スペース☆ダンディ第六話

「まあ、パンツのが正直きついわな・・・・・・」

 

スペースダンディの第六話。一万年の長きに渡り争ってきたパンツ一丁の博多弁宇宙人と全裸チョッキの山口弁宇宙人。その戦争の地に降り立ったダンディとミャウは、それぞれの陣営に連れ去られてしまうのだが・・・というあらすじ。

あらすじが頭から吹き飛ぶような終わり方だった。確かにサーフボードのネタ振りは開幕早々あったのだが、その後の展開によって脳内からすっかり押し流されており、衛星が二つのミサイルによって爆破するシーンでは「あ、また死亡落ちかな?」などと、先を読んだつもりでいた。うぬぼれもいい所だ。僕の凡庸な発想は制作陣の圧倒的なセンスによって砕け散った。間欠泉も、サーフィンも、更にいうならあの博多弁宇宙人にダンディが捕まったのも、すべてがこのための前振りだったのだ。髪の毛を下ろしたダンディーの華麗なる波乗り。ミャウをボードにひっかけながら、飛沫を受け飛来する無数の岩石を回避し、そして宙へと消えていったあの完成された映像美。あまりにも唐突な挿入歌の強烈に絡み合ったミュージックビデオかプロモーションビデオのワンシーンのようなソレが、二十分の積み立てによってとてつもない面白さを放っていた。

なんというアニメだ。恐ろしい。四話五話六話と、毎度毎度前回の面白さを塗り替えてくる。

勿論、ほかの部分もとても楽しい。そして、その二十分の前振りがあるからこそ、いや違うな。その二十分を前振りにするからこそ、最後の部分を十全に楽しめる。このペース配分は誰の仕事だろう。素晴らしい。これまで見捨てられた恨みを晴らすかのようなQTの念仏もキレてるし、二人の宇宙人が調停間際で決裂するシーンは人間側からも実に共感できるし、その直後のピストルでの撃ち合いは僕にはMASTERキートンに出てきた、FP-45を使った決闘を思い起こさせ、顔が薄気味悪くニヤつくのを抑え切れなかった。衛星が爆破されたシーンのBGMもバッチリだし。はやくサントラを出していただきたい! あのBGM本当に凄いほしい。ずっと聞いていたい。

来週はレース回ということだが、チキチキマシン猛レースになるのかそれとも他の何かになるのか、楽しみでしかたがない。

 

・・・ん? 宇宙人、リーゼント、レース・・・?

REDLINEじゃねーかこれ!!

 

追記:どうやら山口弁じゃなく北九州弁だったらしい。申し訳ない。

あなたはだんだん眠くなる。

暗示とはなんだろうか。

僕はこれまで三人ほどの催眠術師に出会った事がある。術をかけられた人としゃべった事もあるし、術をかけられた事もある。

逆に言うならその程度の経験だ。そしてほかに暗示に関する知識らしいものを入手する手段はフィクションにしかなかったので、実態は違うかもしれない。また、精神科などで行う暗示療法に関しては見た事も聞いた事も無いので、あれらがこれまで僕の触れてきた暗示と同一であるかどうかも知らない。

だが、少なくとも僕がこれまで出くわした術師や、フィクションから得た情報を加味する限りにおいて、暗示とは許しを請う技術である。

彼らはものものしい。仰々しく、大げさで、喜劇めいている。そして、自らの暗示(すなわち、握った手を離せないとか、鳥になるとか、目をつぶったら目の前に花畑が広がるとか)が、対象者にかかって当然。効果を表して当然だというように、振舞う。勿論衆人環視の中である。それは対象者にとって大いなるプレッシャーとなる。

あっさりと手を開いてしまえば、相手の面目は丸つぶれになるのではないか? そういう考えが頭をよぎる。実際はそうではないのだが、そう考えてしまう。これが暗示の第一の鎖である。また、人間は一度にひとつのことを考えているわけでもない。相手の面目を心配している同じ頭の中に、不思議な出来事に遭遇したい、巻き込まれたいという思いが存在する。それが暗示の第二の鎖となり、自らを縛り上げる。自分は今不思議な出来事に遭遇しているのだ。暗示をかけられ、手を開く事ができないのだと、自分自身がそれを望む。

そして、対象者は結論を下す。手を握っているだけで皆が満足するなら、握っておいてやろうと。

この考えが僕の中で現実味を持つのは、無数のフィクションが声をそろえて訴える「暗示で人は殺せない」というルールを説明できるからだ。

誰だって死ねとお願いされて死んでやるほどのお人よしではないのだという、ごく当然の発想である。結局は閾値の問題だ。知らない人に突然鳥の物まねをしろと迫られても、人はそれをしない。だが、上記の二つの鎖が、人の閾値を下げる。そのぐらいしてやるかという気になる。だが、どれほど周囲に期待されたからといって、ホイホイ死ぬ人はそうそう居ない。

 

だから暗示で人は殺せないのだ。

ファミリーポートレイト

「この世の終わりの日まで、一緒よ。呪いのように。親子、だもの」

 

桜庭一樹「ファミリーポートレイト」を読んだ。人形にして神。家畜にして女王。哲学者にして官能者。小さくて大きなコマコの物語。

始めのうち、この作品は僕にとってフィクションそのものだった。僕とかけ離れた境遇を生き、不思議な町を渡り歩き、事ある毎にひどい目に会い、それでも母を愛する、哀れな少女のフィクション。

それが、母の死を境にいきなりこちらにやって来た。

父と再会し、社会と邂逅した。彼女はフィクション世界からノンフィクションへの回帰を果たした。

ノンフィクションの世界には、車椅子を駆る老人も、女装少年も、豚の民も、隠遁者を雇う貴族も、そして真紅を湛える母もいない。

だが、そこには人間がいた。関係があり、社会があり、現実があった。

現実に現れたコマコは、驚くほど僕を満足させた。彼女の出会う人間の語る言葉、彼女の紡ぐ幾篇もの物語、そして彼女自身が得る見識、たどり着く思考。

僕が思っている事や、僕が喜んで受け入れられる事が、沢山書かれていた。僕は、他者の作品から己の主張を読み取る事を非常に好む。まるで作者に自分を肯定してもらえたかのような錯覚が好きなのだ。

そして、ようやくこれが作者桜庭一樹自身の「嘘話」なのであると気がついた。

小さなコマコの前を流れていった風景も、入れ替わり立ち替わり現れた人々も、否応なしに出くわした出来事も。

全てが嘘で、そして真実の欠片なのだ。

小説は、対話に似ている。作者と作品との。作品と読者との。そう、つまるところ、読者と作者との。そして、対話とは自問に似ている。人は己を通してしか世界にかかわる事はできず、己を介してしか世界を知る事はできない。

しかして、自問とは対話なのだ。己に存在する他者。自らを構成している、はるか昔に溶け合ったかつての他者との交流。人は作品を通じて、そして作品に触れてからその後の一生を、無限に続く自問と対話に費やすのだ。

コマコの中にマコが住み着いたように。それらがあるときは幻覚として、あるときはもう一人の自分として。最後には混ざり合った同一のものとして、自分自身に、世界に、影響を与え続ける。

僕はまだこの作品をたった一度、目を通したに過ぎない。

それでも、僕の中で芽生えたものがある。植えつけられたものがある。これは僕自身だし、僕の中に溶けたこの作品の一部、つまり作者の真実のひとかけらである。

血の絆が親子を永遠に結びつけるように、読者と筆者も、作品によって永遠に結び付けられる。終わりの日まで一緒だ。呪いのように。

スペース☆ダンディ第五話

「あたし、急いで大人になる。もう、全速力で!」

 

制作陣の豪華さや、カートゥーン・ネットワークでの放映といったニュースのおかげで一部で話題になり、放送直後はその方向性への賛否が溢れかえったりもしたが知名度自体はどうもいまひとつな、スペースダンディの第五話。言ってしまえば半ばこれの感想を書く場所を求めてこのブログを始めたようなものである。

このアニメの特徴は「一話完結」である。まあ今後前後編や過去話の続きをやる事もあると思うが、基本的に一話で終わる。生半可な終わりではない。高橋葉介の「学校怪談」よろしく、主人公が死んだりする。本当に話が終わるのだ。そして、次回予告では平然と生き返っている。

素晴らしい。僕はこういう、漫画の短編集じみた物語構成が大好きだ。

また、音楽の使い方や作画の力の入り方も凄く、正直映像と音楽の調和だけで楽しい。

だが、人にお勧めできない。好きな僕から見たって、最近のアニメとは違った意味で尖ってる事ぐらいわかる。土台、これまでの話を見るにこのアニメのジャンルはギャグなんである。SFコメディーなんである。壮大なストーリーや、息もつかせぬアクション、そして悲劇。これらと違い、喜劇は難しいのだ。ある個人にとっての傑作が、他の個人にとっては凡作どころか塵芥扱いされることも珍しくないのである。

結果、僕は孤立した。面白いと思ってもそれを書く場所がない。言う相手がいない。何が面白かったのかを語り合ったり、文章化して、自分自身が現実世界で観測してみなければ、曖昧模糊な「漠然とした面白さ」はそのまま思考の海に飲み込まれ見えなくなる。これは問題だ。そういう次第で、せめて書き残すため。あわよくば誰かの目に触れるため。ブログを作ろうと思い立ったのである。

 

話を戻そう。五話の感想だ。

構造は至極単純である。迷子の親探し。展開も極めてベタで、特別な子供、その子供を狙う大人、そして善意をひょうきんさに隠した二枚目半。実に王道。

毎度の事ながら映像が素晴らしい。もちろん音楽も素晴らしい。画面が楽しい。アデリーが銀河鉄道の窓から満天の星を見るシーンは本当に綺麗だ。

そんな中でも、今回の最たるものは演出であろう。これまでも演出には何度もニヤリとさせられたり、唸らされたが、何よりもセリフを使わずにシーンシーンを流す手法は流れるBGMとの相乗効果が凄まじく、Aパートの時点でもう既に遠からず訪れる二人の別れを想像して辛くなるほど感情移入してしまった。目玉焼きや冷凍ミカンを使った細やかな演出も素晴らしい。

二人のすれ違いも、その後の和解も、全編を通して両者が何を考えどんな感情が生まれたかを非常に丁寧に描いているので、見ている人間の感情移入を阻害しない。これは前の話の積み立てがない三十分アニメとしては驚異的な事だ。

終わり方もまさに「王道」という他なく、「王道」「ベタ」の魅力を存分に引き出しつつ、しかしそれだけで終わらせない制作陣のセンス、実力には脱帽である。彼女がゲストキャラだというのが残念でならないがしかし! ここは自らを戒めておかねばなるまい。ここで別れるから良いのだと。今後も出てきてほしいという感情は勿論あるが。

 

そういえば今回は第七艦隊が一切出てこなかったが、この話の裏では相変わらずダンディを探し回ってペリー提督に爆破されてるのだろうなと思って一人ニヤつく事が出来るのもこれまでの積み重ねの成せる技であろう。

 

 

後、しょうもない話だがアデリーの服のデザインがツボ過ぎて辛い。スーパーストリートファイター4のイブキ的な。ダボついてる服から細い手足が出ているところとか、手も足もほとんど肌を見せてないくせに大胆すぎるほど背中を見せているところとか。

よろしい。まず君から引き給え。

久々にボードゲーム会に参加。

遊んだのは「ガイスター」、「ギンコポリス」、「ゼロ」の三種類。

「ギンコポリス」と「ゼロ」は初プレイ。

 

「ガイスター」は相手に二択を迫るもののスルーされて負けたり、初歩的なルールの勘違いでゴールされたりと、今日は腑抜けた結果だった。

 

「ギンコポリス」は、日本語でいうと「銀杏都市」となる。が、勝利点トークンがイチョウの葉である他はあまり関係がない。多分作者が好きなのだろう。

自分が建物を建てると、その下の建造物の効果を手に入れられるという一風変わったシステムや、勝利点獲得方法や資源獲得方法が複数あり、また手札自体はドラフト制と、毎回勝つための道筋が変わることが想像出来る面白いゲームだった。是非とも遠くないうちに二回目を遊びたいものだ。

 

最後は「ゼロ」。デザイナーがライナー・クニツィアという時点でもうどんなゲームか、感覚で察して頂けるかも知れない。手札をできるだけ同じ色に、そしてできるだけ同じ数字に整えていくゲーム。

「各カードには一から八の数字があり、ゲーム終了時手札にある数字分減点される」

「同色五枚以上、同数五枚以上を持っている場合、そのグループによる減点は無し」

「同じ数字のカードは一回分しか減点しない」

以上の非常にシンプルなルールに従いながら各人九枚の手札と場の五枚のカードを交換しながら手札を整える。全体で二度パスされるか、誰かが手札の減点をゼロ点にして「ZERO」と宣言すれば一ラウンドが終了する。人数分ラウンドを行って最も減点の少ない者の勝利。

同じ色を集めるべきか、同じ数を集めるべきかという他人や場とのカードとの兼ね合いが非常に悩ましい。

「ZERO」の宣言による終了は他のプレイヤーからは予想が立てられないので、どの程度「ZERO」を目指すか、どの程度で妥協して失点を減らすかという、自分の中での妥協点の模索が苦しく楽しいゲーム。

 

新しく遊んだ二つのゲームはどちらも二度目、三度目のプレイが楽しみなゲームで、とても良かった。とりあえずジャイプルを注文したので、次のボードゲーム会にはこれを持っていこう。