ウナ・セラ・ディ東京

東京へ行ってきた。

芝居を見るためである。

演劇倶楽部『座』による、「やぶにらみ龍之介ばなし」

芥川龍之介の「白」「蜘蛛の糸」「杜子春」の三編を、壤晴彦が自身の解釈を交えてオムニバス形式の劇として上演。

内容の流れは、「白」が「黒」を見捨てた後、「蜘蛛の糸」の夢を見、命を賭して人を救い、打ち殺されても良いからせめて主人の顔を一目見んと決意を固めて戻ってきた夜に「杜子春」の夢を見る、というもの。

基本的に劇は「詠み芝居」として進行する。「白」「蜘蛛の糸」「杜子春」それぞれに詠み手が一人ずつと、役者が全部で十人ほど。

また、詠み手と共に登場する琵琶奏者が一人。

 

 

以下感想。

まず琵琶に触れておこう。とても良かった。なかなか琵琶の生演奏など聞く機会もない昨今、贅沢に2時間も舞台のBGMとして聞く事が出来たのは得難い経験だった。また、芥川の持つ良い意味での古臭さを一層引き立てていた。

次に役者。これも良かった。特にカンダダ役を演じた大谷美智浩。蜘蛛を見逃すときの酔っぱらったような呂律、蜘蛛の糸を上りはじめた時の高揚、そして糸に群がる他の罪人達への身勝手な叱責。どれもが目を見張るもので、舌を巻いた。また彼は「杜子春」の詠み手も務めており、地の文の柔らかさ、鉄冠子の荒々しさの演じ分けも見事だった。

演出も、時に人形を用い、また所々にコミカルなセリフ回しを挿し込み、笑いを誘うかと思えば、黒犬となった白の勇ましさを伝える新聞記事を矢継ぎ早に読みあげる記者達のシーンには目頭が熱くなった。

 

のだが。

全体としての評価は、あまり高くない。

上に書いたように、部分部分は素晴らしいものが光る。演出も役者も、実に良い。

だがやはり、全体として、この芝居を考えた時、あまり良い評価をつける事は出来ない。

 

 

その理由を考えてみた。

この芝居のチラシには「珍解釈・新解釈・真解釈?」という煽り文が踊っている。

だが、シンなりチンなりの解釈を示せていたのは「杜子春」だけ。

「蜘蛛の糸」は釈迦が「考えなしにあのような事をするのではなかった。私の馬鹿!」と自省するシーンや、再び地獄で拷問されるカンダダの描写が挿入されていたものの、シン解釈と言うにはあまりに拙い。僕には「蜘蛛の糸」を読んで釈迦の身勝手さが鼻につかないものなど、とうてい居るとは思えない。

「白」は「蜘蛛の糸」と「杜子春」の夢を見る以外なにも原作と変わらない。

 

あれならば、三つの短編をそれぞれ頭から終わりまで順番にやった方が良かったのではないだろうか。

僕にはそう思えてならない。

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