聲の形第二巻

「死ぬために稼いだお金なんて使いたくないもの」

 

「マルドゥック・スクランブル」のコミカライズでデビューした大今良時の初オリジナル作品。

一巻を通して描かれた、リアル感のあるいじめ描写。障碍者がいじめられる、という点よりも、いじめっ子が一転していじめられるようになり、友達だと思っていた連中が態度を一変する流れがとても印象的だった。

死のうとする主人公も、結果は想像できるが過程を思い描くほどのリアリティはない、ふわふわとした現実認識が実に現代の若者らしくて良かった。

二巻では、西宮と再会した石田が、その再会を機に再び変わっていく様子が描かれている。

彼を取り巻く人間関係も、それと同期して変わっていく。

いじめていた相手とその身内。母親。新しくできた友達。

そして主人公は死のうという決意から、生きている限り西宮のために命を使う、と決意を新たにする。ここも実に自分主体で、命の価値に対する葛藤がない。若者らしくて素晴らしい。若者なんて考えなしで、無鉄砲で、行き当たりばったりで、何かしては後悔して、なにもしなくても後悔して、きっとそれで良いのだと僕は思うから。

 

この漫画の特筆すべき点は親の存在だろう。

昨今に限らず、やはり少年漫画というものに親は不在がちだ。少年のアバターたる主人公にフォーカスを当て、その一挙手一投足を世界に影響を与えるレベルに肥大化させる。そのためには少年の支配者であり保護者であり指導者たる親の存在は邪魔になりがちだ。親は往々にして仲間や逆に庇護を受ける存在に落とし込まれる。良くて、主人公の成長を遠くから見守る程度だ。

だが、この作品は違う。息子のいじめが原因で二百万円近い賠償をさせられてなお、息子が文字通り死ぬ気で稼いだ金に火をつける母親からは息子に対する溢れんばかりの愛が感じられるし、娘への独善(なのかどうかはコミックス二巻の時点ではまだ描かれていないが、現時点での解釈で書いている)が一方的かつあまり適切でない過保護へとつながっている西宮の母親も、その行動が愛ゆえである事は察せられる。

だが一方で、この作品には父親が驚くほど登場しない。リアルな母と登場しない父。この辺りは、作者が女性であることと、この漫画の執筆に手話通訳者の母親が協力している事などが関係しているのだろうか。

 

僕がこの漫画を読んでいて好ましく思うのは、その展開の意外性だ。この二巻でも、西宮の妹が「自分は西宮と付き合っている」と主人公に告げたり、ネット記事を捏造して主人公を停学処分にしたり、あまつさえその直後遭遇して自分がやったと告白したりする。これが数話の間に詰め込まれているのだ。この怒涛の展開と、それをほとんど葛藤なく許容する主人公という存在が違和感なく描けている。僕はこれをとてもすばらしいと思う。

今後、石田を取り巻く人間関係がどう変化していくのか。この物語がどういう着地を見せるのか。続きがとても気になる作品だ。

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