ピンポン第四話

「怠慢と妥協にまみれた卓球を続けたお前に何が出来る。……何が出来るよぉ!」

 

チャイナとドラゴンの試合はずっと爆笑してた。ありゃ凄い。ただ、見間違えたのかもしれないが一回玉がツーバウンドしなかったか? アクマとペコの試合は、何度も同じ映像を流す事でペコの苛立ちを表現しようとするのはわかるし本当に苛立ったからなんとも言いにくい。ただ、手抜きなのは確か。試合後アクマが話しかけながら近づいてくる所とか台詞の切れ目にも口動いてて残念だった。

あの茶髪の覆面は最初チャイナ関係かと思ったけど、どうやらアニメオリジナルで出てくると前々から言われてたドラゴンの許婚のようだ。もしかしたら真田は横恋慕してるのだろうか。ちょっと俗っぽいのは真田のキャラクター的にはありかも知れんが、「リア充」とかそういう類の単語をあんまりアニメで聞きたくないなぁ僕は。

後、海王を余りにもすごい場所にしすぎじゃないか? あんなに設備そろってる高校とかリアリティが無さ過ぎるし、それだけ揃えて負けたらそりゃ「ほかのやつ何やってるの」になってしまうのも当然だと思うし、そんな場所でミーティングさぼってマリカーする後輩とかドラゴンじゃなくても怒るだろ、と先の展開を思い出して不安になってしまう。この改変は今後が気になる所だ。ドラゴンの「勝利への追求」に掛ける異常性が薄まってしまわないようにがんばってほしい。

OPも少し変わってた。最終的にどうなるのだろう。

白ゆき姫殺人事件

「赤星。おれの言ってること、全部本当だと思うか?」

 

映画「白ゆき姫殺人事件」を見た。何時ぞや劇場で見たCMに心を惹かれて見に行ってみたが、当たりだった。

人間は適当な生き物で、自分を正当化し、納得できるような物語を作り上げる。そして、それは自覚的な場合も、無自覚的な場合もある。全編を通して、そんな人間達が描かれていた。

この映画はミステリーだと紹介されているが、トリックや真犯人や、多分そんな事はテーマじゃない。この映画の中では、殺人それ自体がマクガフィンだ。別に人殺しじゃなくてよかったし、更に言えば事件じゃなくても良かったのだと思う。この映画は、ひたすら普通の人を映している。取材内容やタレコミを逐一ツイートする赤星雄治は実に無神経で考えなしだ。だが、こんな人間は山ほどいる。その情報を元に大して裏取りもせずワイドショーを作るメディアはとても浅慮だが、これもどこにでもある光景だ。そして、それを見て笑い、嘲り、中傷する不特定多数。これは正に僕であり、あなたである。我々は眼にした情報を大して咀嚼もせず飲み込み、ピーピーとわめき散らす。それが間違っていたとわかって謝る人間はほとんどいないし、バツの悪そうな顔をする者さえ珍しい。ほとんどの人間は手のひらを返し、そ知らぬ顔で、今までとは反対側に立って同じ事を繰り返すのみだ。

日本の映像は軽薄だ。無論全てではないが、ドラマも、映画も、ニュース番組でさえ、上っ面だけまじめな皮を被って、中身はボロボロなものが沢山ある。これは作ってる連中だけ問題じゃない。見てる側だってそれを望んでいるのだ。薄っぺらく、軽く、浅く、そんなものを求めているのだ。この映画は、そこのところを巧く作品に落としこんでいる。アホがまじめぶるのは見ているだけでいらつく。だが、アホがまじめぶる映画は、その演技が真に迫れば迫るほど、良い。劇中に出てくるニュース番組は、おそらくテレビ会社のそっちの畑の人間が協力しているのだろう、恐ろしく真に迫っていて、これがテレビで流れたら本当のワイドショーだと勘違いしてしまうのではないかと思ってしまうほど出来が良かった。(つまり、それほどまじめを装った軽薄さを醸し出していたという意味だが)ツイッターで好き勝手につぶやく人間も、実にそれらしい。無軌道、無思慮、無責任。それは事件のインタビューを受けるさまざまな人間にしてもそうだ。自分に都合の良い物語。自分視点で綴られた歴史。そのどれが正しいかなど、問題ではないのだ。そして、この映画の凄いところは、「だから悪い」という安易な結論を出さない所だ。この映画は断罪しない。キャラクター達を実に滑稽に描いているが、しかし一方でそれはただ、彼らのありのままを映しているだけなのだ。

 

この映画に名探偵はいない。いるのはただ、「普通の日本人」だけだ。

天平の甍

「私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。多勢の僧侶があれを読み、あれを写し、あれを学ぶ。仏陀の心が、仏陀の教えが正しく弘まって行く。仏殿は建てられ、あらゆる行事は盛んになる。寺々の荘厳は様式を変え、供物の置き方一つも違ってくる」

 

井上靖「天平の甍」を読んだ。奈良時代、鑑真を日本に招いた留学僧の話である。誰もが知っているように、鑑真は何度も何度も日本に渡ろうとして失敗を続け、失明しながら六度目にしてようやく日本の土を踏むことが叶った。その物語なので、当然その幾度もの失敗が描かれる。それも井上靖の文体であるから、情緒豊かとはとても言い難い。あくまでも淡々とした書き口である。だが、それが何よりも心に来るのだ。鑑真が日本に持ち込もうとし、海に飲み込まれた将来品の数々。その目録がこの小説の中にも登場するが、その経典宝物の重要性を知らぬ素人でさえ想像するだけで身が震えるほど、大量の貴重な宝が黄海や東シナ海に沈んだのである。これが歴史小説の趣であろう。悲劇は起こる。これは歴史がそう記している以上、避けられるものではない。だが、彼らにとってはそれこそあずかり知らぬ事であり、成功を信じて歩み続けるしかないのだ。何度失敗しても渡日し仏教の発展を為さんとする鑑真、数十年ひたすら写経をし続けた業行、そして死の床に瀕してなお鑑真を日本に連れて行こうとした榮叡。彼らのその生き様はまさに狂信であり、僕は狂殉という言葉を思い描いた。文字通り、狂気に殉じているという事だ。彼らの努力があり、無数の失敗があり、そしていくつかの成功があったからこそ今があるのだ。鑑真が唐で死んでいれば唐招提寺は無かったし、彼とその弟子達がやっとの思いで持ち込んだ山ほどの経典や法具、そして何より膨大な仏教的知識がなければ日本の仏教そのものが大きく変わっていただろう。逆に、一度目の挑戦でたどり着いていたなら、これまたまったく違ったものになっていた事は想像に難くない。早々に鑑真が日本にやってきて仏教を受戒していたなら、行基が力を持つ事はなかったかもしれないし、渡日するまでに費やした十年とその経験が、鑑真の人格や心境に新たなる切り口を与えてない筈はないのだから。

誰だって失敗はしたくない。当然だ。現代人だってそうだし、当時の人間だって誰も失敗なぞしたくは無かったはずだ。だが失敗は起こる。残念ながら、失敗という事象を無くす事は不可能だ。勿論最初から成功を諦めるのは論外だが、失敗する可能性そのものを否定するのはもっとあり得ない。そして、その失敗のお陰で今があり未来がある事だって沢山あるのだ。

 

失敗は悲しい事だが、必ずしも悪い事ではない。一つの失敗のお陰でほかの成功が生み出されていることもある。それが誰の目にも明らかなら、苦労は無いのだけれど。