BIOSHOCK INFINITE

「娘を連れてくれば、借金は帳消しだ」

 

BIOSHOCKは非常に有名な作品らしいのだが、昨日まで名前すら知らなかった。購入したのはSTEAMでシリーズ三作がまとめて15ドルと大安売りだったのと、某所で強烈にお勧めされたからだ。どんなゲームかもまったく知らないまま、意気揚々とBIOSHOCK1に挑戦した僕はそのホラーテイストに開始20分で完膚なきまでに叩き潰され、twitter上で弱音を吐いていたところを親切な人たちに「INFINITEは全然雰囲気違うからそっちからやるといいよ」とお勧めされて慌ててこちらをDLした次第。

まず彼らに感謝する。僕はあまりコンピューターゲームに慣れていないので死にまくったり迷いまくったりしてプレイ中はかなりイライラした場面もあったが、そんなものを吹っ飛ばすほどストーリーが面白かった。すばらしい。まさにドンデン返しという他ない。新たな情報が人物の立ち位置を変える。文章の読み方を変える。ゲーム中ずっと「ああこれ最後にエリザベス死にそうだなぁ」と思っていただけに、あのラストには一際驚かされた。二周目を強く勧める人が多いのも頷けるというものだ。きっと一周目は必死になっていて見落とした様々な真実の断片があることだろう。

また、キャラクターが非常に魅力的だった。ゲーム中、事あるごとに登場してまるで「アリス」の登場人物のように意味深で愉快な会話を繰り広げる二人のルーテスはこのゲームで最も好きなキャラクター達だ。囚われの少女エリザベスは髪をバッサリ切り落としてから馬鹿みたいに可愛くなり、敵に再び捕らえられ狂人が山のようにいる研究施設っぽいステージを一人で攻略しなければならなくなった時に「いやここでやめるわけにはいかないだろ! エリザベスが助けを待ってるぞ!」となけなしの勇気を振り絞る事ができた。

これだけ面白いとなると、BIOSHOCK1、2にも非常に期待できる。できるのだが……怖い。怖いのはどうにも苦手だ。だが面白そうだ。このせめぎ合いが僕をとても困らせている。いつかやろう。そのうちやろう。

MANDELA

「力を」「民衆に」

 

南アフリカ共和国第八代大統領ネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」を見た。

この映画は僕が漠然と、歴史上の一行としてしか知らなかったアパルトヘイトの一端を教えてくれた。そして、それ以上に、僕を恐怖させた。

南アフリカでホワイトの支配をブラックが打ち破った。これはただそれだけの問題ではない。世界の至る所で、長らく続いていた支配の一部が手放された、そんな時代だった。その機運が、ネルソン・マンデラを終身刑から救い、彼を大統領たらしめ、ノーベル平和賞まで受賞させた。

だが、現在。

二十一世紀が七分の一終わった、今この時。世界は未だ、無数の支配と搾取、そして差別に溢れている。

かつて。マンデラ達は戦った。日本も戦った。ベトナムもイラクも戦った。インドネシアも戦った。アメリカも戦ったし、ソビエトも中国もヨーロッパも、世界中が戦った。ある者は勝利し、ある者は敗北した。

だが、今。世界は変わらない。法の後ろ盾を失っても人種差別は残る。白人の支配から解放されたかに見えたアフリカではそこかしこで内戦が続いている。日本では「サヨク」という言葉自体が忌避されている。大国はその身の内に火種を抱え続け、希望に溢れていたEUにもいくつもの綻びや亀裂が入った。戦いでは世界を変えられない。彼らは戦いたくて戦ったのではない。戦わざるをえなくなって戦った。そこまで「追い込まれた」のだ。「正義は我にあり」「間違っているのは彼らだ」そうやって、自分達を正当化し、鼓舞し、戦った。戦うためには必要なことだ。だが、支配と戦い、その場の支配者を倒すことは出来ても、「支配」に勝つことは出来ない。

「支配」はこの上なく狡猾だ。彼らは敗北さえも飲み込んで、新たな支配を生み出す。

彼らは戦うしかなかった。耐え難いほど支配され、戦うことによって、自らの正義によって、「支配」を倒せると信じた。

僕は知っている。戦っても、「支配」は倒せないと知っている。

まず認めよう。僕は「支配」のおかげで今を保っている。僕は「支配」に生かされている。勿論、今僕の世界を支配しているルール全てを肯定しているわけではないし、そのルールを今よりもっと不愉快なものにしようとしている連中に対して怒りを覚えることもある。

だが、だからと言ってどうすれば良いのだ。僕は死にたくないし、殺したくない。そして、誰かを殺しても世界は変わらないと知っている。皆が変わらなければ世界は変わらない。しかし、自分を変えるというその行為自体を恐れるような、そんな人間が他人を変えられるものだろうか。

こんな悩みを抱くのは、幸福であり不幸だ。正しさに盲目的にならなくてもよいほど、僕の世界は豊かだった。脇目も振らずに追い求めなければならないものが、僕の世界にはなかった。そのせいで僕は今悩む羽目になっている。世には「正しさ」が溢れているが、どれを選んだって、この問答が僕を苛む。お前の選んだその「正しさ」の正当性を、誰が担保してくれる?

そして、僕は佇み続ける。自らを委ねるに足る、正しさを求めて。

だが、いつまでもこのままではいられない。変えなければならない。今切羽詰っていなくても、いつか、のっぴきならない状態がやってくる。

その時、僕は、戦わずに、ネルソン・マンデラと同じ事をしなければならないのだ。

 

それが恐ろしい。

自分を知るというのは世界を知るということだ

ここ二週間、昔から何度か触れていた作品をもう一度読み返し、見返していた。

それを読み終わったり、見終わったりすると、その度に感想を書こうとするのだけれど、どうもうまくいかない。それは何故か、考えてみた。

きっと、僕を構成している作品を突き放して書くことに、強い抵抗があるのだ。

僕は今の僕が作品を見て思ったことを感想としてこのブログに書いている。だが、「今の僕」を形づくった作品達に対して他人事のように文章を書くと、本当に他人が書いているかのような、誰か別の人の文章に見えてしまって、書き上げることが出来なかった。

それはつまり、十年か十五年か、ともかくそれほど月日が経ってもなお、僕はそれなしでは満足に立てないほど、その作品達に寄りかかっているということに他ならない。

己の未熟さと、感想を書く事の難しさを改めて思い知らされた二週間だった。

 

だが、読んだことのない小説もいくつか手に入れた。数日中にはマンデラを見に行く。だから、近いうちに何らかの感想文が書けると思う。

サカサマのパテマ

「パテマってこんな顔だったんだ」

 

「イヴの時間」の吉浦康裕が監督した劇場アニメ「サカサマのパテマ」を見た。空に落下する少女の物語。

凡人がナウシカとラピュタを捏ねくりまわしてひり出したようなアニメだった。一言で評するなら「退屈」。浅い上にありきたりなキャラクター造形の数々。「このような歴史があったら人はどう生きるか」という想像力をちゃんと働かせているかと問い詰めたくなるような、曖昧で漠然とした世界観。そんなぼやけた世界なのに冒頭の15から20分ほど、言葉での説明を一切しない。その癖映像でも説明できていないから見ていて作品に入りこめない。視聴者とキャラクターが乖離している状態にも関わらずタイムスケジュールに従って話を動かすせいで上滑りし続ける。いつ面白くなるのかと耐え忍んでいたら90分たってアニメが終わってしまった。各シーンを指してここはどうこうあそこはどうこうと言うのはいつだったかも書いたがブログでやることではないのでしないが、全体を通して余りにも作りがぬるすぎる。「イヴの時間」はそこそこ楽しめたので楽しみにしていたが、期待はずれだった。

 

可愛い見た目の女の子が主人公と抱き合っていれば満足する人は楽しめるのではないだろうか。劇場アニメでやることかは疑問だが。

円環少女

「おまえ、変態だから魔法使いだろ」

 

長谷敏司「円環少女」を読んだ。一巻を読んでから最終巻を読み終わるまで実に9年もかかってしまった。地球に訪れる多種多様な魔法使いと、観測した魔法を消去してしまうために「悪鬼」と呼ばれる地球人の物語。

山のように出てくる魔法がいずれも魅力的で実に夢にあふれているし、それをいくつもの神話にうまく接続している。「魔法消去」という要素がまた上手い。これが現実と小説との間を橋渡しし、作品全体にリアリティを与えている。キャラクター達の造形も実に凝っていて、強いキャラクターがもっと強い敵を知恵を絞って命からがら倒すという僕の好きな展開がふんだんに盛り込まれている。救いのない世界で何度も死にかけ死なせかけながら、それでも悲劇にさせないあたりに作者の優しさを感じた。

だが、それだけにあの最終巻は、あの結末は受け入れ難い。何故最後の最後であのような片手落ちな救いをもたらしてしまったのか。あそこまで強引でご都合な救済を主人公達に与えるなら、何故倉本きずなを救わないのだ。作品中最も哀れな少女を傷心のまま、なにひとつ与えず孤独に死なせる。あまりにもひどい話だ。人を操る魔法使いがその上に存在する作家の手であらゆる幸せを奪われるなんて、実に悪趣味だ。