負けることが恥ではない。戦わぬことが恥なのだ。

囲碁電王戦の話。

2月11日/16日の二日にかけてニコニコ生放送で、人間とコンピュータによる囲碁対決が行われた。

僕は囲碁に関してはまったくと言っていいほど知らないので、書いてある内容は概ね解説の話を聞きながら対局を見て思った事である。

9路盤に関しては、見ていていまいちピンと来る間もなく人間が勝ってしまったが、16日に行われた13路盤、19路盤での戦いを見て思う事があったので記す。

13路盤では、江村棋弘アマ7段とZenの三番勝負。結果としては江村7段のストレート勝ち。彼の打ち筋を見ていて、非常に強い攻めっ気を感じた。そして、スパ帝の言っていた「AIはどれほど兵力を持っていても同時に一都市しかうまく守ることができない」という一文を思い出した。解説を聞いていても、しっかり守らなければ確定していないような場所を自分のものと計算して防御を怠ったり、まだ蹴りのついていない場所を放置していたりと、どうも同時に二箇所三箇所をきっちり守る事が苦手であるように感じた。逆に、Zenに攻勢を握られると危ういのではないかと考えた。そして、その後の勝負も僕の想像に半ば沿う形となる。

午後5時からは、政治家小沢一郎とZenの一番勝負が行われた。小沢の打ち筋はどうも攻め気に欠けているように感じ、小沢自身の失策もあり、Zenの勝利となった。

 

結果としては人間側の3勝1敗。人間が大好きな僕としては最善ではないが、まあ大方の予想通りの順当な結果となった。

当然、人間側として唯一負けた小沢は非常に目立つし、彼自身の悪評も相まって叩かれるのも容易に予想はできた。

だが、敗北を恥と考えている人間のあまりの多さに辟易したというのが正直な感想である。

なさけない、恥ずかしい、恥をさらした……

確かに、そうである。敗北を予感し、なお戦い続ける事で生まれる羞恥や悔悟の念は只ならぬものだし、それが放映され周知のモノとなっていると考えると、僕なら憤死ものだ。

だが、それは当人の心境がそうであろうというだけだ。負ければ悔しい。恥ずかしい。それは自己評価として発生しうるものではあっても、周囲からの評価としてはまったく正しくない。

負ける事は断じて恥ではない。恥を恐れ、争わぬ事。これこそが恥である。

これはさまざまな場所で感じる。敗北者、落伍者。そういうものをまるで「悪」であるかのように書き連ねる。これを「メディアがそういう報道をするから悪い」と言う人間もいるが、それだけではない。その報道を良しとした国民にも責はある。その報道を咎めなかった。喜び一緒になって叩いた。そういった過去の積み重ねの上に、今日失敗そのものを恐れる風潮が幅を利かせているのだ。

だが、小沢は来た。棋力は他の参加者に比べて一枚も二枚も劣るし、相手は元来が19路盤用プログラムである。そして放送される場所は小沢というだけで罵倒されるようなニコニコ動画だ。負けたとき何を言われるかなぞ、わかったものではない場所だ。

それでも小沢一郎は出てきた。彼は戦った。それは誉れでこそあれ、恥ではない。

思うに、彼は若者が好きなのだ。ニコニコ動画では誰にも先駆けて動画を投稿したし、政権を握ってからも民主党は窓口を開放し続けた。記者会見のオープン化をはかり、会見の場にニコニコの記者が入れるようにもなった。彼はずっと、若者と対話しようとしている。

とはいえ、小沢もすっかり爺さんになってしまった。一目見ても老けたし、その喋りを聞いていても痰が何度となく絡み、彼の衰えを実感させられる。今後またなにかでかい事をやるのか、それともこのまま過去の政治家として消えていくかもわからない。そして、彼への批判だけは消えることなく残り続けるだろう。

 

だからこそ、今書いておきたい。彼は立派に戦ったのだと。

IN MY OPINION.

TRPGについてのimo。

 

「艦隊これくしょん」なるゲームがある。可愛い女の子がわちゃわちゃやってるゲームだ。詳しくは知らない。僕は動画と友人がプレイしているのを横から見た程度で遊んだことはない。見た感想は「つまらなそう」だったので遊ぶ気もない。やってる連中の話を聞くとゲーム性より可愛い女の子がわちゃわちゃやってるのを見るのを楽しむモノらしい。まあそれは良い。楽しんでる奴の首ねっこ捕まえてやめさせようなんて事はしない。

この度、それがTRPGになるという。この事態に対して「どんな形であれTRPGというものが世間に認知されれば、結果的にTRPG業界そのものが潤う。だから良いことだ」という意見を耳にしたが、僕はそうは思わない。このゲームに人を参加させるならば、周囲は多大なる覚悟を持ってそれを行うべきであるし、右も左もわからない初心者の群れにルールブックをホイと渡してハイサヨウナラ、なんて事は決してやってはならない。

 

なぜって、 「TRPGは難しい」からだ。

ハッキリ言ってこれに尽きる。「TRPGはかく在るべし」といった論説を打つ気はないが、これだけは譲れない。「TRPGは難しい」のだ。

まず前提として、参加者全員が一箇所に、ある程度の長さを持って集まらなければならない。キャンペーンをするともなればその期間は年単位にもなる。当然すべての参加者はその時間を都合しなければならない。今はオンラインセッションの普及によってある程度たやすくなったが、人が一定のスパンで集まる必要があるという状況に違いはない。「難しい」。

また、ただ人が集まれば良いというわけでもない。TRPGには絶対にGMが必要だ。GMは難しい。シナリオを考え、データを作り、NPCを創造しなければならない。「難しい」。

そして、他の参加者はPLという役割を果たさなければならない。キャラクタを作成し、その人物像をイメージする。「難しい」。

これらは、TRPGの種類を問わず、TRPGを遊ぶすべてのユーザーに突きつけられる課題である。いわば前提だ。実際には千差万別のシステムそれぞれにユーザー個人個人で「あう」「あわない」が存在している。そして、それを果たした上でユーザーは「楽しまなければならない」のだ。これがある意味で最も難しいのではないだろうか。

GMは神ではないし、王でもない。PLはGMの駒ではない。GMはPLがシナリオにどう立ち向かうかを楽しみ、PLを楽しませなければならない。

PLはお客さまではない。GMはPLの保護者ではないし、敵でもない。PLはGMの用意したシナリオを他PLと共に楽しみ、そしてGMを楽しませなければならない。

僕の経験を思い出してみると、参加者の誰か一人(もちろんこれはPL、GMに関わらない)でも露骨につまらなそうな態度を取っていると、TRPGはあっというまにつまらないゲームになってしまう。だからといって面白くもないのに楽しんでいるように装うのは苦痛だし、もっとつまらない。

そして、つまらないTRPGというのは地獄である。

 

TRPGは、ユーザーが物語を組み立てていく遊びだ。この遊びにルールはあっても筋書きはない。CRPGのようにキャラクタ達がシナリオライターの考えた面白いトークを繰り広げたり、重厚な世界を満喫してくれるわけではないし、アクションゲームのように試行錯誤を繰り返せば答えが見つかるようなものでもない。その場にいる参加者ひとりひとりが「自分を含めた」全員の事を考えながら遊ぶ、非常に高度なコミュニケーションゲームだ。十年遊んだ人間が五人集まってもつまらないゲームは発生する。勿論、僕達は良い。つまらないゲームに出くわしても、その失敗を踏まえて「次」楽しめればよいのだから。

だが、彼らは違う。新しい領域に足を踏み入れた人間に「次」はない。一番最初の体験が全てだ。つまらないゲームに出くわせば、それが彼らにとってのTRPGとなる。そしてこのゲームは、「つまらない」状態が一時間からひどければ五時間六時間続くのである。一体誰がそれをまたやろうと言うのだ。

このような状況は、どこででも発生しうる。いや、むしろこうなる率の方が高いと僕は予想する。だって、今は「難しい」「つまらない」ゲームなんて流行らないから。「簡単」「楽しい」を手軽に満たしてくれるゲームがそこら中に転がっている。プレイヤーはお客さまとなり、王様となり、ゲームの接待を受けていれば良い。そんなゲームが世界中に溢れている状況だ。そして、そんなゲームをこそ望む層に、「難しい」ゲームは受けないのだ。勘違いしないでほしいのは、僕は別に非難しているわけじゃないという事だ。「つまらない」ものから身を遠ざけるのは当然だ。僕だって「艦隊これくしょん」は「つまらなそう」だからやってない。では何故「つまらない」が存在するTRPGを遊び続けるのか。それ以上に、僕は知っているからだ。TRPGの面白さを。

だが、僕はこんなに尖った遊びを、誰とも知らない不特定多数の「みんな」にお勧めすることは断じて出来ない。彼らが楽しめる保障はない。責任も取れない。

この遊びは残念ながら、誰がやっても楽しい遊びではない。 楽しめるのはそれに適した環境に恵まれた、一部の人間だけだ。

 

 

「艦隊これくしょんTRPG」が販売されるという状況をチャンスと捉えてアクションを起こそうとしている君。

「艦隊これくしょんTRPG」をきっかけに、TRPGってなんだろう? と興味を持ったそこの君よ。

 

やるなとは言わない。遊んで楽しいならそれに越した事はない。ただ、知っていてほしい。この遊びは「難しい」という事を。

そして、気をつけていてほしい。この難しい遊びを楽しめるように。

あなたはだんだん眠くなる。

暗示とはなんだろうか。

僕はこれまで三人ほどの催眠術師に出会った事がある。術をかけられた人としゃべった事もあるし、術をかけられた事もある。

逆に言うならその程度の経験だ。そしてほかに暗示に関する知識らしいものを入手する手段はフィクションにしかなかったので、実態は違うかもしれない。また、精神科などで行う暗示療法に関しては見た事も聞いた事も無いので、あれらがこれまで僕の触れてきた暗示と同一であるかどうかも知らない。

だが、少なくとも僕がこれまで出くわした術師や、フィクションから得た情報を加味する限りにおいて、暗示とは許しを請う技術である。

彼らはものものしい。仰々しく、大げさで、喜劇めいている。そして、自らの暗示(すなわち、握った手を離せないとか、鳥になるとか、目をつぶったら目の前に花畑が広がるとか)が、対象者にかかって当然。効果を表して当然だというように、振舞う。勿論衆人環視の中である。それは対象者にとって大いなるプレッシャーとなる。

あっさりと手を開いてしまえば、相手の面目は丸つぶれになるのではないか? そういう考えが頭をよぎる。実際はそうではないのだが、そう考えてしまう。これが暗示の第一の鎖である。また、人間は一度にひとつのことを考えているわけでもない。相手の面目を心配している同じ頭の中に、不思議な出来事に遭遇したい、巻き込まれたいという思いが存在する。それが暗示の第二の鎖となり、自らを縛り上げる。自分は今不思議な出来事に遭遇しているのだ。暗示をかけられ、手を開く事ができないのだと、自分自身がそれを望む。

そして、対象者は結論を下す。手を握っているだけで皆が満足するなら、握っておいてやろうと。

この考えが僕の中で現実味を持つのは、無数のフィクションが声をそろえて訴える「暗示で人は殺せない」というルールを説明できるからだ。

誰だって死ねとお願いされて死んでやるほどのお人よしではないのだという、ごく当然の発想である。結局は閾値の問題だ。知らない人に突然鳥の物まねをしろと迫られても、人はそれをしない。だが、上記の二つの鎖が、人の閾値を下げる。そのぐらいしてやるかという気になる。だが、どれほど周囲に期待されたからといって、ホイホイ死ぬ人はそうそう居ない。

 

だから暗示で人は殺せないのだ。

よろしい。まず君から引き給え。

久々にボードゲーム会に参加。

遊んだのは「ガイスター」、「ギンコポリス」、「ゼロ」の三種類。

「ギンコポリス」と「ゼロ」は初プレイ。

 

「ガイスター」は相手に二択を迫るもののスルーされて負けたり、初歩的なルールの勘違いでゴールされたりと、今日は腑抜けた結果だった。

 

「ギンコポリス」は、日本語でいうと「銀杏都市」となる。が、勝利点トークンがイチョウの葉である他はあまり関係がない。多分作者が好きなのだろう。

自分が建物を建てると、その下の建造物の効果を手に入れられるという一風変わったシステムや、勝利点獲得方法や資源獲得方法が複数あり、また手札自体はドラフト制と、毎回勝つための道筋が変わることが想像出来る面白いゲームだった。是非とも遠くないうちに二回目を遊びたいものだ。

 

最後は「ゼロ」。デザイナーがライナー・クニツィアという時点でもうどんなゲームか、感覚で察して頂けるかも知れない。手札をできるだけ同じ色に、そしてできるだけ同じ数字に整えていくゲーム。

「各カードには一から八の数字があり、ゲーム終了時手札にある数字分減点される」

「同色五枚以上、同数五枚以上を持っている場合、そのグループによる減点は無し」

「同じ数字のカードは一回分しか減点しない」

以上の非常にシンプルなルールに従いながら各人九枚の手札と場の五枚のカードを交換しながら手札を整える。全体で二度パスされるか、誰かが手札の減点をゼロ点にして「ZERO」と宣言すれば一ラウンドが終了する。人数分ラウンドを行って最も減点の少ない者の勝利。

同じ色を集めるべきか、同じ数を集めるべきかという他人や場とのカードとの兼ね合いが非常に悩ましい。

「ZERO」の宣言による終了は他のプレイヤーからは予想が立てられないので、どの程度「ZERO」を目指すか、どの程度で妥協して失点を減らすかという、自分の中での妥協点の模索が苦しく楽しいゲーム。

 

新しく遊んだ二つのゲームはどちらも二度目、三度目のプレイが楽しみなゲームで、とても良かった。とりあえずジャイプルを注文したので、次のボードゲーム会にはこれを持っていこう。

ウナ・セラ・ディ東京

東京へ行ってきた。

芝居を見るためである。

演劇倶楽部『座』による、「やぶにらみ龍之介ばなし」

芥川龍之介の「白」「蜘蛛の糸」「杜子春」の三編を、壤晴彦が自身の解釈を交えてオムニバス形式の劇として上演。

内容の流れは、「白」が「黒」を見捨てた後、「蜘蛛の糸」の夢を見、命を賭して人を救い、打ち殺されても良いからせめて主人の顔を一目見んと決意を固めて戻ってきた夜に「杜子春」の夢を見る、というもの。

基本的に劇は「詠み芝居」として進行する。「白」「蜘蛛の糸」「杜子春」それぞれに詠み手が一人ずつと、役者が全部で十人ほど。

また、詠み手と共に登場する琵琶奏者が一人。

 

 

以下感想。

まず琵琶に触れておこう。とても良かった。なかなか琵琶の生演奏など聞く機会もない昨今、贅沢に2時間も舞台のBGMとして聞く事が出来たのは得難い経験だった。また、芥川の持つ良い意味での古臭さを一層引き立てていた。

次に役者。これも良かった。特にカンダダ役を演じた大谷美智浩。蜘蛛を見逃すときの酔っぱらったような呂律、蜘蛛の糸を上りはじめた時の高揚、そして糸に群がる他の罪人達への身勝手な叱責。どれもが目を見張るもので、舌を巻いた。また彼は「杜子春」の詠み手も務めており、地の文の柔らかさ、鉄冠子の荒々しさの演じ分けも見事だった。

演出も、時に人形を用い、また所々にコミカルなセリフ回しを挿し込み、笑いを誘うかと思えば、黒犬となった白の勇ましさを伝える新聞記事を矢継ぎ早に読みあげる記者達のシーンには目頭が熱くなった。

 

のだが。

全体としての評価は、あまり高くない。

上に書いたように、部分部分は素晴らしいものが光る。演出も役者も、実に良い。

だがやはり、全体として、この芝居を考えた時、あまり良い評価をつける事は出来ない。

 

 

その理由を考えてみた。

この芝居のチラシには「珍解釈・新解釈・真解釈?」という煽り文が踊っている。

だが、シンなりチンなりの解釈を示せていたのは「杜子春」だけ。

「蜘蛛の糸」は釈迦が「考えなしにあのような事をするのではなかった。私の馬鹿!」と自省するシーンや、再び地獄で拷問されるカンダダの描写が挿入されていたものの、シン解釈と言うにはあまりに拙い。僕には「蜘蛛の糸」を読んで釈迦の身勝手さが鼻につかないものなど、とうてい居るとは思えない。

「白」は「蜘蛛の糸」と「杜子春」の夢を見る以外なにも原作と変わらない。

 

あれならば、三つの短編をそれぞれ頭から終わりまで順番にやった方が良かったのではないだろうか。

僕にはそう思えてならない。