一度打ち込んだ文字を、バックスペースキーでなかったことにしたっていいじゃないか?
少しぐらい、後戻りしたっていい。やり直したっていい。まったく別な、新たな文字を打ち込むことだってできる。
そう思っていた方が、人生どんなにかラクだろう。
加納朋子の「駒子シリーズ」、その第三作目「スペース」を読んだ。このシリーズは手紙が謎を運び、その手紙を読んで探偵役が謎を紐解くという、いわゆる「安楽椅子探偵」ものである。と言って、嘘はないはずだ。一作目「ななつのこ」二作目「魔法飛行」を読んでからおよそ10年の時を経て、ようやく三作目を読むことが出来た。
そして、僕は心から思った。「十年あけて、良かった」と。実際のところは全くもってそうではない。「スペース」の存在を知ってから数日間もやもやとし、本屋でそれとなく探してみたりするも一向に見つからず。業を煮やしてAmazonで注文する際、三冊ともまとめて購入し、一作目の頭から読み返したからだ。
それでも、やはり、昔読んでからずっと記憶のどこかにこべりつき、僕の人格にも影響を与えておきながら、一切確固たる像として、作品として、浮かび上がってこなかったこの駒子シリーズが、この12月の始めに、曲がり角から飛び出した自転車もかくやという唐突さで、僕の頭からポコンと飛び出したこの作品が、新鮮だ、などとは言えないのだ。懐かしさと、ありし日には意識しなかった、あるいは意識しても忘れてしまった様々な驚き。ある意味ではこれも、10年近い時を経たが故の感情であろう。だからやっぱり、僕は「魔法飛行」を読んでから10年後に、「スペース」を読んだのだ。(もうひとつ思い出してみると、確か僕が一番最初に読んだのは「魔法飛行」だった覚えすらある。「魔法飛行」を読み進め、読み終わるか終わらないかぐらいのところで二作目だと気付き、慌てて「ななつのこ」を読んだ。そのはずだ)
さて、そんな「スペース」だが、はっきり言って最初の100Pは割と退屈だ。無論、気を惹く部分は何箇所かあるが、僕は何度もページを閉じて別のことをした。この100Pを読むために二日ほどかけたのではないだろうか。なにせ、92年に出た一作目、93年に出た二作目から10年以上あけて、04年にようやく出た作品である。なにより読み直してみて改めて前作前前作が面白すぎたせいもあり、色々と――それはもう色々と――思うところはあったわけだ。
だが、その100Pを越えた先に僕を待ち受けていたのは、先ほど書いたように、「十年あけて、良かった」というものだった。この冗長さ、退屈ささえも、そしてもしかしたら僕が読んでいる間に考えた色々さえも、作者の狙いだったのだ。そして結末にはシリーズ共通の、伏線まるごと回収。素晴らしい。こんなもの、脱帽するしかない。
作品に漂う空気は全然違うが、BBC制作、ベネディクト・カンバーバッチとマーティン・フリーマンの「シャーロック・ホームズ」シリーズが好きな人なんかは、実はかなり親和しうるのではないかと思う作品である。
読んだことがない人には若干の妬ましさを覚えなくも無いが、常に新刊で追いかけた人と同じだけの時間をあけて読めたというのはかなり良い付き合い方を出来たとも思う。何せ今この作品を知って楽しんでしまったなら、三作目を10年寝かせるなんて出来るわけもないのだから。