Cyberpunk: Edgerunners

「俺には言ってくれないんだね。”できる”って」

 

 

CDプロジェクトの最新作「Cyberpunk 2077」を原作としたオリジナルアニメーション、「サイバーパンク:エッジランナーズ」を見た。監督は今石洋之、制作はトリガー。

 

正直な話、トリガーのアニメを見る気はなかった。サイバーパンクジャンルとなれば、なおさらだった。僕はいまだにニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨンのアニメの出来に対する怒りを抱えている。

だけれども、見た。そして、この作品は間違いなく面白かった。なので、そういう話をしていく。

また、僕は原作のサイバーパンク2077を知らない。このアニメを見て、購入したばかりだ。だから、原作の話はしない。

 

とは言うものの、僕はこの作品の面白さに言及しようとして、思わず臆してしまった。それは余りにもシンプルで、余りにも短文だった。一行で書いてしまえるようなことだった。

言ってみようか。

「ただ一人彼が特別だと知っていた女と、ただ一人彼が特別だと信じていた男」。

こうだ。これが、僕にとってのエッジランナーズの核。面白さの真髄。魅力の最たるものだと断言できる。

「こんな短い感想ならツイッターで呟いてろ」と、思う人もいるかもしれない。だが、この感想は余りにも作品内で描かれた文脈に丸乗りしていて、ただ一言ぽつりと呟いても、理解してもらえるかは非常に疑わしい。彼って誰? 女と男の具体名は? 特別ってどういうこと? まあこの辺は作品を見ていれば分かってもらえると思うが、重要なのは固有名詞じゃない。

“そうだとして、なんでそれが面白いの?”

この問いに答えられなければ、それは感想ではない。僕が何かを感じたとき、感じたものをただ己の情念のまま表現すると、時にそれは「ウオオォオー!!」や「グワアアァー!!」と言った絶叫になる。「なんでー!??」という驚愕になる。それは、反応ではある。だが、誰も理解できない。その作品に既にふれた人が仮に共感してくれたとしても、意味は分からない。どの部分に、どんな理由で叫んだのか? 何を、どうして驚いたのか? 作品の中からその具体的なポイントとして指摘し、その理由を伝えなければ、それは感想ではない。

なので、僕はこの場を使って、僕自身の思考を整理する。その上で、うまく僕の抱いた感想に着地させられそうな展望が見えたらそこにソフトランディングすれば良いわけだ。逆に、なにも思いつかなかったらただひたすら駄文を並べ立てた上で「それはそうとこの作品は○○が面白かったですね」と唐突に締めの言葉が入って終わる、どうしようもないものになるだろう。当然、前者は感想だが後者は感想ではない。

果たして、僕はエッジを超えられるだろうか?

 

さて、僕の思考の整理のために。「この作品は、どういうジャンルなのか?」を考えてみよう。ジャンルが分かるということは、その作品の目指した方向性が分かるということだ。過去に存在した数多の作品群は、必ずこの作品の作り手にも影響を与えている。そして、作り手は望むと望まないとに関わらず。必ずそれらの先行タイトルへの目配せを作品の中に仕込む。そう言った目配せが、僕にとってどう解釈されたのか。そこを、見ていこう。

エッジランナーズは、いくつものジャンルを兼ね備えた複雑な構造をしている。まずはタイトルにもあるようにサイバーパンクだ。機械化された人類、強大な力を持つ企業、そしてサイバー空間に有機的に接続され交わされるコミュニケーション。そういったSFガジェットが、しかしまだ“全てを覆ってはいない”時代。そうでなければ、サイバーとは言い難い。宇宙への植民が本格的に動いているとどうしても舞台が宇宙空間になってしまってスペースになるし、企業が個人を完全に屈服させてしまうとディストピア物や軍記、戦記物の色が強くなる。サイバー空間の取り扱いだって、その世界の中でも新参の技術として扱わなければ、受け手たる僕にとって魔法と変わらない存在として認識されファンタジーのように受容されてしまうのだ。

サイバーのサイバーたる所以。そこには僕たちと同じように人間が暮らし、僕たちが新しいPCやゲーム機、自動車にスマートフォンといったガジェットを手にする様にインプラントを入れ、データをダウンロードしているのだという、「ほどほどの未来」。そして、僕たちの世界でFAXが残り、レコードが売られ、石炭が発電所を動かすように、その世界でも僕たちの旧知の技術が現役で動いているという「ほどほどの地続き」。現代から、半歩はみ出す感覚……これこそ、サイバーだと言えるだろう。

そして、パンク。パンクってどういう意味だろうか? 検索すれば「反体制」や「攻撃的なファッション」みたいな言葉が出てくる。元々は「不良」という意味だったらしい。そう聞くと、映画版のAKIRAで金田が言う「デコ助野郎!」が、英語翻訳だと「Punk!」になっていたのを思い出す。まあ恐らくは、パンクロック、からの転用としてスチームパンクが生まれ、その後継というか別技術主体の派生ジャンルとしてサイバーパンクと呼称されるようになったのだろう。

この、パンクの部分が、エッジランナーズという作品を読み解くにあたって極めて重要であるように、僕には感じられる。とりわけ「攻撃的」って部分が。

確かに、サイバーパンクジャンルは大抵ろくでもない企業や、狡賢い統治者が登場する。奴等は時に緩やかに、時に苛烈に、様々な手段を使って民衆を、住民を、人間を締め上げる。支配し、屈服させ、コントロールしようとする。大抵の場合、主人公はそれに抗う側だ。(たとえ、主人公が体制側の組織に所属していたとしても)。理不尽な支配に抵抗し、自由を求める。

だが、一人で、ではない。皆で、支配を打倒するのだ。

サイバーパンクは、革命の文脈だ。自分だけ企業の支配に嫌気がさして外の世界に出ていってはいメデタシメデタシ、では納得しない。お前も、こんな支配にうんざりしてるはずだ。あいつらがのさばってることに、耐えられないはずだ。奴等にだけ都合のいい価値観や常識に、囚われてちゃいけないはずだ。その上でパンクは、時にそうでない者を攻撃する。「何故お前達は自分達の上に横たわる支配に目をつぶるんだ!」という怒りが、パンクの、パンクたる所以。このアニメが単なるサイバー物でなく、明確にサイバーパンクである理由。

その最初の一歩が、死別した母親の期待を背負い、退学させられてもなおアラサカ・アカデミーに心を囚われていたデイビッドへの、ルーシーの発言にある。

「それって他人の夢じゃん」

ドキッとする発言だ。ギョッとする発言でもある。片親で、貧困の中、苦労して子供を良い学校に行かせてその将来に幸あれと祈り続け、唐突に死んだ母の願い。それを普通、ここまでザックリと切り捨てられるものだろうか?

確かに子供には明らかに合ってなかった。学校では虐められ、生活は困窮し、二人が互いに満足にコミュニケーションを取る時間もない。この状況を変化させる最も手っ取り早い方法が、「学校をやめる」にあることはかなり明白だ。しかし、相手への同情が、教育された道徳が、培ってきた常識が、それをそのままに表現することを阻む。内心では「学校やめた方が良いんじゃね……?」と思っていても、こんなに苦労してまで息子を良い学校に行かせてる親御さんに、そこまで酷いことは掛けられないよな……とセーブする。それが、普通だ。

ただでさえ、僕達は見ている。洗濯機も停止するほどの困窮状態に、ベッドで眠る余裕もなくソファで仮眠をとっている母親。何もかもを犠牲にして子供のために生きているそんなグロリアの、涙ながらの言葉を聞いている。子供のうちは押しつけがましくも思える親の愛情の、その尊さを。得難さを。人生の中で知ってしまった僕達にとって。

「じゃあ、あたしは何のために働いてんのよ。あんたのためにと思って……」

という、彼女のセリフは余りにも重い。それを前に「テメーの自己満のためだよ!」と言えるほどの非情さを、僕は持たない。当然、デイビッドも持たない。それが、普通だ。

そんな普通を踏みつけにして、相手を閉じ込める檻をぶち壊す。これこそ、パンクの持つ「攻撃性」、その発露だ。常識、道徳、普通。そんなもんに遠慮して丸め込まれることを、断固として拒否する。トンガって、研ぎ澄ませて、相手に己の思想を、理想を、願望を共有させる。「俺とお前は違うが、俺は俺、お前はお前だよな」すら許さない。「お前は間違っている。お前も、俺のようになれ!」という、過激なメッセージ性。パンクというジャンルの持つ特徴が、このセリフには凝縮されている。

そして同時に、この攻撃性によってパンクは大いなる矛盾と直面する。相手を正し、自らに沿わせるその攻撃性は、とどのつまり、「社会性」や「道徳」、「常識」と同種の物なのだ。そんなもんくだらねーぜ! と相手を檻から解き放とうとする限り、パンクは「今まで培ってきた常識なんて捨てろ!」という「新たな常識」の、極めて熱心な教育者にならざるを得ない。

穏やかで緩やかな支配に対する極端で過激な抵抗は、大衆の支持を集めない。これは、恐らく過去も現在も未来も変わらない構図だろう。だから、サイバーパンクは敵を強大化させる。理不尽で、強引で、暴力的で、非人間的な「企業」を向こうに回し、「耐えられない」と思うに足る十分なシチュエーションを構築する。

今回であれば、それは母の死と、学校と言う名の社会からの追放だ。金銭的な問題を抱えつつも今の生活を保障していた存在と、多大なる苦痛を負わせながらも未来への希望を与えてくれる存在。現在と未来の拠り所を粉砕し、デイビッド——および、その背後にいる僕——を追い詰めた所に、極めて魅力的な美少女を登場させて鼻の下を伸ばさせ、間髪入れず「親の期待」、すなわち過去の拠り所へと強烈な蹴りをお見舞いする。そんなもん他人の夢だと切って捨てる。かくして、デイビッドは「過去」、「現在」、「未来」、全ての繋がりを断ち切られ、しがらみのない新しい世界へと踏み込んでいく……はずだった。

そうならなかったのは、作品を最後まで鑑賞した人間なら誰もが記憶しているだろう。デイビッドは最期まで、「親の期待」を手放さなかった。

ここでは、そのことを記憶しておいてほしい。

 

続いて、エッジランナーズの兼ね備えたジャンルの二層目。それはノワールだ。フランス語で「黒」を意味するこのジャンルは、ギャングや犯罪者といった社会の闇の部分を主に取り扱う。このアニメがノワールの文脈に即していることを、否定する人はいないだろう。社会に適応できなかったはみ出し者たちが集まり、暴力によっていくつもの成功を収め、やがて社会の狡猾さのなかで押し潰されていく。ご丁寧にファム・ファタールまで登場するのだから、どこまで教科書通りの物作りをするのだと感心させられたものだ。ノワールの魅力、それはやがて訪れる破局の面白さであり、それは同時に、手段を選ばずに何かを為そうとした者たちに訪れる勧善懲悪への、倒錯した快感でもある。

犯罪者は笑い、無辜の人々が苦しむ。そこには一見すると、正義などないように見える。しかし、報いはある。誰が、どのように報いを受けるのか、それがノワールの面白さである。

駆け上がる階段は死刑台であり、羽ばたき目指す先は翼を溶かす太陽だ。だから、僕たちは安心してその非道を鑑賞することができる。悪党が何かを得て喜ぶ時、共にそれを喜ぶ。そして、悪党が血に塗れて死ぬとき、やはり僕たちはそれを喜ぶのだ。現実では複雑すぎて観測できない因果応報が、単純化されたフィクション世界では明確に機能していることを確認して。

冴えた射撃と強靭な肉体を持ち、頼れる仲間たちと厚い信頼関係を構築しているメインは、まさにこの作品のノワール要素を凝縮した存在だ。夢の頂を目指し、彼はわき目もふらず走っていく。良い兄貴分でもあり、強いリーダーでもあるそのキャラクター造型は、見ている人間の心を掴む。誰もが、メインに好感を抱くだろう。

サンデヴィスタンに適応し、しっかりと使いこなせるようになっても、デイビッドはメインの足元にも及ばない。青二才。半人前。ルーキー。そう呼ばれるに足る、差があった。デイビッドは少しでもその差を埋めてメインに追いつこうとするが、彼はその追随を許さない。

メインの死ぬ、その時まで。その関係性は変わらなかった。決死の覚悟で、死地に臨むつもりで、震えるからだを抑えて銃を構えるデイビッドに、メインは告げる。「お前にはまだ無理だ」

余りにも、無情な言葉だ。愛しのルーシーを置き去りにして、メインの横で死にに来たデイビッドに。メインは「生きろ」と言うのだ。「走り抜けろ」と。

泣かせるじゃないか。狂人が死の間際、チームの新入りを逃がしてやるという、そういう感動的なシーン……だったならばな。ここは違う。いや、確かに強く、頼もしく、カッコいいメインが、狂気に陥り、全てを喪い、盛大に、惨ったらしく死ぬという、展開的に極めて重要な山場であり、絵的にもアクション的にも映える素晴らしいシーンではある。泣ける描写にもしてある。だが、このシーンの肝はそんなお涙頂戴ではない。

メインの発言は、「デイビッド君はまだマックスタックを倒せないから逃げなさい」などという気づかいではない。サイバーサイコシスの症状として、彼の幻視する風景。無限に続くかに思われた道路の上を、痩せた男が走り続ける光景。汗が吹き出し、息せき切って、走り続けたその男は。道路の終端を前にして、ついに立ち止まる。

要するに、彼は走り続けられなかったのだ。

どこまでも行けるつもりだった。なにものにも遮られず、無人の荒野を行くが如く、目的に向かって突き進んでいるはずだった。

だが、そこにガイドラインなどなかった。頼れるものなどなかった。何もない世界。ひたすらに広く、どこまでも続くその世界を、ただ己の目的意識だけを頼りにして走り続けられるほど彼は狂ってはいなかった。

「俺はここで死ぬ。お前は生きろ」というセリフは、肉体的な生死ではない。道路の上しか走れない、俺のような半端者にはなるなという狂気の焚き付けだ。メインの願い。それは、足場も、ラインもない、無限に広がる荒野を、俺の代わりに走って欲しいという最悪のバトンだった。そして、デイビッドは確かにそのバトンを受け取った。メインの目の前で、デイビッドはいともたやすく道路の切れ目を越えて。荒野を駆けていった。逃げるためか? マックスタックから?

違う。彼は逃げるために走ったのではない。

 

サイバーパンクのジャンル分け。三つめは、ボーイミーツガールだ。少年が少女に出会うことで、これまでの平凡で退屈な世界が壊れる。少年は少女に導かれるようにして、物語世界で波瀾万丈な体験をする。またほとんどの作品はその過程で少年が少女に惹かれていく様子を克明に映し出すし、大体は少女もその思いに応える。

そんなボーイミーツガールに対して、僕は常々思う所があった。その結末に関してだ。ボーイミーツガールのラストは、少年と少女の別れであってほしい。その方が美しいじゃないか?

出会いと共に始まった物語は、別れと共に終わるべきだ。

それが、僕の美的感性だ。別に少年と少女のイチャコラが嫌いなわけじゃない。好きな作品はキャラクターへの思い入れも強くなる。二人の幸せそうな顔が、永遠の離別によって断たれる様は、僕の心を揺さぶる。別れのシーンは見ていて辛い。しかし、だからこそ美しいんだ。

そんな観点から言うと、エッジランナーズは素晴らしかった。思いがけない縁をきっかけに出会い、求めあい、愛し合った二人が、お互いの愛ゆえに時にすれ違い、しかし支え合って、お互いに保身など一切考えず、相手の身の安全とその生涯の幸福だけを望んで、その結果として永遠に断絶する。

余りにも、美しい展開だ。ボーイミーツガールという点において、この作品は完璧だったと言ってもいいだろう。

だが一方で、シンプルに考えたとき。この結末にはモヤモヤしたものが残らないだろうか? 結局のところ、「敗北して終わってるじゃないか」と。

狡賢く悪辣なフィクサー、ファラデー。アラサカの用心棒、生ける伝説、アダム・スマッシャー。精神と肉体の両方から、二人を引きはがし、叩き潰そうとする強大な敵たちに、二人は翻弄され続ける。結果的にファラデーの方はぶっ殺すことが出来たものの、アダム・スマッシャーに関しては全く歯が立たなかったと言って良いだろう。そんな事でいいのだろうか? ビターなテイストはこの作品にはよく似合っているし、ノワールという観点からは極めて真っ当な落着だ。だが、ボーイミーツガールというジャンルでは、こういう奴はぶっ飛ばしてくれなきゃ困らないか? 僕は困る。ぶっ飛ばした上で、格の違いを見せつけた上で、あくまでも少年と少女の関係性の終着点としての二人の別れがあって欲しい。

無茶言うなよ、と思うだろうか。アダム・スマッシャーは原作に登場するキャラクターだ。しかも、どうやらかなり重要なポジションにいるらしい。そんな奴をスピンオフ作品でぶっ飛ばすなんて、メアリー・スー紛いのこと出来るわけないじゃないかと。そう思うだろうか。そうやって、理解ある大人の顔をして、デイビッドの健闘を称え、ルーシーが助かった点を喜び、心の中のモヤモヤに「我が儘」とレッテルを貼って蓋をして、仕舞い込んでみせるのか?

 

パンクじゃないだろ、そんな態度は。この作品は、見事にソレをやってのけたというのに。

 

確かに。確かに、アダム・スマッシャーはサイバースケルトン装備のデイビッドを粉砕した。それはもう、紛れもない事実だ。フィジカルにおいても、クローム耐性においても。デイビッドは完敗した。

だからどうした。アダムが為せず、得られず、デイビッドだけがモノにしたものが確かにある。アダム如きには到底手に入れられない「特別」を、デイビッドは確かに有している。

 

それが「夢を叶える」ことだ。しかも、デイビッドが叶えようとする夢は「他人の夢」である。狂気としか言いようがないが、この作品で望みを叶える人間は彼しかいないのだから、彼を「特別」と呼ぶにこれ以上の理由は必要ないだろう。誰もだ。他の誰も、夢を、望みを叶えるものはいない。

権謀術数を尽くしてアラサカに入り込もうとしたファラデーは搬送中に滑落して脳漿をぶちまけた。

仲間を売って悠々自適にドロップアウトすることを望んだキウイはゴミ箱の裏で事切れた。

サイバースケルトンのデータを取ろうとしていたアラサカの連中は「それどころではな」くなった。

いつ頃からかデイビッドに惚れていたレベッカも、その想いが届くことはなかった。

「アンタ自身が生きてくれていれば、それだけで良かったのに」と絞り出すルーシーの悲痛な願いも、世界が聞き届けることはない。

皆殺しを高らかに宣言したアダム・スマッシャーすら、ファルコとルーシーを討ち漏らした。

 

凡人共、道をあけろ。デイビッドの「特別」さなしに、この世界で願いを叶えられると思うな。

 

メインが果たせず、彼に託した「走り抜けろ」という言葉。エッジの向こう側まで駆け抜けたデイビッドを見てもなお、それが果たされてないなどと言える人間はいないだろう。

「月に行きたい」というルーシーの言葉は、「行くだけならでしょ」を引き合いに出すまでもなく、言葉通りの意味ではない。要するに彼女は、「この世界」から脱出したかったのだ。光の檻、ナイトシティ。アラサカの手で無茶苦茶にされた自身の人生。サイバーパンクとして、デイビッドを新しい世界に連れて行った彼女が、しかしより一層強固に囚われて出られなかった「この世界」から、デイビッドは確かに彼女を連れだした。そうでなくて、誰が月面旅行などするものか。人生の上がりをとうに迎えた老人ばかりを積んだ、いかにもつまらなさそうなあんなツアーに。

そして、憶えているだろうか。デイビッドは最期まで「親の期待」を手放さなかったという記述を。アラサカタワーのてっぺんに立った、なんていう話じゃない。

「見返してやりたい」。グロリアがこの作品で、唯一口にした、「彼女の言葉」だ。傭兵と救急隊員の二重生活、母としての責務と我が子への期待。誰かへの謝罪と金の支払い。決して多くはない彼女のセリフは。どれも必要性に駆られている。立場に囚われている。そんな中で、この一言だけは、彼女の願望が窺える。果たして、偶然か作為か。デイビッドの行動原理はいつもここにあった。

カツオに殴られれば殴り返した。世間知らずのガキを相手にするような態度だったルーシーは、気が付けばデイビッドにゾッコンだ。メインにどれだけ洟垂れ扱いされても、一人前だと認めさせようとした(サイバーサイコと化したメインを相手に、マックスタックを目前に控えてさえも)。動くサンデヴィスタン置き場扱いをしていたリパードクも、いつしか彼を立派なエッジランナーとして認めた。極めつけは、アダム・スマッシャーを相手に意趣返しをしてみせた。

こじつけだと思うか? メインやルーシーはともかく、グロリアにそこまでの意味は与えられてないと?

そうかもしれない。

ただ、僕が自身の親への思い入れを反映して、その比重を作品の想定以上に肥大させてるだけかもしれない。

 

それでも、デイビッドはこの作品の中で唯一望みを叶えることができる、「特別」な存在だったという結論が揺らぐことはない。そして、ようやく僕の感想に立ち返ることができる。

 

“グロリアはこの世界でただ一人、彼が「特別」だと知っていた。デイビッドは自分が「特別」だとは知らなかったが、この世界でただ一人、自分がそうであると信じた。”

ああ、そうとも。これに尽きる。他にこんなに痛烈で、面白い要素があるか? この作品で?

 

「お前は特別なんかじゃない」と、デイビッドは言われ続けた。敵にも、リパードクにも、仲間にすら言われた。

 

「サンデヴィスタンで人より速く走れるからってもう一人前ヅラか?」

「人よりいくらか耐性が強いかもしれない。でもあなたは普通の人よ」

「せいぜい伝説って奴にでもなりな。ありきたりのな」

「こんな反重力装置がないと、一人で自分の体重すら支えられない小僧が! この程度で何者かにでもなったつもりか!?」

 

 

ざまあみろ、節穴どもめ。彼は、確かに特別だった。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

「大人になったな」

 

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」より、実に足かけ14年。とうとう完結だという触れ込みを聞いた。正直、公開初日に見た「Q」であきれ果てた身としては「良かった」という評価も「本当に終わった」という言葉も全て半信半疑だったのだが、劇場近くに出向く用事もあったので良い機会にと、このコロナ感染拡大の冷めやらぬ中に厚かましくも不要不急で見てきた。

 

最初に言っておくと、僕はエヴァの世代ではない。テレビ版など見たことも無く、ただ事あるごとに話題に出てくる昔のアニメという印象しかなかった。ニコニコ動画で違法視聴した旧劇でそのアニメーションに感動したものの、漫画版に手を出してみたらなんとまだ完結していなかった。アニメを2クール見るほどの熱意はなく。結局どういう経緯で旧劇のような事態になったのかは、ネット上の書き込みを聞きかじりならぬ、読みかじって知った程度のものだった。

それから数年が経ち、友人に「エヴァ破、面白いよ」と言われた。そんなこと言われても僕旧テレビ版も「序」も見てないよと返したのだが、随分推されたので仕方なく「序」から順番に見ることにした。

あー、昔漫画で読んだわこの辺。その程度の認識だったが、確かに美しい映像と派手なアクションに強い音楽の使い方で見る者を楽しませる、なかなかの作品だった。そのまま「破」も見た。当時の認識はあまり覚えていないが、旧劇のときの鬱屈した雰囲気とは大きく違うなとは思ったはずだし、なにより「Q」を初日に見に行っているのだから相当気に入ったのだろう。

そして、2012年。超満員の大スクリーンで、「Q」を見た。

ふざけんなと思った。

「破」から十数年が経ち、エヴァの世界は激変していた。どうもサードインパクトが起きたらしく、その原因はシンジだったらしい。しかしシンジはインパクト以来、ずっと衛星軌道上で眠り続けていて、事態を何も知らない。映画の視聴者である僕とシンジは、作品の中でほとんど同一の立場だった。当然、意図されたものだ。シンジに向けられる言葉は、視聴者である僕に向けられるし、シンジの感じる理不尽は、そのまま視聴者である僕の中に生まれた。

「破」であれだけポジティブにシンジを送り出しておいて、誰も彼も説明一つせずシンジを詰り倒す。意味もわからん単語を吐き散らし、意味深で思わせぶりに振る舞っておきながら何一つ上手くいかない。シンジは失敗したらしい。それならそれで良いさ。じゃあ何が成功で、誰が成功するんだよ。別にシンジが英雄である必要はない。見ている側を気持ちよくさせる要素がその世界にとって害悪であったと暴き出しても構いはしない。しかしそれがなぜダメで、どうするべきなのか説明しなきゃ意味ねえだろ。煙に巻いてりゃそこに何かを見出して勝手に納得したり高尚扱いして貰えると思ってんじゃねえよ。

ただ一人優しさを見せてくれたカオルは「槍でやり直す」などと親父ギャグを打ちながらシンジの目の前で爆死してトラウマの拡大再生産を始めるわ、二進も三進もいかなくなったシンジは当然のように周囲の制止を無視するわ、怒鳴り散らすアスカにほれ見たことかという態度でまた罵倒されるわ。

失敗を描くためにキャラを愚かにするそれは、完全に馬鹿の書く脚本そのものだった。僕は心底、呆れ果てた。あれを「これこそがエヴァだ」などと祭り上げる向きすらあり、それを見てついに絶望した。

そうでございますか。「これがエヴァ」ですか。それならそれでよろしい。僕はエヴァの客じゃないんだろう。同時に、庵野の客でもない。エヴァを冠して馬鹿をくすぐり金を稼ぐ。これをやり続ける限り、庵野の作品は見ないと決めた。

遠くないうちに公開されるはずだった続編は延期につぐ延期。僕は鼻で笑っていた。「Q」を思い出せば、話に収拾を付けられないだろうことは明白だった。

いつしかシンゴジラが公開された。随分と好評だったが、僕は結局見なかった。公開前、劇場で見た予告編。恐慌を起こし、逃げ惑う群衆だけを映して「匂わせる」そのやり方が「Q」を思い出させ、腹立たしかったから。

とうとう公開が決まってからも、コロナで延期。ただ、流石に2020年にもなると、もう「Q」の記憶は薄れていた。興味もさほどなく。僕にとってエヴァは、「どうでもいい」作品だった。

次の公開日に決まった2021年の正月はそれこそコロナ第三波の猛威ただ中で、当然の再延期。この辺になって、流石に気の毒になってきた。

そして、3月。とうとう公開された。見る予定はなかった。言及すら、する気はなかった。周囲から見に行ったの行かないの、面白かっただの終わったから見に行けだの、そういう話を聞きながら、まあアマプラに配信されたら見るかなーなどと、気のない返事を返していた。

4月に入り、コロナ第四波が猛然と押し寄せ、大阪を中心に関西の医療は大打撃を受けている。東京も緊急事態宣言解除前からじわじわと検査の陽性者が増えていて、明らかに状況は悪い。極力、外に出たくない。そんな中で、街に出る予定が出来てしまった。どうせ出るなら映画も見ちまえと上映スケジュールを確認すると、そこにエヴァがあった。もうこれで良いやと、チケットを購入した。「Q」のことも大して覚えてなかったが、見返したらあの時のイライラが蘇ってきそうだったので、そのままに。

だから、「シン」が「Q」や「序」「破」と比べて、内容的にどうだったかを語ることは出来ない。

ただ、映画としての「シン」の感想を言うなら、明らかに完成度は低かった。

ド派手なアクションと、パソコンの演算能力を自慢したいのかと思うような過剰なオブジェクトの波で映像を揺らしながら、一方でキャラクターたちは入れ代わり立ち代わりひたすら説明セリフを並べ立て続ける。「Q」の時とは真逆で、しかし成長していないなと思った。セリフってのは見てる僕か、その場の誰かに理解させなきゃ意味ないんだよ。その場みんなが知ってることを確認している様を映したって、見てる人が場の空気に飲まれて分かったような顔してくれるわけじゃないんだ。また少し呆れる自分を意識しながら、しかし作品世界に確かにある違いに気付けないほど、僕はエヴァを拒絶してはいなかった。9年の年月のおかげと言えるかもしれない。

赤ん坊。農作業。ケンスケとアスカの疑似的な親子関係。言葉を教わる綾波。虐待にしか見えないものの、アスカがシンジに食事を取らせるシーンも、そうだ。

そこには、「育み」があった。誰かを育むことで、自らをも成長させる。そんな生命の営みに対する、極めてポジティブな情景があった。

トウジが自宅の酒盛りで吉田拓郎の「人生を語らず」を歌っているのを聞いて、僕にはなんとなくこの第三村で、制作陣のやりたかったことが分かった気がした。

この歌は1974年に作られたものだ。エヴァの舞台である2015年、「Q」の2030年あたりは勿論、テレビ版放送時の1995年から考えても、明確に過去の歌である。であるのになぜ、ここで歌われるのか。トウジやその家族、あるいは委員長の家庭にフォークファンがいたから? まさか。設定としてはそういうのがあるかも知れないが、そうじゃない。この歌は「親世代の曲」なのだ。二十世紀末にエヴァを見ていた、当時の子供たちにとって。もしかしたら当時エヴァを作っていた、若者たちにとっても。そしてこれまでのエヴァにおいて、「親」というのはただならぬ意味を持っていた。理不尽で、身勝手で、自分を振り回す。なにやら深慮を巡らせ、しかしそれを説明してくれることはない。言う通りにできなければ、自分をぶつ。なじる。責め立てる。「親」は「敵」だった。「Q」においても、それは同じだった。ただ立場が変わった。制作陣は「親」になっていた。視聴者を「子」に見立てて、制作陣は僕をぶった。「大人になれ」となじった。なんでも説明してもらえると思うなと責め立てた。それは教育のつもりだったかもしれないが、実態は虐待の再生産だった。

だが、「シン」では違った。きっと、何かがあったのだろう。何があったのかは知らないが、とにかく「シン」においては、これまで描いてきた「親」と「子」の関係性をやり直そうとした。そのための施設が、第三村だ。

第三村が象徴するのは戦後の日本だ。全てがぶち壊されたところから這い出して、寄り添い、集まり、生き延びてきた。後ろ暗いこともやったとトウジは語る。ガキのままじゃいられなかったと。そうだろう。そんな過去を生きながらしかし、彼らは、彼女らは、僕たちの今に通じる世界を残してくれた。過去のことなど考えなくても良いぐらい、豊かな世界を築いてくれたのだ。

それを描くために、第三村は在った。それを知るために、シンジたちは村に入った。ともに畑を耕し、村の社会を構成する一員として生きる中で、「人生を語ら」ない大人たちを知る。子供を育みながら、その行ないによって、自身を育てる。

ここに至って、ようやく。「親」は「子」の敵ではなく。「子」は「親」のお荷物ではなく。共に生き、共に育つ対等な存在であることが、確認されたのである。

これを告げられて、僕にそれを寿ぐ以外のどんな行動がとれようか。

気付けて良かったねと、そう言うしかないではないか。

先ほども書いた通り、映画としての完成度は低い。説明に説明を重ねて上滑りする脚本。そもそも説明を放棄したいくつもの固有名詞。それらが入り混じる会話劇は、聞くに堪えない。特にヴンダーの上でシンジがエヴァに乗るの乗らないのを言い争うシーンなど、今思い出しても笑えるほどにお粗末だ。

常に展開に追われ、時間に急かされながら、「話を終わらせるために、せめてこれはやらなければいけない」と書き連ねたチェックリストを埋めていくだけの作業に、演出の魔法を掛けたのがこの映画だ。しかし、それでも。そうなると分かっていてもなお。短くない時間を使って第三村で「親子」の再構築を描いたことを、僕は祝福したい。あれなしに、終盤のゲンドウとシンジの(ある種の)和解を描いても、それこそ説明不足で付いていけなかっただろう。

 

「エヴァの呪い」を受けた事のない僕には、それがどんなものかはわからないが。少なくともこの映画は「親になってしまった子供」を、その呪いから解き放った。

JOKER

「ジョークを一つ、思いついたんだ」

 

ジョーカー。言わずと知れた、DCコミック「バットマン」における不朽の名悪役。善も悪もお構いなしに引きずり回し、ゴッサムシティを恐怖に陥れる希代の怪人、そのオリジン。

 

僕は、TRPGという遊びを随分と長くやっている。テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームという、一定のルールに則ってキャラクターを作り、そのキャラクターのロールプレイをしながら遊ぶ、コミュニケーションゲームだ。そんなTRPGの、特にRPという部分に心を惹かれて遊んでいる人間だからだろうか。僕はこの映画を見ていて、ひとりのコメディアンが語った「妻とのロールプレイ」というネタが強烈に心に残った。

「僕は妻とよくロールプレイをして盛り上がっている。例えば、大学教授と単位の欲しい女子大生だ」

そのネタは実にありふれた下ネタで、時間にしてわずか一分程度だっただろう。シーンとしてはアーサーがコメディアンになるための勉強を映し、同時にアーサーが「普通の人間」の中でどうしようもなく浮いてしまっている様子を描いている。ここで言及された「ロールプレイ」という言葉が、僕がこの映画を楽しむにあたって非常に重要な役割を果たしてくれた。

ロールプレイ。ゲームの前に付く場合、その意味は非常に多義的なものとなるが、とりあえず英語としては「役割演技」と訳されることが多い。「特定の状況を用意し、何らかの役割を持ったキャラクターとして対応する」訓練として、企業の入社試験などでも採用されていたりする。だが、この言葉は決して空想や虚構だけに限定されるものではない。僕たちは時に誰かの家族として、時に誰かの友人として、時に誰かの師として弟として。時に誰かの敵として。その役割にふさわしい行動を選択する。話し方や考え方を変え、対する相手の立場や状況によって、自らの役割を決定する。

では。アーサーはどんな役割を持ったキャラクターであっただろうか。彼は人を笑わせたいという願いを持った芸人だ。彼は母親想いの息子だ。彼は父性を求めるこどもだ。

たとえ街のチンピラにボコボコにされようと。乗り合わせた子供の保護者から過剰なまでに気味悪がられようと。母親の介護をしながら貧しい生活を送ろうとも。この役割を担い続けている限りにおいて、彼は善良なピエロで在り続けることができた。歪ではあるものの、社会と自らを接続し続けることができた。

だが。この映画はジョーカーを生み出すため。哀れなアーサーから、彼の持つ役割を根こそぎ剥ぎ取る。それも、まるで旅人の服を自発的に脱がせた太陽のように、彼自身の手を使って。

彼は小児病棟に銃を持ち込み、仕事を首になった。彼にとっては極めて珍しいことであっただろう、大人を笑わせることのできた銃という必殺のネタこそが、「仕事」と「願望」という、彼と社会を繋ぐ巨大な鎖を断ち切った。

彼はトーマス・ウェインと母親の関係を聞き、その真実を知った。彼の愛した母は幼い自分を虐待し、妄想を信じ込んで金を無心する、どうしようもない養母だった。血のつながりすら与えない徹底ぶりで、最も小さな社会である家族、その「母」の息の根を止めた。

彼は母と共に毎晩見ていたコメディー番組の司会者に、我が子のように気に入られる空想を抱いていた。それほどまでに憧れていた伝説のコメディアンすら、彼を虚仮にし彼の行いを全否定した。母の真実を知る中で砕けていた「実父」と共に、残された絆、社会との接続の拠り所だった「父」はコナゴナになった。

社会の中での役割。ロールこそが、僕たちが僕たちであるという連続性を担保し続ける。それが残らず擦り潰されたなら、もはや個人として、キャラクターとしての同一性は保てない。全てを失った以上、アーサーはアーサーでは居られなかった。

 

 

ジョーカーと呼ばれたその男は。もはやジョーカーになるしかなかった。

ヒッキーヒッキーシェイク

「俺さ、言葉が嫌いなんだよ。だから言葉のない世界にすこしでも身を置いときたいわけ。ピカソの絵とか見て、これはナントカ主義のナントカでとか、莫迦だと思わね? ただの乾いた絵具じゃん。見てたいか、見たくないかだけじゃん」

 

津原泰水の「ヒッキーヒッキーシェイク」を読んだ。怪しげな自称カウンセラーJJによって引き合わされたヒキコモリ達のアンサンブル。

御多分に漏れず、僕がこの作家を知ったのはごく最近のことだ。1か月も経っていない。百田尚樹の「日本国紀」におけるコピペ騒動と、津原泰水による指摘。そこからひっそりと発生していた文庫本発刊の取り止めの、他ならぬ作家本人からの告発。出るはずの本が出るはずのタイミングで出なかった、というだけで終わっていたかもしれない話は、あれよあれよと言う間に燃え広がり、幻冬舎社長の見城徹を引きずり出し、彼はその筆禍によって自身のツイッターアカウントを焼き、AbemaTVの冠番組を潰した。

随分と回りくどい話だが、僕はこの一連の騒動の後半部分がネット上で話題になる頃にようやく津原泰水という作家を知り、ツイッターアカウントを覗いた。そこにはまず告発があった。告発は僕にとってニュースでしかなかったのでツイートを辿った。次に、戦いがあった。戦いは僕にとって暇つぶしでしかなかったのでさらにツイートを辿った。そして、僕は宣伝を見つけた

不定期連載の長編小説。小難しい言葉遣いの、良く言えば洒落た、悪く言えば気取ったような文章を、僕は貪るように読み、あっというまに掲載分を読み終えてしまった。

面白い。そう思った。だが、最後の更新は3月末。二か月近く放置されている一方で、明らかにこの物語は始まったばかり。

お預けを食らった犬の気分で、僕は渦中の「ヒッキーヒッキーシェイク」を予約し、ついでにやたら評判の良かった「11」という短編集を注文した。ほどなく届いた「11」を読み終えてみて。正直なところ僕は拍子抜けしていた。確かに面白い。文章も好きだ。「五色の舟」と「クラーケン」に関しては、特に気に入った。しかしいくつかの作品に関しては尻切れトンボというか、座りが悪いというか。どうにも、僕の趣味にはあまりあっていないようで。正直、失敗したかもな。そう思いながら、それでも何かの縁よと「ヒッキーヒッキーシェイク」の予約は継続し、やがて発売日が訪れて。読み始めてすぐに気付いた。この小説はべらぼうに面白い。30Pも読まないうちに、僕はコロッとこの作品にやられてしまった。あれこれ考えたのも、今にしてみればただの杞憂だったわけだ。

浮世離れした(ヒキコモリだけに)キャラクター達が織りなす出来事は、現実の色濃い地続きの舞台で藻掻くが故に一層空想の色を帯び、まるで風船さながらに世界を転がり回る。軽妙な会話の中で誰もが煙に巻かれながら、風に流されながら。突然二つの足で大地を踏みしめるようになどならず、ただ流されるままに海の向こうへと消えていきもせず。ただ、精一杯に伸ばしあった手を取りあって、世界と紐付けされる。

そこにある問題を隠蔽せず。安易な解決策など提示せず。それでいて、世界が目指すべき方向を描く。これもまた、実践的な作品だと言えるだろう。

この小説が、2016年5月の段階で出版されていたというのは、希望だ。

この小説が、2019年6月の段階まで“誰にも”読まれていなかったというのは、悲劇だ。

いくつもの事件が脳裏をよぎる。いくつものニュースが思い起こされる。彼らは、彼女らは、この小説を知っていただろうか。他ならぬ幻冬舎社長が暴露した単行本の売り上げ冊数を考えるに、恐らくは知るまい。目にしたこともなく、存在自体認識してはおるまい。

そのうちのいくつかは、ここ一か月に起きた事だった。それがなによりも辛く、悲しい。

僕だって、この騒動が無ければこの作家を知ることはなかった。小説を読むことはなかった。逆に言えば、何かがあれば誰だって、この小説を読み得たということだ。

もしも彼ら彼女らが、この作品を知っていたならば。手に取って読んでいたならば。

全てと言わずとも、いくつかの悲劇は未然に防がれたのではないか。そんな考えばかりが胸に溢れる。

Mary Poppins Returns

「忘れないよ、メリーポピンズ」

 

「メリーポピンズ リターンズ」を見た。1965年に公開された傑作ミュージカル映画「メリーポピンズ」が、50年の時を超えて新作映画になる。それを知った時、勘の良い僕はピンと来ていた。

今(と限定するまでもなく)、世界中でリメイクが流行だ。リブートを繰り返す各種ヒーロー映画に擬えるまでもない。「パディントン」「ピーターラビット」「美女と野獣」「くるみ割り人形」など、ディズニーでも他の会社でも、日本のアニメ業界でだって。ちょっと思い返せばいくつも出てくる。何も「リメイクは商業的に堅い」なんて擦れただけの考えでもないだろう。名だたる過去の傑作を見て育ってきた世代が造り手となり、それらを自分たちの手でもう一度やってやろうじゃないかと思うのは実に自然なことだ。それは、この「メリーポピンズ」という怪物を前にしてすらも同じことだろう。むしろメリーポピンズには最強の音楽がついている事だし、組み立てを多少いじってそれを流すだけでも戦えるものは出来てしまいかねない。言われてみれば良いチョイスだ。

などと。

今にして思えば赤面するより他にない、愚鈍にして蒙昧な考えを抱いて。それ以上の何を知ることもなく、僕は劇場にやってきた。スクリーンに入り、周りが暗くなっても。公開前に外の屋台で買ったまっずいお握りの事を思い出していたほどだった。

そして、映画が始まり、ほどなく。僕は己の勘違いに気付いた。ガス灯。車いすに乗った提督。優し気な父親。快活な伯母。3人兄妹。

これは、リメイクではなく続編だった。「メリーポピンズ リターンズ」。読んで字のごとく。この映画は、かつてメリーポピンズに子守をされたバンクス姉弟が成長した時代にメリーポピンズが帰ってくるという物語だったのだ。つまり、「プーと大人になった僕」が近いわけだ。(こうやって並べると、一層「ウォルトディズニーの約束」で原作者がプーさんに話し掛けるシーンの重みが増す気がしないでもない)

という事に遅まきながら気付き、大きく納得をして、しかし僕は正直なところ、(こんなもんか)と思いながら見ていた。懐かしいメロディーは聞こえてくるものの、目玉となるミュージカル部分は新曲、新曲、新曲。どれも愉快な出来だがいくらなんでも相手が悪い。俳優陣を見渡せば、脇役や子役の芝居などは流石に時代とともに上がってきた全体としてのレベルの高さを感じさせるものの、あの主演二人に匹敵するほどの華を備えた俳優など、おいそれと見つけ出せるものではなく、前作が大好きな人間の贔屓目という点を考慮してもなお、追いつけてはいない。音楽や舞台は徹底的に「メリーポピンズ」を踏襲し、常に一目で「ああ、これあのシーンだ」と気付けてしまう。となれば最後の頼みは映像部分だが、ふんだんに使われるCGは余りにも幻想的、夢想的すぎ、実写であるキャラクター達が「浮いて」しまっていて。今映し出されている光景はメリーポピンズの操る魔法などではなく、夢とカリスマを備えたナニーの生み出す虚構に過ぎないのだと思わされてしまう。まあ、このように作中に現れる「非現実的事象」とキャラクターがそれを想像しているに過ぎない「虚構」の境界を「虚構」側に思い切りズラして描くのは最近とてもよく見るので(「プーと大人になった僕」や「エクソダス:神と王」などがパッと思い浮かぶ)、その流れを汲んでいるのだろう。

要するに。よくあるリバイバルの一環。それに過ぎない映画なんだ。それが、序盤を見ていての僕の感想だった。やがて2Dアニメーションのパートが現れ、久々に、本当に久々にディズニーの2Dアニメを見ることが出来て、それだけでも結構胸に来るものがあったが、映される群衆の中に微動だにしない個体を見つけるたび、規則的に同じ動きを繰り返している様に気付くたび。「衰えたな、ディズニー!」と。言いたくなる自分が居た。

潮目が変わったのは、終盤。本当に終盤だった。意地悪な銀行頭取の手で、バンクス一家は家を失いつつあった。そこに、かつての頭取が姿を現した。その姿。見紛うはずもない。ディック・ヴァン・ダイク。あの名優が、50年の月日を経て、あの時の姿でそこにいた。そして彼は、あまりにも鮮やかにすべての問題を解決してみせた。

2ペンス。

たったの2ペンス。マイケルが老婆から鳩の餌を買うために取り出した2ペンスを、父親が「未来のために」銀行に預けさせた明るくコミカルでしかし間違いなく暴力的なあのシーンを、この映画は見事に昇華させた。この上なく美しく、そして何よりも相応しい。まさに絶妙な脚本だった。あの1シーンで、この映画はどこに出しても恥ずかしくない、堂々たる「メリーポピンズ」の続編となった。

この映画は、とても完璧な映画ではない。シーンはどこも「メリーポピンズ」の焼き直しだし、音楽も俳優陣も映像効果すら、とてもとても勝ってるとは言えない。所詮一山いくらのリバイバル、と舐め腐った僕をぶちのめしたその1シーンの後だって、わざわざ必要か? と思ってしまう描写が挟まり、感極まっていた僕としてはどうも興が削がれたような感じを受けた箇所もあった。何より、この映画は「メリーポピンズ」を見てない人には多分付いていけないだろう。

それでも、この映画は「メリーポピンズ」でしか出来ないことをやったし、「メリーポピンズ」がやらなかったこと、やり残したことをやり遂げた。何より、「メリーポピンズ」を見ていて出てくる動物たちや奇人変人がだれもかれも「やあメリー・ポピンズ! お会いできてうれしいよ!」みたいな知人同士の挨拶をしていて若干の疎外感を感じていた僕としては、今度は逆に彼らと一緒に「久しぶり! 待ってたよ!」という心境で見ることが出来るというのは本当に嬉しかった。余りにも僕が感動した部分を有体に書いてしまったので、その手でこのような事を記すのはどうかと自分でも思うのだが、もし幼いころに「メリーポピンズ」を楽しんだ過去を持っているなら、この映画は間違いなくお勧めできる。

この作品は、メリーポピンズの宿題をやってのけた。