梟の城

群衆の中には、かれらをより群衆化させるために、ひとりはきまって精神の脆弱な者がいる。

 

司馬遼太郎「梟の城」を読んだ。

司馬遼太郎の小説はもう一行目が頭をブン殴られたかのような衝撃を以って、こちらをその時代に蹴落としてしまう。これも同様だ。ページなど物の数ではない。書物だというのに、その場に自分が立って、横で司馬遼が滔々と何が起こっているかを聞かせてくれているかのような、そんな錯覚にすら陥る。

しかし、読む分には素晴らしいこの特色も、感想を書くとなっては非常に難しい。この人は文中で話を進めると同時にそれへの感想、考察、推量にいたるまでの自らの考えを懇切丁寧に並べ、更には「余談だが」にも象徴される、まったく別領域からの情報をも山と積み重ねるので、僕程度の人間ではその圧倒的な情報量に濁流に飲み込まれた一枚の葉の如く、ただ飲み込まれ掻き乱され流されていくことしかできない。それはもうえも言われぬ心地よさだが、そのせいで感想はと自問すれば「おもしろかった」程度のものしか出てこないのがなんともはや。

思うに、司馬遼太郎は文章が上手すぎるのだ。小説でありながら、歴史に片足を突っ込んでしまうほどに。それ故に「司馬史観」が問題となる。彼は小説を書いているに他ならないのに。

言い訳はこの辺りでやめておこう。何とか、かろうじて、濁流を流され終えたわが身に滴る雫を読み解くなら、重蔵の考える「忍者」像と、僕の考える「人間」像に近しい点があるという事だ。彼は忍に本性などなく、ただ今日のみあり、立場状況によってどうとでもなる、雲のようなものだと述べていた。自分の中にいくつもの側面があり、状況に応じてそれらが難を逃れさせてくれるのだと。僕は数年前から、人間に芯などというものが本当にあるのだろうかと考えている。「仮面」などに喩えられる事も多いが、果たしてその仮面の下に、顔など存在しているのかと。僕はいくつになっても両親の前では子であり、師の前では弟子であり、後輩の前では先輩であり、先輩の前では後輩であろう。僕を僕たらしめているのはまさにこの多種多様なる関係性としての僕ではないのか。これらすべてに変化している、「本当の僕」などというものが存在しているとはとても思えない。そのような事を考えているので、この小説の忍者たちの余りにもあっさりとした心変わりにもひたすら、「ああこれは現代人にも広く見られるものだなあ」と感じていた。

天平の甍

「私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。多勢の僧侶があれを読み、あれを写し、あれを学ぶ。仏陀の心が、仏陀の教えが正しく弘まって行く。仏殿は建てられ、あらゆる行事は盛んになる。寺々の荘厳は様式を変え、供物の置き方一つも違ってくる」

 

井上靖「天平の甍」を読んだ。奈良時代、鑑真を日本に招いた留学僧の話である。誰もが知っているように、鑑真は何度も何度も日本に渡ろうとして失敗を続け、失明しながら六度目にしてようやく日本の土を踏むことが叶った。その物語なので、当然その幾度もの失敗が描かれる。それも井上靖の文体であるから、情緒豊かとはとても言い難い。あくまでも淡々とした書き口である。だが、それが何よりも心に来るのだ。鑑真が日本に持ち込もうとし、海に飲み込まれた将来品の数々。その目録がこの小説の中にも登場するが、その経典宝物の重要性を知らぬ素人でさえ想像するだけで身が震えるほど、大量の貴重な宝が黄海や東シナ海に沈んだのである。これが歴史小説の趣であろう。悲劇は起こる。これは歴史がそう記している以上、避けられるものではない。だが、彼らにとってはそれこそあずかり知らぬ事であり、成功を信じて歩み続けるしかないのだ。何度失敗しても渡日し仏教の発展を為さんとする鑑真、数十年ひたすら写経をし続けた業行、そして死の床に瀕してなお鑑真を日本に連れて行こうとした榮叡。彼らのその生き様はまさに狂信であり、僕は狂殉という言葉を思い描いた。文字通り、狂気に殉じているという事だ。彼らの努力があり、無数の失敗があり、そしていくつかの成功があったからこそ今があるのだ。鑑真が唐で死んでいれば唐招提寺は無かったし、彼とその弟子達がやっとの思いで持ち込んだ山ほどの経典や法具、そして何より膨大な仏教的知識がなければ日本の仏教そのものが大きく変わっていただろう。逆に、一度目の挑戦でたどり着いていたなら、これまたまったく違ったものになっていた事は想像に難くない。早々に鑑真が日本にやってきて仏教を受戒していたなら、行基が力を持つ事はなかったかもしれないし、渡日するまでに費やした十年とその経験が、鑑真の人格や心境に新たなる切り口を与えてない筈はないのだから。

誰だって失敗はしたくない。当然だ。現代人だってそうだし、当時の人間だって誰も失敗なぞしたくは無かったはずだ。だが失敗は起こる。残念ながら、失敗という事象を無くす事は不可能だ。勿論最初から成功を諦めるのは論外だが、失敗する可能性そのものを否定するのはもっとあり得ない。そして、その失敗のお陰で今があり未来がある事だって沢山あるのだ。

 

失敗は悲しい事だが、必ずしも悪い事ではない。一つの失敗のお陰でほかの成功が生み出されていることもある。それが誰の目にも明らかなら、苦労は無いのだけれど。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

「まだわからんかね? 救済はどこにもないのじゃ」「じゃ、これはなんのためなんだ? あんたはなんのためにいるんだ?」「あんたがたに示すためじゃよ。あんたがたが孤独でないことをな」

 

フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだ。ディックは昔何かを読んだ気もするのだが、何分僕の記憶というのは他人の五倍~十倍は当てにならないので信用ならない。この小説だって読んだ覚えがあったのにいざあけてみたらまったくそんな事はなかった。もしかすると春樹の「羊をめぐる冒険」と勘違いしてたのかも知れない。だとしたら重症だ。

 

話を戻そう。この小説を読んで、僕は謝らなけりゃいけない気がしている。この小説を好きな人間にだ。

確かにこの小説は面白かった。賞金稼ぎリック・デッカードとアンドロイドであるレイチェル・ローゼンの間に芽生える何がしかの感情にまつわる話でも、特殊者イジドアが三人のアンドロイドと交流しながら彼らを守り匿う話でも、共感ボックスによるウィルバー・マーサーとの融合の真相を巡る顛末でも、どれもが一級品の物語となるだけの強度を持ち合わせている。特に「マーサー教」の欺瞞を暴き喜ぶアンドロイドと、それでもなおマーサーを感じ、共感する人間という構図は、キリスト教に限らないのかも知れないが、とにかく生まれた時から宗教の中で生きてきた人間ならではのものを感じた。なんといえばよいのだろう。無数に繰り返される「奇跡の否定」を受けてなお、「神を信じ続ける」という選択を選ぶ理由のようなものが、少しだけわかったような、そんな気がする。

そして、この作品で僕の目に一番留まったのがガーランドのエピソードである。リック・デッカードとガーランド、果たしてアンドロイドはどちらなのか? 映画「トータル・リコール」にも似たようなシーンがあったのを記憶している。シュワルズネッガーが主演した方しか見ていないが。

さあ告白の時が来た。白状しよう。あのシーンを読みながら僕の脳みそは安部公房で埋め尽くされていた。

そこから先はある意味で地獄だ。もちろん別の意味では天国だが。この小説の素晴らしさを見出せば見出すほど、より一層、安部公房という小説家が、まるで地平に広がる山のように僕の心の中に聳え立つのだ。本を読んでいるとつくづく己の不完全さや傲慢さを思い知らされる。ああそうだ。僕は本を読むときは一事が万事安部公房だ。あの人の小説が好きで好きで仕方がないし、近いにおいを感じるともういても立ってもいられなくなって、トリュフを掘る豚さながらに必死になって似ている場所を探す。

いや、しかし似ているとは思わないだろうか。両者の本を読んだ人間ならこの感情がわかってもらえる気もするのだが、あるいはこれすらも僕の妄想なのかもしれない。だが、たとえ妄想だろうが思い込みだろうが浅慮と無知の結果であろうが関係ない。

とにかく、僕は「やっぱり安部公房ってすげーわ」という、小説家にも、この小説を好きな人間にも非常に失礼な感想を抱いてしまった。それをお詫びする。ごめんなさい。

その上で厚顔無恥にも言わせてもらうが、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで、「人間そっくり」を読んでいない人がいたら是が非でも読んでほしい。そして、もしも僕に感情移入してくれるのであれば、これ以上の事は無い。

ハーモニー

「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」

 

伊藤 計劃「ハーモニー」を読んだ。伊藤計劃の小説は初めて読んだが、この小説は二十一世紀のSF、二十一世紀の小説の、ひとつのモデルケースであろう。いや、勿論今後百年間で小説界に何が起こるかなぞわかりはしないので滅多な事は言うものではない。より厳密に言うならば、現代文学の子供、そのモデルケースである。

この小説には様々な小説の痕跡がある。それでいて、そこに他意がない。負い目がない。気負いがない。必要だったから。あるいは手頃だったから。まるでそんな感じに、様々な小説の要素が埋め込まれている。これが、この小説の最も突出している点だ。

影響を受けた作品に対して、人は何らかの感情を抱かずには居られない。それは尊敬や羨望かもしれないし、嫉妬かもしれない。あるいは憎悪とか、軽蔑とか、それはわからないが、人は必ず何らかの感情を抱くし、その感情がその作品への態度を決定付ける。だが、この作品にはそれがない。

何故か。

それは、作者が作品に変えられたのでなく、作品によって育まれたからだ。

自分が今まで積み立てて来た常識や見地、認識が揺らぎ、変容する。それは小説の持つ大きな力のひとつだ。いわゆるセンス・オブ・ワンダーという奴である。このセンス・オブ・ワンダーによって今までの価値観が変質した人間は、そのギャップをどう解消するかという問題に取り組む事になる。例えば「この考え方はAという場合には間違っていてもBという場合には正しい」という限定的な肯定だったり、「今までなんて愚かな考えをしていたんだ」と自分やその価値観を責めたり、「いいや、この本に書いてある考え方は間違っている」と手に入れた新たな価値観を否定したり、まあ方法は様々だが、いずれにしても「新たな考え方」との関係を構築する。そして、自らの既存の価値観を揺るがし、新しい価値観をもたらしたものへの何らかの感情を獲得する。

だが、そうならない人間が居る。土台となる価値観自体を、それらの小説によって培った人間である。作中に登場した手話で会話する民族のようなもので、誰かの脳を揺さぶるモノを子守唄代わりに育つ人間がいるのだ。そんな人間にとっては「手話こそが基本」であり、音声会話者が手話を習得するための苦労や手話特有のメリットやデメリットを実感する事もない。

この伊藤計劃という小説家は、きっとそんな人間だ。安部公房やジョージオーウェルを子守唄として育った人間だ。彼らが社会にもたらしたセンス・オブ・ワンダーを用いて、土台の価値観を培った人間だ。

 

何故作品内容も書かずにこんな事を書いたかと言えば、僕にはこの小説が作者の悲鳴に思えたからだ。

ある価値観が支配した世界に、別の価値観だけを持って降り立つとどうなるか。当然、非常に激しいストレスを受ける。ミァハの自傷行為や、二人の同志を唆して死のうとした事も、結局腑分けするならばストレスによるものだ。大本からして、ミァハの人格自体がストレスによって生み出されたのだ。これは小説だけの話じゃない。明文化されていないが、しかし逆らいがたき「空気」。これは日本のあらゆる場所で散見されるし、勿論日本のみならず世界中に存在する。この作者もまた、そのストレスに苛まれただろう事が容易に想像できる。そしてきっと、作者は現代社会を支配する「空気」を、最後まで肯定できなかったのだ。

 

だって挙句の果てに人類がたどり着くのが「意志の放棄」だなんて、あまりにも絶望的な救いじゃないか。

考えるのすら嫌になって、でも、そこまで行っても自分を否定する事も、周囲を肯定することも出来ない。

 

そして、その救いすらミァハ自身の手で為す事は出来なかったし、ミァハ自身にその救いが訪れる事もなかった。

どこまでも変われない自分自身を、自嘲し自傷するような小説だった。

ファミリーポートレイト

「この世の終わりの日まで、一緒よ。呪いのように。親子、だもの」

 

桜庭一樹「ファミリーポートレイト」を読んだ。人形にして神。家畜にして女王。哲学者にして官能者。小さくて大きなコマコの物語。

始めのうち、この作品は僕にとってフィクションそのものだった。僕とかけ離れた境遇を生き、不思議な町を渡り歩き、事ある毎にひどい目に会い、それでも母を愛する、哀れな少女のフィクション。

それが、母の死を境にいきなりこちらにやって来た。

父と再会し、社会と邂逅した。彼女はフィクション世界からノンフィクションへの回帰を果たした。

ノンフィクションの世界には、車椅子を駆る老人も、女装少年も、豚の民も、隠遁者を雇う貴族も、そして真紅を湛える母もいない。

だが、そこには人間がいた。関係があり、社会があり、現実があった。

現実に現れたコマコは、驚くほど僕を満足させた。彼女の出会う人間の語る言葉、彼女の紡ぐ幾篇もの物語、そして彼女自身が得る見識、たどり着く思考。

僕が思っている事や、僕が喜んで受け入れられる事が、沢山書かれていた。僕は、他者の作品から己の主張を読み取る事を非常に好む。まるで作者に自分を肯定してもらえたかのような錯覚が好きなのだ。

そして、ようやくこれが作者桜庭一樹自身の「嘘話」なのであると気がついた。

小さなコマコの前を流れていった風景も、入れ替わり立ち替わり現れた人々も、否応なしに出くわした出来事も。

全てが嘘で、そして真実の欠片なのだ。

小説は、対話に似ている。作者と作品との。作品と読者との。そう、つまるところ、読者と作者との。そして、対話とは自問に似ている。人は己を通してしか世界にかかわる事はできず、己を介してしか世界を知る事はできない。

しかして、自問とは対話なのだ。己に存在する他者。自らを構成している、はるか昔に溶け合ったかつての他者との交流。人は作品を通じて、そして作品に触れてからその後の一生を、無限に続く自問と対話に費やすのだ。

コマコの中にマコが住み着いたように。それらがあるときは幻覚として、あるときはもう一人の自分として。最後には混ざり合った同一のものとして、自分自身に、世界に、影響を与え続ける。

僕はまだこの作品をたった一度、目を通したに過ぎない。

それでも、僕の中で芽生えたものがある。植えつけられたものがある。これは僕自身だし、僕の中に溶けたこの作品の一部、つまり作者の真実のひとかけらである。

血の絆が親子を永遠に結びつけるように、読者と筆者も、作品によって永遠に結び付けられる。終わりの日まで一緒だ。呪いのように。