、2019年6月の段階まで“誰にも”読まれていなかったというのは、悲劇だ。
いくつもの事件が脳裏をよぎる。いくつものニュースが思い起こされる。彼らは、彼女らは、この小説を知っていただろうか。他ならぬ幻冬舎社長が暴露した単行本の売り上げ冊数を考えるに、恐らくは知るまい。目にしたこともなく、存在自体認識してはおるまい。
そのうちのいくつかは、ここ一か月に起きた事だった。それがなによりも辛く、悲しい。
僕だって、この騒動が無ければこの作家を知ることはなかった。小説を読むことはなかった。逆に言えば、何かがあれば誰だって、この小説を読み得たということだ。
もしも彼ら彼女らが、この作品を知っていたならば。手に取って読んでいたならば。
全てと言わずとも、いくつかの悲劇は未然に防がれたのではないか。そんな考えばかりが胸に溢れる。