「不条理なもんは全部カフカだ」
伊藤計劃「虐殺器官」を読んだ。「ハーモニー」を先に読んだのは良かったのか悪かったのか。「ハーモニー」同様、いや、それよりも少し露骨に、数々の小説の痕跡が刻まれている。
この小説家は「ことば」というものに非常に強い恐怖か、あるいは畏怖の念を持っているようだ。「ハーモニー」といい「虐殺器官」といい、読んでいると伊藤計劃は誰かにことばによって殺されかけたようにしか思えない。あるいは実際に殺されたのかもしれない。すべてではないにしろ、その脳の五七二のモジュールの一部を。
「ハーモニー」と違い、この小説は実に僕を満足させてくれた。この小説には僕の好む主張がふんだんに盛り込まれている。それは僕の中である程度咀嚼されていたものもあれば、まだ塊で残っているものもあるが、いずれにしろ僕にとっては嬉しい事だ。僕はこのような発見でまるで作者に自身を肯定されたかのような喜びを得る。「ハーモニー」も勿論面白かったが、満足よりもなによりも、その端々に見える作者の叫びが読んでいて辛かった。
ただ、しかしその一方でなんとも感想を語りにくい。この小説から自分と似た考えを持っているのだろうと推察し自身の部分的正しさの補強とすることは出来たが、僕はまだこの小説から新たな発見――すなわちセンス・オブ・ワンダー――が得られていないのだ。その理由は僕もまた現代小説の子供であり、喩えるならば伊藤計劃の弟分であるからだ、などと書くのは驕りが過ぎるだろうが、まあ正直な話そのような認識だ。読書量や思考レベル、そして文章力に至るまで、なかなかに圧倒的な差を感じるので書いていて自分でも恥ずかしいのだが、感じたものは仕方が無い。好き勝手書くついでに恥も存分に搔いておこう。
それよりもなによりも。僕が憤慨するのは、「虐殺器官」「ハーモニー」を読んでなお彼の死に何らかの意図を見出そうとする連中だ。無論、彼らが正しいのかも知れない。伊藤計劃は何らかの策略を抱えてこの二作を書き、自身の死を以ってその計劃を遂行しつつあるのかも知れない。だが、少なくとも僕には、彼が死んだという事実を携えながらこれら二作を思い返しても、「今」や「現実世界」に広がる無関心さや無寛容さに苦しみ、喘ぎながら、自身の生きる事が出来る場所を探していたようにしか読み取れない。「死者はぼくらを支配する。その経験不可能性によって」この言葉が指し示すのは、死者が生者を縛るのではなく、生者が死者の皮を使って自分自身を縛っているのだという事ではないのか。伊藤計劃の皮を被って、自分の見たい現実を作っているだけではないのか。僕には、伊藤計劃を祀り上げている連中がそのように映る。そして、伊藤計劃の小説はそれを「悪」だとは決してしなかったが、断じて「是」としていた訳ではないと、そう思うのだ。