THE WOLF OF WALL STREET

「俺はしらふじゃ死なん!」

 

レオナルド・ディカプリオ主演、実在の人物ジョーダン・ベルフォートの自伝を元に作られた、「ウルフオブウォールストリート」を見てきた。

開幕早々、上司が「俺たち株屋にだって株があがるか下がるかなんてわかりゃしない」とぶちかまし、ランチの席で酒を注文しコカインを吸いながら、「俺は一日二回はマスを掻く。お前もそうしろ」と告げる。この映画がどういう映画であるかの説明を、これ以上ないほど簡潔に、そして完璧に表しているといっても過言ではあるまい。

この映画で描かれるのは「如何にして株で儲けるか」なんていう詐欺めいた訓示じゃない。その訓示を垂れる詐欺師の方だ。湯水のような金、冗談じみた量のドラッグ、そして過激で過剰なFuck。そんな現代の快楽にドップリ首まで漬かった彼らはとても煌びやかで、華やかで、ブッ飛んでて、楽しそうで、でもやっぱり歪んでいる。

音楽が素晴らしかった。映像にビタリとマッチした選曲で、世界に観客を飲み込む。特にビリー・ジョエルのMovin’ outとサイモンアンドガーファンクルのMrs.Robinsonは子供の時からよく聞いていたため、映像と記憶がごちゃごちゃに入り乱れて訳のわからない精神状態になった。

この映画は三時間近い上映時間だが、その時間を感じさせないほど楽しい。俳優の演技も、脚本も演出も、「見ていて楽しい」ように細部にわたって気を使っている。入社直後にブラックマンデーが起きて会社を首になった不幸な男の、圧倒的なまでの成功譚。見よ、彼こそはアメリカンドリームの体現者。だが、それだけじゃない。溢れんばかりの金を手に入れ、絶世の美女を手に入れ、四肢が動かなくなるほどのドラッグを手に入れ、それで「めでたしめでたし」、そうは問屋がおろさない。FBIに捕らえられ、二人目の妻とも離婚。自分の会社と仲間を売る羽目にもなった。主人公自身も嫁の腹を本気で殴るし、娘を死なせかけるし、下り坂では本当にどうしようもない男だ。彼らの生活を肯定するような描写にはなっていないし、インタビューでも監督が「他人のことを考えないのは野蛮人だ」と述べている。「気持ちいい」だけで終わってはいけないのだ。

ちなみに映画は刑務所から出て講演会をしはじめた所で終わっているが、未だに金にはがめついらしく2013年FBIに告訴されたとか。

 

この映画はとても過激だ。R指定だし、ドイツもコイツも酒と薬をキメ倒してセックスしまくるし、単語と単語の間には必ずと言っていいほどFUCKが入る。だから誰彼かまわず見ろと薦めるのは気が引ける。

だが、ディカプリオの映画を見たことのある人には文句なしにお勧めする。彼がこれまでに出演した映画で培ったであろうさまざまなエッセンスが詰まっている。とくに「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を楽しめた人には、是が非でも見てほしい。この映画のディカプリオは、言うなればそれのIFだ。それにしても「華麗なるギャツビー」といい、ディカプリオは残念な金持ちが嵌まり役すぎて恐ろしいほどだな。

スペース☆ダンディ第八話

「大昔の地球、ソビエト連邦が打ち上げた人工衛星スプートニク2号。それに乗り、宇宙に飛び立ったライカ犬がいた」

 

七話に引き続き、僕の中で物議を醸している。何度かキーボードを叩いてみたが、うまく感想を言語化できない。

ので、大まかに構造を分解してみる事にした。

まず骨子としては当然、ワンコの悲譚が挙げられる。彼女がスプートニクに積み込まれたクドリャフカだったのかどうかはナレーションの言うとおり定かではないが、この手の宇宙に行った実験動物達への憐憫は当時も今も多くの人が持っている。その感情をうまく利用し、少ない時間で彼女の死に感情移入させてくれた。ミャウの涙は普遍的な後悔である「意地を張っているうちに死別」という状況を典型的に再現していたし、芝居がかったナレーションが逆に見ている人間の感情を揺さぶってくる。声優の力技じゃないのかと言われると正直否定できないが。

また、ワンコの死と半ば道を同じくする形で、ノミラーと名乗った兄弟、グラビトンとグラビティーノの物語が展開される。彼らはワンコに寄生していたが、その死を予感しミャウの体へと飛び移り、アロハオエ号にて非業の死を遂げた。ところで僕は見ていてまったくわからなかったが、

308 名前:風の谷の名無しさん@実況は実況板で[sage] 投稿日:2014/02/25(火) 21:47:58.20 ID:M1FEHFyt0
ノミは犬に寄生、犬は星に住み、星はノミに支えられている

何気にSFらしい円環構造じゃんよ

この書き込みに気付かされた。言われてみればなるほど、彼らは共生関係にあった訳だ。

そして、彼らの死は別の死をも呼び込む事になる。

ゴーゴル帝国第七艦隊のゲル博士とビーだ。彼らはダンディの場所を発見してワープインしたのだから、当然その場所にワープアウトしてくる。そして、そこはグラビトンとグラビティーノが死んだためにブラックホールと化した金属惑星だ。この流れも良く出来ている。起きている出来事自体は非常にありきたりだが、彼らはタイトル前に軽い漫才をやったきりで、目の前ではまったく違う物語が展開されていたためすっかり存在を忘れてしまっていた。そのお陰で、「確かにこいつらワープしたわ!」という驚きと納得が生まれた。

そして最後の、コテッコテの昭和アニメ的エンド。思い返してみると、Bパートにもいくつもの死があり、ノミラーに至っては絶滅しているのに、悲しいのはワンコのエピソードだけで、後はギャグなのだ。感情は描き方、視点の置き方でどうにでもなるのだということを実感させられた。

 

分解してみて改めて思ったが、製作陣の作りたいものはきっと「理屈じゃない面白さ」なのだろう。南雅彦プロデューサーもWebラジオでそんな事を言っていた。それは茨の道だ。「理屈じゃない面白さ」は説明不可能であるが故に「わからない人間には決してわからない」。僕だってひとつ接し方を違えていれば「なんだこの糞アニメ」と考えていた可能性は十分あるし、今後のエピソードにどこまでついていけるかもわからない。だってこのアニメの面白さは「理屈じゃない」から。

それでも、今この作品を楽しめている事はとてもうれしいし、可能ならば最後まで楽しみたいと思う。ダンディのスピードに、僕がついていける事を祈っている。

聲の形第二巻

「死ぬために稼いだお金なんて使いたくないもの」

 

「マルドゥック・スクランブル」のコミカライズでデビューした大今良時の初オリジナル作品。

一巻を通して描かれた、リアル感のあるいじめ描写。障碍者がいじめられる、という点よりも、いじめっ子が一転していじめられるようになり、友達だと思っていた連中が態度を一変する流れがとても印象的だった。

死のうとする主人公も、結果は想像できるが過程を思い描くほどのリアリティはない、ふわふわとした現実認識が実に現代の若者らしくて良かった。

二巻では、西宮と再会した石田が、その再会を機に再び変わっていく様子が描かれている。

彼を取り巻く人間関係も、それと同期して変わっていく。

いじめていた相手とその身内。母親。新しくできた友達。

そして主人公は死のうという決意から、生きている限り西宮のために命を使う、と決意を新たにする。ここも実に自分主体で、命の価値に対する葛藤がない。若者らしくて素晴らしい。若者なんて考えなしで、無鉄砲で、行き当たりばったりで、何かしては後悔して、なにもしなくても後悔して、きっとそれで良いのだと僕は思うから。

 

この漫画の特筆すべき点は親の存在だろう。

昨今に限らず、やはり少年漫画というものに親は不在がちだ。少年のアバターたる主人公にフォーカスを当て、その一挙手一投足を世界に影響を与えるレベルに肥大化させる。そのためには少年の支配者であり保護者であり指導者たる親の存在は邪魔になりがちだ。親は往々にして仲間や逆に庇護を受ける存在に落とし込まれる。良くて、主人公の成長を遠くから見守る程度だ。

だが、この作品は違う。息子のいじめが原因で二百万円近い賠償をさせられてなお、息子が文字通り死ぬ気で稼いだ金に火をつける母親からは息子に対する溢れんばかりの愛が感じられるし、娘への独善(なのかどうかはコミックス二巻の時点ではまだ描かれていないが、現時点での解釈で書いている)が一方的かつあまり適切でない過保護へとつながっている西宮の母親も、その行動が愛ゆえである事は察せられる。

だが一方で、この作品には父親が驚くほど登場しない。リアルな母と登場しない父。この辺りは、作者が女性であることと、この漫画の執筆に手話通訳者の母親が協力している事などが関係しているのだろうか。

 

僕がこの漫画を読んでいて好ましく思うのは、その展開の意外性だ。この二巻でも、西宮の妹が「自分は西宮と付き合っている」と主人公に告げたり、ネット記事を捏造して主人公を停学処分にしたり、あまつさえその直後遭遇して自分がやったと告白したりする。これが数話の間に詰め込まれているのだ。この怒涛の展開と、それをほとんど葛藤なく許容する主人公という存在が違和感なく描けている。僕はこれをとてもすばらしいと思う。

今後、石田を取り巻く人間関係がどう変化していくのか。この物語がどういう着地を見せるのか。続きがとても気になる作品だ。

スペース☆ダンディ第七話

「そしてシュウマイが弾けた」

 

まったく意味がわからない。BBPとか荷物捨てるときQTまで放り出すとか恋に目覚めたプリンスとか小ネタは面白いものもいくつかあったが、事あるごとにアイキャッチが入って切れてしまうのでテンポ悪いし、やってる事はレッドラインだし、さすがに30分じゃキャラ付け出来なくて上滑りしてるし、正直面白いと言える要素のほうが少ない。

だというのに、最後のインパクトが凄すぎてなんか全体的に面白かったような錯覚に飲み込まれている。

 

第七スペース速度で掘られたオカマ。得体の知れない燃料その他、さまざまな偶然が引き起こした奇跡。

 

なんで弥勒菩薩になってんだよダンディー!

負けることが恥ではない。戦わぬことが恥なのだ。

囲碁電王戦の話。

2月11日/16日の二日にかけてニコニコ生放送で、人間とコンピュータによる囲碁対決が行われた。

僕は囲碁に関してはまったくと言っていいほど知らないので、書いてある内容は概ね解説の話を聞きながら対局を見て思った事である。

9路盤に関しては、見ていていまいちピンと来る間もなく人間が勝ってしまったが、16日に行われた13路盤、19路盤での戦いを見て思う事があったので記す。

13路盤では、江村棋弘アマ7段とZenの三番勝負。結果としては江村7段のストレート勝ち。彼の打ち筋を見ていて、非常に強い攻めっ気を感じた。そして、スパ帝の言っていた「AIはどれほど兵力を持っていても同時に一都市しかうまく守ることができない」という一文を思い出した。解説を聞いていても、しっかり守らなければ確定していないような場所を自分のものと計算して防御を怠ったり、まだ蹴りのついていない場所を放置していたりと、どうも同時に二箇所三箇所をきっちり守る事が苦手であるように感じた。逆に、Zenに攻勢を握られると危ういのではないかと考えた。そして、その後の勝負も僕の想像に半ば沿う形となる。

午後5時からは、政治家小沢一郎とZenの一番勝負が行われた。小沢の打ち筋はどうも攻め気に欠けているように感じ、小沢自身の失策もあり、Zenの勝利となった。

 

結果としては人間側の3勝1敗。人間が大好きな僕としては最善ではないが、まあ大方の予想通りの順当な結果となった。

当然、人間側として唯一負けた小沢は非常に目立つし、彼自身の悪評も相まって叩かれるのも容易に予想はできた。

だが、敗北を恥と考えている人間のあまりの多さに辟易したというのが正直な感想である。

なさけない、恥ずかしい、恥をさらした……

確かに、そうである。敗北を予感し、なお戦い続ける事で生まれる羞恥や悔悟の念は只ならぬものだし、それが放映され周知のモノとなっていると考えると、僕なら憤死ものだ。

だが、それは当人の心境がそうであろうというだけだ。負ければ悔しい。恥ずかしい。それは自己評価として発生しうるものではあっても、周囲からの評価としてはまったく正しくない。

負ける事は断じて恥ではない。恥を恐れ、争わぬ事。これこそが恥である。

これはさまざまな場所で感じる。敗北者、落伍者。そういうものをまるで「悪」であるかのように書き連ねる。これを「メディアがそういう報道をするから悪い」と言う人間もいるが、それだけではない。その報道を良しとした国民にも責はある。その報道を咎めなかった。喜び一緒になって叩いた。そういった過去の積み重ねの上に、今日失敗そのものを恐れる風潮が幅を利かせているのだ。

だが、小沢は来た。棋力は他の参加者に比べて一枚も二枚も劣るし、相手は元来が19路盤用プログラムである。そして放送される場所は小沢というだけで罵倒されるようなニコニコ動画だ。負けたとき何を言われるかなぞ、わかったものではない場所だ。

それでも小沢一郎は出てきた。彼は戦った。それは誉れでこそあれ、恥ではない。

思うに、彼は若者が好きなのだ。ニコニコ動画では誰にも先駆けて動画を投稿したし、政権を握ってからも民主党は窓口を開放し続けた。記者会見のオープン化をはかり、会見の場にニコニコの記者が入れるようにもなった。彼はずっと、若者と対話しようとしている。

とはいえ、小沢もすっかり爺さんになってしまった。一目見ても老けたし、その喋りを聞いていても痰が何度となく絡み、彼の衰えを実感させられる。今後またなにかでかい事をやるのか、それともこのまま過去の政治家として消えていくかもわからない。そして、彼への批判だけは消えることなく残り続けるだろう。

 

だからこそ、今書いておきたい。彼は立派に戦ったのだと。