THE ACT OF KILLING

「共産主義者はそんなに残酷ではなかった。おれ達のほうがもっと残酷だった」

 

ジョシュア・オッペンハイマーの「アクト・オブ・キリング」を見た。1965年にインドネシアで行われた100万人規模の虐殺。その加害者たちによる、殺しの再演。

この作品はドキュメンタリーである。銀幕の向こうに立っているのは役者ではなく、全てが当事者だ。

この映画が世界に向かってたたきつけるのは、1000人殺したインドネシア人と視聴者に、何一つ違うところなどないのだという絶望的な事実だ。彼は特別な人間ではない。結果的に突出した人間にこそなったものの、ごく普通の、いやそれよりももっと親しみやすい、孫を愛し、友と酒を飲み交わすのを喜ぶ、気の良い爺さんだ。彼は異常者ではない。自らの行いを正当化しているが、その一方で負い目を感じ、悪夢にうなされる。自らの行為を「演じる」ことで客観性を獲得し、その正当性すらも半ば失う。僕はこの老人を責める気にはなれなかった。それは甘いのかもしれない。幼いのかもしれない。知らないだけなのかもしれない。その通りだろう。僕が共産主義者として引っ立てられて拷問されたなら。僕の友人が、家族が、殺されたなら。僕は彼を許す事が出来るだろうか。責めずに居れるだろうか。難しいだろう。憎しみに身を焦がし、恨みを抱いて一生を過ごすだろう。

だが、一方で。僕がその場にいたら。映画館の前でダフ屋を営み、大入りを連発するハリウッド映画のチケットで生計を立てている最中、共産主義者がアメリカ映画排斥運動をしたら。そいつらを打ち倒す絶好の口実と力を手に入れたら。僕は踏み止まれるだろうか。それもまた、難しいと考えざるを得ない。キリストは言った。罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げよと。僕は、僕たちは、この老人に石を投げる資格があるのか?

トロッコ問題というものがある。このまま進むと五人の作業員が轢かれて死ぬトロッコの分岐器の前にあなたが立っている。分岐器を起動すれば五人は助かるが、進路の変わったトロッコに轢かれて一人の男が死ぬ。あなたは分岐器を動かすか? という有名な心理実験だ。僕が母にこの問いを出した時、彼女は言った。「そういう究極の選択をしなくてはいけない状況になりたくない」と。当時僕は質問への回答になってないじゃんとかそういう事を思ったと記憶している。だが、この映画を見て母の言っている事が理解できた気がする。この状況になったら、どうする? 僕がアンワル・コンゴだったら、どうする?

考えたくもない。僕は殺すのも殺されるのも飢えるのもまっぴらごめんだ。

一方で、僕はこの映画を見たときと非常によく似た心境になった経験がある。フィリップ・ジンバルドの講演「普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか」を見た時だ。この動画でジンバルドが言っているのは、まさにこの映画を通して語られる事と同じことだ。つまり、誰だって――あなただって僕だって、血も涙もない冷酷な虐殺者になりうるのだということだ。だが、とジンバルドは言う。逆に言えば誰だって英雄になれるのだ、と。

「アクト・オブ・キリング」は強烈だ。わかりやすい悪なんてどこにもいない。対立構造の正当性も誰も保障してくれない。自分自身の正しさすら揺らぐ。人によっては、これまでに培ってきた価値観をひっくり返されかねない。とんだセンス・オブ・ワンダーもあったものだ。これをいきなり見たら、相当堪えただろう。僕がある程度耐えられたのは、きっとフィリップ・ジンバルドのおかげだ。ほかの人にどれだけ効果があるかは保障しかねるが、もし「アクト・オブ・キリング」を見て後を引く何かがあるなら、彼の講演を聞いてみてほしい。少しは気が楽になるかもしれないから。数年前にニコニコ動画に投稿してくれた誰かさんには本当に感謝している。

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