スペース☆ダンディ第十四話

「もしかしたら、元に戻ってオンリーワンになれるかもしれねぇ」「本当ですかね」「もし戻れなくて大変なことになったらどうするんですか?」「この俺がいざと言うときの事なんて、考えてると思うか?」

 

怪作アニメ「スペース☆ダンディ」の2クール目第一話。公開されていたPVのほとんどが一話で使われてしまった。今後どうなるんだ。しかも2クール目だというのに驚く事にOPもEDも変更が無かった。また内容的にも構成的にも完全にダンディを1クール見た人、更に言うと楽しんだ人しか相手にしていない。素晴しい。

これが「展開」の面白さだと、大音声で突きつけられるかのような作品だった。お話としては、粗筋なんてものを書くほどのものは無い。完全にキャラクターと彼らが存在することによるその場その場の展開だけで作品を構築している。それも、徹頭徹尾頭のおかしい内容をやるのでなく、まず温く緩やかなネタで見ている人間を安心あるいは油断させておいて突如フルスロットルでその緩んだ心を刈り取るような、あるいはゆっくりと毒を蓄積させていき気付かない間に致死量を盛るかのような、アニメに狩りという言葉をつけるならまさにこれという組み立てで、僕はその術中にまんまとはめられて最後5分ほど頭の血管が切れるかと思うほど笑った。後、「大魔王のイトコのハトコのマタイトコ」がSWリプレイでのスイフリーとパラサの「イトコの孫」などのやり取りを思い出して懐かしかった。また読みたい。

このアニメは本当に声優に「演技」を求めているように感じる。1クール目から、ベッタベタな急展開を演出と声優の技量でなぜか感動できるような空気に構築したり、くっだらない展開をなんとなく笑えるようにしたりとその気はあったが、この十四話は更にその色が強かった。メインの声優達にこれほど複数の演じ分けを求めるなんて、なかなか無い事だ。僕はエンディングのテロップが流れるまで各キャラクターがそれぞれ同じ声優だったとは露ほども思わなかったので、そこでも驚かされた。

 

 

ああ、ダンディだ。紛れも無くダンディだ。これは1クール、さまざまな意味で楽しめそうだ。

太秦ライムライト

「監督さん、太秦にエキストラはいません。みんな演技者、表現者です」

 

50年斬られ役を演じ続けたという名脇役、福本清三の初主演作品「太秦ライムライト」を見た。

どうにも、奇妙な映画だった。間違いなく映画である。つまりはお話であり、お芝居である。なのに、何故かドキュメンタリーのようにも見える。これは制作陣の実感こもった情景描写、演出によるものなのだろうか。

土台、主演の福本清三という役者自体が、奇妙な雰囲気を湛えていた。肋骨の浮いた、まさに老骨というような薄い胸板が見ていて痛々しいほどだが、その立ち振る舞い、刀捌きはとても七十とは思えない。言葉もしっかりしている。そうか思えば、時折ああこの人は老人なのだと再認識させるような喋り方にもなる。

芝居なのか、素なのか。

服の解れを直す姿。豆腐を切り、味噌汁に落とす仕草。あれは、香美山清一という役だったのだろうか。それとも、福本清三という役者だったのだろうか。

いずれにせよ、時代劇が減り、その“殺陣”役者達が数を減らしているという状況は現実のものだ。その現実を打破するために僕ができることは、やはり、時代劇を見るということしかないだろう。劇場でCMを打っていた「柘榴坂の仇討」(半ば明治時代の話らしいので時代劇と呼べるか不安だが)を見に行こうと心のメモ帳に書き記した。

 

映画のほかの部分に触れていなかった。

エンドロールを見ていると、やたら外国人のスタッフがいた。エンドロールや最初の説明文も英語が併記されていたし、海外向けに売り出すのかもしれない。京都は未だに石を投げれば外国人に当たるほどだし、注目されると良いのだが。実に日本の軽薄なドラマらしさを醸し出している劇中劇を見て呆れられてしまうんじゃないかというのが不安だが、あれもまた日本の映像界の現実である。あんなもんばかりでは無い事を祈るばかりだ。

BIOSHOCK INFINITE

「娘を連れてくれば、借金は帳消しだ」

 

BIOSHOCKは非常に有名な作品らしいのだが、昨日まで名前すら知らなかった。購入したのはSTEAMでシリーズ三作がまとめて15ドルと大安売りだったのと、某所で強烈にお勧めされたからだ。どんなゲームかもまったく知らないまま、意気揚々とBIOSHOCK1に挑戦した僕はそのホラーテイストに開始20分で完膚なきまでに叩き潰され、twitter上で弱音を吐いていたところを親切な人たちに「INFINITEは全然雰囲気違うからそっちからやるといいよ」とお勧めされて慌ててこちらをDLした次第。

まず彼らに感謝する。僕はあまりコンピューターゲームに慣れていないので死にまくったり迷いまくったりしてプレイ中はかなりイライラした場面もあったが、そんなものを吹っ飛ばすほどストーリーが面白かった。すばらしい。まさにドンデン返しという他ない。新たな情報が人物の立ち位置を変える。文章の読み方を変える。ゲーム中ずっと「ああこれ最後にエリザベス死にそうだなぁ」と思っていただけに、あのラストには一際驚かされた。二周目を強く勧める人が多いのも頷けるというものだ。きっと一周目は必死になっていて見落とした様々な真実の断片があることだろう。

また、キャラクターが非常に魅力的だった。ゲーム中、事あるごとに登場してまるで「アリス」の登場人物のように意味深で愉快な会話を繰り広げる二人のルーテスはこのゲームで最も好きなキャラクター達だ。囚われの少女エリザベスは髪をバッサリ切り落としてから馬鹿みたいに可愛くなり、敵に再び捕らえられ狂人が山のようにいる研究施設っぽいステージを一人で攻略しなければならなくなった時に「いやここでやめるわけにはいかないだろ! エリザベスが助けを待ってるぞ!」となけなしの勇気を振り絞る事ができた。

これだけ面白いとなると、BIOSHOCK1、2にも非常に期待できる。できるのだが……怖い。怖いのはどうにも苦手だ。だが面白そうだ。このせめぎ合いが僕をとても困らせている。いつかやろう。そのうちやろう。

MANDELA

「力を」「民衆に」

 

南アフリカ共和国第八代大統領ネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」を見た。

この映画は僕が漠然と、歴史上の一行としてしか知らなかったアパルトヘイトの一端を教えてくれた。そして、それ以上に、僕を恐怖させた。

南アフリカでホワイトの支配をブラックが打ち破った。これはただそれだけの問題ではない。世界の至る所で、長らく続いていた支配の一部が手放された、そんな時代だった。その機運が、ネルソン・マンデラを終身刑から救い、彼を大統領たらしめ、ノーベル平和賞まで受賞させた。

だが、現在。

二十一世紀が七分の一終わった、今この時。世界は未だ、無数の支配と搾取、そして差別に溢れている。

かつて。マンデラ達は戦った。日本も戦った。ベトナムもイラクも戦った。インドネシアも戦った。アメリカも戦ったし、ソビエトも中国もヨーロッパも、世界中が戦った。ある者は勝利し、ある者は敗北した。

だが、今。世界は変わらない。法の後ろ盾を失っても人種差別は残る。白人の支配から解放されたかに見えたアフリカではそこかしこで内戦が続いている。日本では「サヨク」という言葉自体が忌避されている。大国はその身の内に火種を抱え続け、希望に溢れていたEUにもいくつもの綻びや亀裂が入った。戦いでは世界を変えられない。彼らは戦いたくて戦ったのではない。戦わざるをえなくなって戦った。そこまで「追い込まれた」のだ。「正義は我にあり」「間違っているのは彼らだ」そうやって、自分達を正当化し、鼓舞し、戦った。戦うためには必要なことだ。だが、支配と戦い、その場の支配者を倒すことは出来ても、「支配」に勝つことは出来ない。

「支配」はこの上なく狡猾だ。彼らは敗北さえも飲み込んで、新たな支配を生み出す。

彼らは戦うしかなかった。耐え難いほど支配され、戦うことによって、自らの正義によって、「支配」を倒せると信じた。

僕は知っている。戦っても、「支配」は倒せないと知っている。

まず認めよう。僕は「支配」のおかげで今を保っている。僕は「支配」に生かされている。勿論、今僕の世界を支配しているルール全てを肯定しているわけではないし、そのルールを今よりもっと不愉快なものにしようとしている連中に対して怒りを覚えることもある。

だが、だからと言ってどうすれば良いのだ。僕は死にたくないし、殺したくない。そして、誰かを殺しても世界は変わらないと知っている。皆が変わらなければ世界は変わらない。しかし、自分を変えるというその行為自体を恐れるような、そんな人間が他人を変えられるものだろうか。

こんな悩みを抱くのは、幸福であり不幸だ。正しさに盲目的にならなくてもよいほど、僕の世界は豊かだった。脇目も振らずに追い求めなければならないものが、僕の世界にはなかった。そのせいで僕は今悩む羽目になっている。世には「正しさ」が溢れているが、どれを選んだって、この問答が僕を苛む。お前の選んだその「正しさ」の正当性を、誰が担保してくれる?

そして、僕は佇み続ける。自らを委ねるに足る、正しさを求めて。

だが、いつまでもこのままではいられない。変えなければならない。今切羽詰っていなくても、いつか、のっぴきならない状態がやってくる。

その時、僕は、戦わずに、ネルソン・マンデラと同じ事をしなければならないのだ。

 

それが恐ろしい。

自分を知るというのは世界を知るということだ

ここ二週間、昔から何度か触れていた作品をもう一度読み返し、見返していた。

それを読み終わったり、見終わったりすると、その度に感想を書こうとするのだけれど、どうもうまくいかない。それは何故か、考えてみた。

きっと、僕を構成している作品を突き放して書くことに、強い抵抗があるのだ。

僕は今の僕が作品を見て思ったことを感想としてこのブログに書いている。だが、「今の僕」を形づくった作品達に対して他人事のように文章を書くと、本当に他人が書いているかのような、誰か別の人の文章に見えてしまって、書き上げることが出来なかった。

それはつまり、十年か十五年か、ともかくそれほど月日が経ってもなお、僕はそれなしでは満足に立てないほど、その作品達に寄りかかっているということに他ならない。

己の未熟さと、感想を書く事の難しさを改めて思い知らされた二週間だった。

 

だが、読んだことのない小説もいくつか手に入れた。数日中にはマンデラを見に行く。だから、近いうちに何らかの感想文が書けると思う。