ブログ更新に関して

僕はインターネット上で同人活動として幾人かの友人達と動画を製作している。前月8月からまた新しく投稿を始めた。

一体なにがどう影響しているのかわからないが、その日からここ二週間ほど、まったくアニメやらなんやらを見ることができない。見たいな、とは思うのだが、見る事なく時間が過ぎていく。困ったことだが、原因がわからないので修正も難しい。

なので、しばらくこのブログがどうなるかわからない。

もしかしたら明日にもアニメを見て感想を書くかもしれないし、動画投稿が終わるまで一本も書かないかもしれない。

 

だから何と言われるとこれ以上ないほど何もないのだが、とにかく、しばらく更新してなかったので何か書いておきたかった。

自分を知るというのは世界を知るということだ

ここ二週間、昔から何度か触れていた作品をもう一度読み返し、見返していた。

それを読み終わったり、見終わったりすると、その度に感想を書こうとするのだけれど、どうもうまくいかない。それは何故か、考えてみた。

きっと、僕を構成している作品を突き放して書くことに、強い抵抗があるのだ。

僕は今の僕が作品を見て思ったことを感想としてこのブログに書いている。だが、「今の僕」を形づくった作品達に対して他人事のように文章を書くと、本当に他人が書いているかのような、誰か別の人の文章に見えてしまって、書き上げることが出来なかった。

それはつまり、十年か十五年か、ともかくそれほど月日が経ってもなお、僕はそれなしでは満足に立てないほど、その作品達に寄りかかっているということに他ならない。

己の未熟さと、感想を書く事の難しさを改めて思い知らされた二週間だった。

 

だが、読んだことのない小説もいくつか手に入れた。数日中にはマンデラを見に行く。だから、近いうちに何らかの感想文が書けると思う。

負けることが恥ではない。戦わぬことが恥なのだ。

囲碁電王戦の話。

2月11日/16日の二日にかけてニコニコ生放送で、人間とコンピュータによる囲碁対決が行われた。

僕は囲碁に関してはまったくと言っていいほど知らないので、書いてある内容は概ね解説の話を聞きながら対局を見て思った事である。

9路盤に関しては、見ていていまいちピンと来る間もなく人間が勝ってしまったが、16日に行われた13路盤、19路盤での戦いを見て思う事があったので記す。

13路盤では、江村棋弘アマ7段とZenの三番勝負。結果としては江村7段のストレート勝ち。彼の打ち筋を見ていて、非常に強い攻めっ気を感じた。そして、スパ帝の言っていた「AIはどれほど兵力を持っていても同時に一都市しかうまく守ることができない」という一文を思い出した。解説を聞いていても、しっかり守らなければ確定していないような場所を自分のものと計算して防御を怠ったり、まだ蹴りのついていない場所を放置していたりと、どうも同時に二箇所三箇所をきっちり守る事が苦手であるように感じた。逆に、Zenに攻勢を握られると危ういのではないかと考えた。そして、その後の勝負も僕の想像に半ば沿う形となる。

午後5時からは、政治家小沢一郎とZenの一番勝負が行われた。小沢の打ち筋はどうも攻め気に欠けているように感じ、小沢自身の失策もあり、Zenの勝利となった。

 

結果としては人間側の3勝1敗。人間が大好きな僕としては最善ではないが、まあ大方の予想通りの順当な結果となった。

当然、人間側として唯一負けた小沢は非常に目立つし、彼自身の悪評も相まって叩かれるのも容易に予想はできた。

だが、敗北を恥と考えている人間のあまりの多さに辟易したというのが正直な感想である。

なさけない、恥ずかしい、恥をさらした……

確かに、そうである。敗北を予感し、なお戦い続ける事で生まれる羞恥や悔悟の念は只ならぬものだし、それが放映され周知のモノとなっていると考えると、僕なら憤死ものだ。

だが、それは当人の心境がそうであろうというだけだ。負ければ悔しい。恥ずかしい。それは自己評価として発生しうるものではあっても、周囲からの評価としてはまったく正しくない。

負ける事は断じて恥ではない。恥を恐れ、争わぬ事。これこそが恥である。

これはさまざまな場所で感じる。敗北者、落伍者。そういうものをまるで「悪」であるかのように書き連ねる。これを「メディアがそういう報道をするから悪い」と言う人間もいるが、それだけではない。その報道を良しとした国民にも責はある。その報道を咎めなかった。喜び一緒になって叩いた。そういった過去の積み重ねの上に、今日失敗そのものを恐れる風潮が幅を利かせているのだ。

だが、小沢は来た。棋力は他の参加者に比べて一枚も二枚も劣るし、相手は元来が19路盤用プログラムである。そして放送される場所は小沢というだけで罵倒されるようなニコニコ動画だ。負けたとき何を言われるかなぞ、わかったものではない場所だ。

それでも小沢一郎は出てきた。彼は戦った。それは誉れでこそあれ、恥ではない。

思うに、彼は若者が好きなのだ。ニコニコ動画では誰にも先駆けて動画を投稿したし、政権を握ってからも民主党は窓口を開放し続けた。記者会見のオープン化をはかり、会見の場にニコニコの記者が入れるようにもなった。彼はずっと、若者と対話しようとしている。

とはいえ、小沢もすっかり爺さんになってしまった。一目見ても老けたし、その喋りを聞いていても痰が何度となく絡み、彼の衰えを実感させられる。今後またなにかでかい事をやるのか、それともこのまま過去の政治家として消えていくかもわからない。そして、彼への批判だけは消えることなく残り続けるだろう。

 

だからこそ、今書いておきたい。彼は立派に戦ったのだと。

IN MY OPINION.

TRPGについてのimo。

 

「艦隊これくしょん」なるゲームがある。可愛い女の子がわちゃわちゃやってるゲームだ。詳しくは知らない。僕は動画と友人がプレイしているのを横から見た程度で遊んだことはない。見た感想は「つまらなそう」だったので遊ぶ気もない。やってる連中の話を聞くとゲーム性より可愛い女の子がわちゃわちゃやってるのを見るのを楽しむモノらしい。まあそれは良い。楽しんでる奴の首ねっこ捕まえてやめさせようなんて事はしない。

この度、それがTRPGになるという。この事態に対して「どんな形であれTRPGというものが世間に認知されれば、結果的にTRPG業界そのものが潤う。だから良いことだ」という意見を耳にしたが、僕はそうは思わない。このゲームに人を参加させるならば、周囲は多大なる覚悟を持ってそれを行うべきであるし、右も左もわからない初心者の群れにルールブックをホイと渡してハイサヨウナラ、なんて事は決してやってはならない。

 

なぜって、 「TRPGは難しい」からだ。

ハッキリ言ってこれに尽きる。「TRPGはかく在るべし」といった論説を打つ気はないが、これだけは譲れない。「TRPGは難しい」のだ。

まず前提として、参加者全員が一箇所に、ある程度の長さを持って集まらなければならない。キャンペーンをするともなればその期間は年単位にもなる。当然すべての参加者はその時間を都合しなければならない。今はオンラインセッションの普及によってある程度たやすくなったが、人が一定のスパンで集まる必要があるという状況に違いはない。「難しい」。

また、ただ人が集まれば良いというわけでもない。TRPGには絶対にGMが必要だ。GMは難しい。シナリオを考え、データを作り、NPCを創造しなければならない。「難しい」。

そして、他の参加者はPLという役割を果たさなければならない。キャラクタを作成し、その人物像をイメージする。「難しい」。

これらは、TRPGの種類を問わず、TRPGを遊ぶすべてのユーザーに突きつけられる課題である。いわば前提だ。実際には千差万別のシステムそれぞれにユーザー個人個人で「あう」「あわない」が存在している。そして、それを果たした上でユーザーは「楽しまなければならない」のだ。これがある意味で最も難しいのではないだろうか。

GMは神ではないし、王でもない。PLはGMの駒ではない。GMはPLがシナリオにどう立ち向かうかを楽しみ、PLを楽しませなければならない。

PLはお客さまではない。GMはPLの保護者ではないし、敵でもない。PLはGMの用意したシナリオを他PLと共に楽しみ、そしてGMを楽しませなければならない。

僕の経験を思い出してみると、参加者の誰か一人(もちろんこれはPL、GMに関わらない)でも露骨につまらなそうな態度を取っていると、TRPGはあっというまにつまらないゲームになってしまう。だからといって面白くもないのに楽しんでいるように装うのは苦痛だし、もっとつまらない。

そして、つまらないTRPGというのは地獄である。

 

TRPGは、ユーザーが物語を組み立てていく遊びだ。この遊びにルールはあっても筋書きはない。CRPGのようにキャラクタ達がシナリオライターの考えた面白いトークを繰り広げたり、重厚な世界を満喫してくれるわけではないし、アクションゲームのように試行錯誤を繰り返せば答えが見つかるようなものでもない。その場にいる参加者ひとりひとりが「自分を含めた」全員の事を考えながら遊ぶ、非常に高度なコミュニケーションゲームだ。十年遊んだ人間が五人集まってもつまらないゲームは発生する。勿論、僕達は良い。つまらないゲームに出くわしても、その失敗を踏まえて「次」楽しめればよいのだから。

だが、彼らは違う。新しい領域に足を踏み入れた人間に「次」はない。一番最初の体験が全てだ。つまらないゲームに出くわせば、それが彼らにとってのTRPGとなる。そしてこのゲームは、「つまらない」状態が一時間からひどければ五時間六時間続くのである。一体誰がそれをまたやろうと言うのだ。

このような状況は、どこででも発生しうる。いや、むしろこうなる率の方が高いと僕は予想する。だって、今は「難しい」「つまらない」ゲームなんて流行らないから。「簡単」「楽しい」を手軽に満たしてくれるゲームがそこら中に転がっている。プレイヤーはお客さまとなり、王様となり、ゲームの接待を受けていれば良い。そんなゲームが世界中に溢れている状況だ。そして、そんなゲームをこそ望む層に、「難しい」ゲームは受けないのだ。勘違いしないでほしいのは、僕は別に非難しているわけじゃないという事だ。「つまらない」ものから身を遠ざけるのは当然だ。僕だって「艦隊これくしょん」は「つまらなそう」だからやってない。では何故「つまらない」が存在するTRPGを遊び続けるのか。それ以上に、僕は知っているからだ。TRPGの面白さを。

だが、僕はこんなに尖った遊びを、誰とも知らない不特定多数の「みんな」にお勧めすることは断じて出来ない。彼らが楽しめる保障はない。責任も取れない。

この遊びは残念ながら、誰がやっても楽しい遊びではない。 楽しめるのはそれに適した環境に恵まれた、一部の人間だけだ。

 

 

「艦隊これくしょんTRPG」が販売されるという状況をチャンスと捉えてアクションを起こそうとしている君。

「艦隊これくしょんTRPG」をきっかけに、TRPGってなんだろう? と興味を持ったそこの君よ。

 

やるなとは言わない。遊んで楽しいならそれに越した事はない。ただ、知っていてほしい。この遊びは「難しい」という事を。

そして、気をつけていてほしい。この難しい遊びを楽しめるように。

あなたはだんだん眠くなる。

暗示とはなんだろうか。

僕はこれまで三人ほどの催眠術師に出会った事がある。術をかけられた人としゃべった事もあるし、術をかけられた事もある。

逆に言うならその程度の経験だ。そしてほかに暗示に関する知識らしいものを入手する手段はフィクションにしかなかったので、実態は違うかもしれない。また、精神科などで行う暗示療法に関しては見た事も聞いた事も無いので、あれらがこれまで僕の触れてきた暗示と同一であるかどうかも知らない。

だが、少なくとも僕がこれまで出くわした術師や、フィクションから得た情報を加味する限りにおいて、暗示とは許しを請う技術である。

彼らはものものしい。仰々しく、大げさで、喜劇めいている。そして、自らの暗示(すなわち、握った手を離せないとか、鳥になるとか、目をつぶったら目の前に花畑が広がるとか)が、対象者にかかって当然。効果を表して当然だというように、振舞う。勿論衆人環視の中である。それは対象者にとって大いなるプレッシャーとなる。

あっさりと手を開いてしまえば、相手の面目は丸つぶれになるのではないか? そういう考えが頭をよぎる。実際はそうではないのだが、そう考えてしまう。これが暗示の第一の鎖である。また、人間は一度にひとつのことを考えているわけでもない。相手の面目を心配している同じ頭の中に、不思議な出来事に遭遇したい、巻き込まれたいという思いが存在する。それが暗示の第二の鎖となり、自らを縛り上げる。自分は今不思議な出来事に遭遇しているのだ。暗示をかけられ、手を開く事ができないのだと、自分自身がそれを望む。

そして、対象者は結論を下す。手を握っているだけで皆が満足するなら、握っておいてやろうと。

この考えが僕の中で現実味を持つのは、無数のフィクションが声をそろえて訴える「暗示で人は殺せない」というルールを説明できるからだ。

誰だって死ねとお願いされて死んでやるほどのお人よしではないのだという、ごく当然の発想である。結局は閾値の問題だ。知らない人に突然鳥の物まねをしろと迫られても、人はそれをしない。だが、上記の二つの鎖が、人の閾値を下げる。そのぐらいしてやるかという気になる。だが、どれほど周囲に期待されたからといって、ホイホイ死ぬ人はそうそう居ない。

 

だから暗示で人は殺せないのだ。